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ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第15回 第4章 フォークからニューミュージックへ 1

by staff on 2013/8/10, 土曜日


 
 

 

HEART&SOUL代表 原 正行

1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。

 

第4章 フォークからニューミュージックへ 1

1974~1976年頃の日本のミュージックシーン

 この頃のヒット曲を見るとメジャーレーベルからフォークを意識した作品が増えてきます。チェリッシュの『白いギター』、中村正俊の『ふれあい』、布施明の『積み木の部屋』等、アコースティックギターサウンドを前面に押し出してマイナーコードが多いのも意図的な受け狙いを感じさせます。 逆にフォークサイドからも歌謡界を意識した作品が増えてきます。 加藤登紀子・長谷川きよしの『灰色の瞳』、ダ・カーポ『結婚するって本当ですか』、山本コウタローとウィークエンド『岬めぐり』 等。

 又、この頃から日本の音楽シーンに多大な影響を与えるヤマハ・ポピュラーコンテストの存在が大きくなります。

ヤマハ・ライトミュージックコンテスト(全日本ライトミュージックコンテスト)

 ヤマハ音楽振興会の主催で、1967年から1971年まで行われたアマチュアコンテスト。 全国各地で行われた地区大会を勝ち抜いたアマチュアバンドが全国大会に出場しグランプリを争うスタイルで、後の音楽シーンに影響を与える素晴らしいミュージシャンを多数輩出しています。 第1回目に2位になったジャックスは「からっぽの世界」で海外の模倣でない日本のロックと高い評価を得たグループ。 第2回では無名の吉田拓郎がダウンタウンスというグループで4位。(拓郎は1回目も中国大会で優勝しているが全国大会出場を辞退) 第3回目が凄くてグランプリが“赤い鳥”、2位が“オフコース”、この時メンバーの小田和正は最優秀歌唱賞を受賞。 第4回目の2位はチューリップでした。

ヤマハ・ポピュラーコンテスト(通称ポプコン)

 その後、1972年からヤマハポピュラーコンテストになりポプコンの名で親しまれました。 もっとも1969年からこの名で行われていましたが、当初はプロのためのコンテストでアマチュアの祭典になるのは第6回目の1973年から。 この名を決定的にしたのは第6回で入賞した小坂明子の『あなた』が翌年の1974年に大ヒットしてから。 ここからポプコンの名が広がりグランプリ受賞者には自動的にメジャーデビューが決定。 そして、やはりヤマハ主催の世界音楽歌謡祭の出場資格を得ることが出来るという図式が定着。 今でも活躍しているグランプリ獲得者や入賞者をざっとあげれば、 第7回グランプリ 小坂恭子、入賞に庄野真代、葛城ゆき、谷山浩子  第8回 八神純子  第9回 松崎しげる  第10回 グランプリ中島みゆき『時代』  優秀曲賞 因幡あきら『わかってください』  その後も世良正則とツイスト、佐野元春、長渕剛、チャゲ&飛鳥、クリスタルキング、あみん等のアーティストここから輩出。 どれだけ日本のポピュラーシーンに影響を与えたか知れません。 その後は1987年から“TEEN’S MUSIC FESTIVAL”に名称が変わり、2007年からは “MUSIC REVOLUTION”に変更しています。

世界歌謡祭

 ヤマハ音楽振興会の主催で、1970年から1989まで、年1回武道館で開催され、東洋の実力派の歌手を集めて行われた歌謡曲のコンテスト。東洋のユーロビジョン? と呼ばれたらしい。

 第1回目グランプリが日本でも大ヒットしたヘドバとダビデの『ナオミの夢』。 第2回が上条恒彦と六文銭『出発の歌』。 第4回小坂明子『あなた』。 第6回中島みゆき『時代』。 第8回世良正則とツイスト『あんたのバラード』など。。。 出場者の中にはミッシェル・ポルナレフ ’72年、ボニータイラー ’79年、セリーヌディオン ’82年などがいる。

 

横浜、街と風(青日記) 11

つっぱり

 ボクシング部のときは角刈りだった頭も2年になると伸びてきて最初にやったのはリーゼント。 見よう見まねでポマードをつけ櫛で前方にひさしを作り脇をなでつけ襟足をチックでかためる。 20分以上もかけて決めたのに、駅に着く頃はひさしは汗でおでこにくっつき、駅のトイレで又悪戦苦闘。 元来、猫っ毛なのでリーゼントにはむいていません。 当時はパーマをかければよいということも知りませんでした。 化粧品、コロンなども使い始めたのはこの頃で、最初はMG5、ちょっとリッチになってマンダム、エロイカ、なんかが人気でした。 ボクシング部の先輩からもらった黒いチョンバッグをペッタンコにして通学。(当時手持ちのところに白いテープを巻くと喧嘩買います、赤いテープを巻くと喧嘩売りますのサインといわれてました) 学生服のズボンはボンタン! 襟は中ラン! (ランは学ランから来ていて学生服の事。詰襟が通常より少し高いのが中ランで丈も少し長め、その上が洋ランで襟は7~8センチで丈は膝位まで、その上に長ランというのがあったそうです) そんな格好で通学すると即座に「てめえ、いきがってんじゃねえ」と因縁をつけられました。 特に東横線は、K館高校とT中・高校がしょっちゅうおいかけっこしていて常にそんな格好をしている連中の戦場でした。

不良

 2年になりヒマな時間が増えると、家族が留守がちな我が家は地元のワル仲間のたまり場になっていて、一般的に不良のやることの殆どをこの時期に経験しました。 250CCバイクに乗ってすぐ暴走族の集会と呼ばれるものにも参加しましたが、2回だけで嫌気がさし集団で走ることは自分には合わないと思い、いつも1人、若しくは2人位でバイクを乗り回していました。 2年の終わり頃は普通の髪型、普通の格好でくらしていました。

軽音

 高校1年の時、高校の同じクラスに和久井光二がいました。 和久井は、インディーズの草分けで、ミュージシャンとして活動し現在は音楽評論家として大活躍。 レコードコレクター誌などの音楽誌に執筆。 最近では20世紀少年の浦沢直樹氏と対談集『ディランを語ろう』、『ビートルズ・クロニクル』など多数出版している同級生の中では出世頭。 和久井はブラスバンド部に所属していて、始めて会った時、ビートルズで話が合ったと記憶しています。 やがて仲良くなりお互いの家に遊びに行くようになって、やがてバンドを組むことになります。 和久井の家は戸塚にあるでっかい豪邸で、壁にずらっと並ぶレコード棚に仰天。 ビートルズや洋楽ロックのレコードはもとより、日本のフォークやロックのレコードまで、レコード屋並みに並んでいました。 又、彼は、この頃からオリジナル曲を書いていて、自作の詩のノートを持っていました。 お互いの中学時代からの音楽仲間を集め、当時流行っていたダブルリードギターのウイッシュボーンアッシュなんかをレパートリーにして、文化祭などに出ていました。 やがて2年の終わりごろ、和久井と2人で練習場所ほしさに、美術の先生かなんかを口説いて顧問に仕立て上げ、武相高校で初めての軽音楽部を設立しました。 確か3階の階段脇にあった狭い物置部屋を改造して、部室に仕立て上げドタバタやってました。 最近聞いたところによると、今は立派な軽音になったいるそうで、実は私達が創立者でした。

HEART&SOUL代表 原 正行)

 

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