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セカンドライフ列伝 第13回 フィンセント・ファン・ゴッホ

by staff on 2013/10/10, 木曜日

榎本技術士オフィス/榎本博康

第13回 フィンセント・ファン・ゴッホ

かつて宗教者として民衆に寄り添うことを実践した炎の画家

 今回は画家のフィンセント・フォン・ゴッホ(オランダ;1853.3.30~1890.7.29)です。日本人のゴッホ好きは大変なもので、かく言う私もアムステルダムのゴッホ美術館を訪れたことがあります。カフェのランチがおいしかった。いや、圧倒的なゴッホの作品群に感動しました。また日本の浮世絵の模写には、彼の食い入るような眼差しを感じます。いわゆる印象派の時代に生き、スーラらの点描画の技法に影響されつつも、後期印象派と一括しきれない独自の画風を確立し、キュビズムやシュールレアリスムまでをも準備したと後年に持ち上げられ、しかもそのような流れを超越した存在になりました。

 しかし生前のゴッホは評価されず、生存中に売れたのは1888年11月に制作した「赤いぶどう畑」の1点だけ、400フランだったそうです。死の5か月前の展覧会に出品したもので、現在はモスクワのプーシキン美術館に所蔵されています。実はプーシキン美術館も訪問したことがあります。休日の市民の長い列に並んで館内入りましたが、その時はこの絵には気づきませんでした、残念。

 彼は最初から画家を目指したのではありません。それは何とも遅い26歳と言われています。それまでの彼は宗教家を目指していました。しかし不適正と断じられて、その道を断念したのです。

 そのようなゴッホの魂の軌跡を辿ってみたいと思います。まず彼の名前の表記ですが、どの国、どの地方の発音を採用するかでずいぶんと違うようですが、ゴッホ研究の第一人者である、二見史郎氏の表記にならい、標題のようにしました。また弟のテオに対して、フィンセントと書くべきでしょうが、ここではゴッホで通します。さらにわずか37年の生涯にもかかわらず、オランダ、ベルギー、イギリス、フランスの各地を転々と移り住みます。それを正確に追うと却ってストーリーがぼやけるので、時に大幅に割愛しました。この小文は伝記ではないことをご承知下さい。また多くを二見史郎先生の著書に依拠しましたが、例によって私の誤解と妄想が混入していますのでご注意ください。

 私が死ぬ時に、その部屋にあれば嬉しいと思っている絵画は2点、カンデンスキーの「穏やかな飛躍」(1944年)とゴッホの「アルルの寝室」(第1バージョン、1888年、検索⇒「ファンゴッホの寝室」)です。

家庭環境と生い立ち

 祖父は同じ名前のフィンセント・ファン・ゴッホ(1789~1874)で高名な聖職者でした。彼は6男5女を得ましたが、父はその5男でプロテスタント牧師テオドルス・ファン・ゴッホ(1822~ 1885)です。所が伯父さん達の職業が偏っていて、長男ヘイン伯父がベルギーのブリッセルの画廊主、四男のセント伯父がオランダのハーグの画廊主、六男のコル叔父がアムステルダムの画廊主でした。また二男のヤン伯父は1860年にカシュロット号船長として長崎、江戸、横浜等に寄港し、日本文化に大いに触れていたのです。

 とても名家なのですが、父の教区のオランダ南部にはプロテスタントの信者が少なく、貧しい生活であったそうです。ゴッホの兄弟は男3人、女3人であり、4歳下のテオが、後にゴッホの全面的な支援者となるのでした。幼い頃からゴッホは気難しい子供だったようです。最初は村の学校に通ったのですが、農民の子たちの影響で粗野になって困ると両親が考え、家庭教師をやとい、また11歳で寄宿学校に入り、さらに他の寄宿中学校で学びましたが、学業を1年残して家に帰ってしまいました。その理由はわかりません。約1年を親元で過ごした後で、就職します。

第1の人生~画商の徒弟

 1869年7月に16歳でオランダの画商、ビーグル商会のハーグ支店に徒弟として就職します。元はセント伯父さんの店でしたが、ビーグル商会と合併して、ハーグ支店となった店です。

 1872年9月に、弟のテオは兄を訪問しました。ハーグ郊外の曳船道(運河の船を陸から曳いて遡上するための道)を散歩していてにわか雨に遭い、風車の粉ひき小屋で雨宿りをしながら、一緒にミルクを飲みました。兄19歳、弟15歳のことで、この時から兄弟のきずなが強まり、以降濃密な手紙の交換が始まったのです。我々がゴッホの生涯を詳しく知ることができるのは、テオがその手紙を保管していたことに依っています。

 所で去る4月の佐賀マラソンに参加しました。佐賀平野は米どころで、水路が丁寧に整備されています。そこだけ見れば、まるでオランダのようだと感じました。丁度雨も降ってきて、この若い兄弟の大切な思い出を、自分のことのように反芻しました。

 後の1873年1月に、弟のテオがベルギーのブリュッセルのビーグル画廊に就職しますが、ここはヘイン伯父さんの店だったものをビーグル商会に売却したものです。兄弟とも縁故就職でしたが、一方画商という商売の性質から、近親者でないと信用の懸念があるのかもしれません。

 同じころ、ゴッホはもう一人の画廊の叔父さん、アムステルダムのコル叔父の店を訪問し、国立美術館が建設される(1885年完成)という話を聞きました。後年、そのすぐ横にゴッホ美術館ができるなど、想像もしなかったでしょう。

 所がどうもゴッホの勤務状態の評価は良くなかったらしく、ロンドン支店への転勤が決まりました。道中の途上で立ち寄ったパリのグービル商会本店、支店の立派さに驚き、5月にロンドンに赴任しました。もう20歳になっていました。ロンドン支店には画廊がなく、複製画の販売が主だったようです。この頃に「20歳の恋」と後に呼ばれる騒動があったようですが、過去の脚色もあるようで、実ははっきりしないのが実情です。しかし、それがあったことは事実のようで、ゴッホ・ファンとしては喜ばしいことです。最近はロンドンのワイン商の娘、カロリーナというのが定説です。

 ゴッホはその後数か月毎にロンドンとパリの間で転勤を繰り返すのですが、ついに1876年3月にパリでクビになってしまいました。ゴッホは自分勝手、店は利益優先、いろいろとお互いに理由はあるでしょうが、いずれにしろ彼には合わない職場でした。両親はがっかり、ゴッホは新聞広告で仕事を探す。結局青春の大切な7年を空費して23歳になっていました。

第一の人生~聖職者への道

 失意の1876年は牧師の手伝いもして聖職者への道を考え始めました。そして年末にオランダの父の元に帰りましたが、そこでセント伯父を通じてある書店主がゴッホを雇っても良いということになりました。書店主の息子はパリのビーグル商会に勤めているので、実はこれもコネでした。

 書店には勤めたものの、暇さえあれば聖書をフランス語、ドイツ語、英語に翻訳し、教会はプロテスタントだけではなくて、カトリックを含む他の教会にも行って、神を見出そうとしたそうです。

 どうしても聖職者への道を断ちがたく、アムステルダムのヤン伯父(当時は船を下りて、海軍造船所長官)の好意で部屋を提供されて、神学部の受験勉強を始めました。しかし科目はギリシャ語、ラテン語、数学、歴史、地理等と多く、生易しいものではありません。あの親父が合格したんだから、息子の僕だってそのくらいは、とは行きませんでした。

 1878年にベルギーのブリュッセルでフランドル養成学校に3ヶ月の試行入学をしました。ここはオランダの6年以上に対して、3年課程であり、また全課程を修了しなくても福音伝道師の地位を要請できるという便利な学校です。しかし3ヶ月後に在学の延長は否定され、無料聴講だけは許されました。しかし生活費がありません。既に貧しい人々の救済に道を見出そうとして、やや極端な行動が出始めていたゴッホは、ベルギーの炭鉱地帯であるボリナージュ地方に赴き、伝道活動を開始しました。

 その熱心さが評価されて、1879年2月から有給で半年の伝道活動を認められました。最初はきちんとした身なりで、プロテスタントの集会で立派な説教をしていたそうです。しかし炭鉱の劣悪な労働現場を訪問し、また4月にあったガス爆発の大惨事での懸命な救助活動を経て、ゴッホは全く外見が変わってしまいました。服も金も貧しい人々に与えてしまい、自分はボロボロの服で歩き回っていたということです。彼はイエス・キリストのように弱者に寄り添いたいと行動したのですが、それは伝道委員会が認めることのできないことでした。要するに献身は大切だが、権威こそがもっと大切で、寄り添いすぎてはいけないのです。契約は更新されず、ゴッホは伝道師として挫折しました。3年間の悪夢であったと言うべきでしょうか。

第二の人生~画家としての修業(その1:1880~82)

 この地上に自分の居場所は無いのか。家族に負担をかけるばかりで、役立たずの余計者なのか。26歳のゴッホは、画家への道をひとつの光明としつつも、こんな思いに沈んでいました。1879年8月に弟のテオがパリ出張の途中で、ベルギーの兄を訪ねて多くの話をし、大きな安心を得ました。しかし金の無いゴッホは徒歩でフランスに入り、農民たちの姿に描くべき対象を見出しつつありました。ゴッホは自習で描き始めたのです。

 1981年1月に弟のテオはパリのモンマルトル支店支配人に昇進しました。すると両親から、お前がもっと金銭的な援助を兄にしてもいいだろうと言われます。以降、テオの負担は続くのでした。28歳のゴッホはエッテンの両親のもとで素描に精を出すのですが、いとこのケイが8歳の男児を連れて同居した時に、彼女に惚れ込んでしまいました。父は激怒し、ケイはアムステルダムに帰ってしまいました。

 また既に著名な画家モーヴの助けも得てデッサンを続けました。モーブは従姉の結婚相手です。(検索⇒「アントン・モーヴ」)彼から道具をもらい、油彩を描き始める時が近づきました。所がクリスマスの日に父と言い争いになり、出て行けと言われて、言葉のままに出て行きました。そして勝ち目の乏しい賭けと言われながら、オランダのハーグでアトリエを借りました。モーヴの金銭援助によるものです。またビーグル商会ハーグ支店の先輩テルステーフにも頼りました。もちろんテオからも。しかし先輩テルステーフは画家としてのスタートが遅すぎる、それにまず自分で金を稼ぐべきだと主張します。しかしこの先輩は冷たいのではなく、心底心配をしてくれているのです。アムステルダムのコル伯父さんも加わって相談しているらしく、やはり自分で稼ぐべきと言う一方で、12点の素描を注文してくれました。

 1982年のハーグでゴッホは月に100フラン以上を使っていたといいます。1フランが2フンデル、そして労働者が週給10フンデルということなので、また当時は動労者の賃金が極めて安かったであろうことから、月に10万円以上を使っていたということでしょうか。モデル代を払うとすぐに無くなりました。そんな状態の時に、身重の女を家族ごと連れてきたのです。作品名から「悲しみの女」と呼ばれるクリスティーン(シーン)です。テオに月に150フランにしてくれと懇願し、テオは何も言わずに50フランを追加しました。コル伯父さんに作品を納入したのですが、期待した50フンデルではなく、期待外れの20フンデルで、しかも商品価値が無いとの小言を貰いました。(これは結局流通に乗っていないので、売れたことになりません。)

 ゴッホは6月に淋病で入院し、一方シーンは男児を出産しました。ゴッホはイエスの誕生を得て、ナザレのヨセフとなったわけです。シーンとの同棲は1年10ヶ月に及んだのですが、ついに生活を支えきれず、別れることにしました。その間、父母からは女ものも含んだ冬服が贈られてきました。いくら衝突を繰り返しても、親の愛はいつも変わらないのです。ゴッホ、ぐっと来た。

第二の人生~画家としての修業(その2:1883~85)

 実は本稿の小見出しはゴッホ美術館HPの解説区分に従っています。ここで30歳のゴッホは荒野(あらの)に向かったのでした。かのイエスもヨハネから洗礼を受けたのは30歳頃と言われています。そして荒野に出て、その試練を超えて宣教を開始します。画家として遅いと言われたって、そんなことはありません。ゴッホは彼の荒野を、オランダ東北部のドレンテ地方に求めました。そこに悪魔はなく、貧しき泥炭地の農村地帯での、彼の求める本当の人々の営みがありました。出発前にコル伯父さんに20点の習作を送ったのですが、音沙汰はありません。このヒースの野を転々として3ヶ月を過ごしましたが、50年前のミレーなどのバルビゾン派の感覚が滲みこんだようです。そして資金が尽きて、1883年の末に父母と同居しました。父は、ゴッホの苦境は自分自身の常軌を逸した行為にあると気付いてほしいとするのですが、一方アトリエを準備してくれました。ゴッホは弟のテオに、これからは作品を定期的にそちらに送るから、それ以降は君から受け取る金は私が稼いだ金であることにしたいと、一方的に通告します。かなり焦っているようですが、一方テオは印象派の時代に、そんな暗いバルビゾン派のような絵では売れないと分かっています。ふたりの間にギャップがありました。画商として優秀なテオには月収1000フラン(すごい!)という転職話がありましたが、それを断ってビーグル商会に留まる決断をしました。

 1885年を迎えました。3月に父はテオ宛の手紙に「ゴッホには何とか成功してほしい。」と書きました。その翌日の帰宅時に戸口で倒れて、そのまま帰らぬ人となりました。未亡人となった母には、教会のきまりで1年間は現在の住まいに留まる権利があるのですが、やがて出ていかなければなりません。ゴッホは家族の中で真っ先に出て行くべき者でした。この年の11月にベルギーのアントウェルペン(英語ではアントワープ)の港町で部屋を借りて、そこで日本の版画を飾りました。アカデミーで久しぶりに独学ではない絵の勉強をして、デッサンの欠点を自覚しました。食費をきりつめていたためか、急に衰弱して歯が次々と抜けたのです。

第二の人生~パリ時代(1886~88)

 パリではテオと同居しました。ゴッホが最も安定した生活をした2年間です。彼は後期印象派と後に括られる画家たちと交流をしました。アンリ・ド・トゥルーズ=ロートレック、エミール・ベルナール、シニャック、点描画のスーラ、ゴーガンなどです。特に15歳も年下のベルナールとは仲が良かったのでした。この時代はテオと同居のため、手紙が少なくて伝記作家が困る期間でもあります。モンマルトルやムーランの丘の風車の風景、日本の浮世絵の油絵模写などの作品が残っています。

 彼はここで初めて、印象派とは何かを理解したと言われています。この頃の絵はそう厚塗りではなく、絵によっては画布が透けて見える部分があります。スーラの点描技法を取り入れつつも、彼は厳密ではなくて、ドットと共にパッチを用いて、うねるような運動感を見せ始めていました。作品は明るくなり、テオはオランダに帰省した時に、兄さんはうまくなっていると母に報告しました。浮世絵の構図や平面化、色の対比方法なども徹底的に勉強したようです。

 ゴッホは大変な読書家でしたが、この1886年にエミール・ゾラが「制作」を発表しました。「画家は理想の女を描こうと苦闘するが、やがて敗れて自殺する」という粗筋で、これは印象派の画家たちに困惑を与えました。要するに評判が良くなかったようです。ゾラはセザンヌと幼友達であり、ゾラはこの作品で創作の苦しみ、常に打ち負かされることが宿命である芸術家の戦いを描きたいとの執筆意図があったといいます。ゴッホも新聞連載中から読んでいて、深く興味を持っていました。

 この間、弟テオは自分の画廊を持ちたいと、伯父さん達に融資を打診したのですが悉く断られ、落ち込んでいました。さらにヨハンナ(愛称ヨー)という女性に結婚を申し込むのですが、これも簡単に断られて、どん底でした。

 1888年2月18日に、ゴッホはベルナールに手伝ってもらってテオのアパートを日本版画で飾り、画架に自分のカンヴァスを架けて自分がいるようにしました。翌日に兄弟はスーラのアトリエを訪問し、そして兄はアルルに旅立ったのでした。

第二の人生~アルル時代(1888~89)

 ゴッホは1888年2月20日に南フランスのアルルに着きましたが、珍しい大雪の日でした。その山々が雪を被った姿は、日本の冬景色のようだと喜び、明るい未来の予感に心が躍りました。

 この頃、死に関するゴッホの興味深い記述があります。「野菜につく幼虫は自身が変態してコガネ虫になる未来を知るまい。我々人間も死によるメタモルフェーゼ(変身、変態)を正確に知ることは難しい」と。またゴッホは画家が画商の支援で相互扶助する共同組合をテオに提案しました。もちろん提案止まりですが、ゴッホの胸の奥に灯り続けた理想でした。

 ゴッホの制作は飛躍的に進みました。有名なアルルのはね橋(検索⇒「アルルの跳ね橋」)を描きました。この絵には故郷オランダの風景と、浮世絵の世界が重なりあっているとの見方があります。果樹園の連作も描きました。自由気ままに筆を用いていることを、ベルナールへの手紙に嬉しそうに書きました。ひとつの境地を開いたことを報告したかったのです。この地方はミストラルという北の山地から吹き降ろす猛烈な風が吹き抜ける地域です。果樹園にはこの風を防ぐ垣根があり、ゴッホはこの垣根の植物を削って葦ペンを作り、巧みなタッチでのデッサンを描くことに成功しました。35歳になっていました。

 家賃が高いので、後に「黄色の家」と呼ばれる家の2部屋を借りることにしました。その頃、ゴーガンがテオに窮状を訴えてきました。それを知ったゴッホは、それならここアルルに来て共同生活をすればいいと提案しました。ゴッホは北の丘で眺望に富んだデッサンに励み、南の地中海で海の色の変化に感動しました。そしてベルナールに自分が発見した色彩論を伝えようとします。そして浮世絵師のように、すばやく素描をすることに心がけましたが、それがここアルルではできたと喜びます。画家たちがここで助け合って安く暮らし、また画業で影響しあえればと、テオに書きました。

 6月には炎天下の麦畑での制作に励みました。しかし雨が降り続いた日には、アルジェリア植民地軍の歩兵を描きました。有名な郵便夫の絵(検索⇒「ルーランの肖像」)も描きましたが、共に平凡だが存在感のある肖像画です。素描は蚊に食われ、北風に吹かれながらの苦行でしたが、その素描には葦ペンが風に操られた跡があるのかもしれません。また葦の先端をつぶして筆のような効果も狙うこともしました。彼の素描は油絵のための下書きという枠を超えて、大きな作品世界を形成していったのです。

 そして8月にひまわりの連作を描きました。(1枚は芦屋の空爆で焼失しました。)その中で、技法の単純化を心がけました。つまり抽象への入り口に立っていたのです。そして書きました、「僕は何かしら永遠なものを具えた男たち、女たちを描きたい。かつて永遠なものは後光が象徴となっていたが、われわれは光の放射そのものにより、我々の彩色の揺らめきによってそれを出そうと努めている。」つまり技法としては補色の対比、混合や近い色彩同士の揺らぎであるということです。そして「夜のカフェ」(検索⇒「夜のカフェ」)や「夜のカフェテラス」(検索⇒「夜のカフェテラス」)といった作品で、それを実践しました。

 さてゴーガンとの共同生活を待ち焦がれるのですが、病気などの理由でなかなか来ません。ゴッホは過労で倒れるほどに制作に打ち込んでいました。やがてゴーガンから荷物を送ったとの連絡がありました。ゴッホは自分のアルルの寝室の絵を描きます。(検索⇒「ファンゴッホの寝室」)それは自分のベッドで、左手のドアの先がゴーガンのための部屋だといいます。ゴッホはゴーガンを迎えるために、アトリエと台所にガス灯を引きました。

 1988年10月23日、ついにゴーガンがやってきました。この頃、ゴーガンの絵は少しは売れ始めていました。彼の妻はコペンハーゲンに居て、送金することができたのです。所で既に南方への憧れを抱いていたゴーガンにとって、アルルの風景はけち臭いものに思えたのです。二人はそれぞれ制作し、また互いの肖像を描き、そして意見は対立しました。12月に緊張緩和の狙いもあって、西に70キロのモンブリエのファーブル美術館を訪問しました。しかし帰ってから、議論は一層の熱を帯びることになったのです。

 12月23日の夜、ゴッホは自分の左耳を剃刀で切り取って、娼婦に手渡しました。このことについて、ついに本人から語られることは無かったといいます。何たる錯乱でしょうか。ゴーガンはテオに電報を打つと、ゴッホには会わずにパリに帰りました。アルルには冷たい雨が夜も昼も降り続いていた日々でした。ゴーガンに代わりに、肖像画の郵便夫が妻と共に尽くしてくれました。その後もゴーガンからは、家族が知りたいようなことは、一切語られることは無かったようです。

 テオがパリに帰ったあと、近所のプロテスタントの牧師が消息を伝えてくれました。担当医からは、要するに完治は難しいという見立てが示されたのです。しかし1989年1月4日に、郵便夫はゴッホを病院から黄色の家に連れ出し、4時間をそこで過ごしました。自分の作品に囲まれてゴッホは満足し、おとなしかったと、テオに書き送りました。1月7日に退院し、担当医が付き添って黄色の家に帰りました。一方テオは一度は振られたヨーと婚約をしました。ヨーは後にテオ宛の膨大な手紙をもとに、ゴッホの伝記を書くことになります。

 ゴッホは担当医の肖像を描き、そして耳に包帯をした自画像を描きました。しかし残念なことに郵便夫はマルセイユに転勤になってしまいました。赴任先は物価が高いので、単身赴任すると言います。そしてやっとゴ-ガンから手紙が届いたのですが、自分のことばかりが書いてありました。それでもゴッホは、彼を批判はしても、お互いに好きなのだからいつでも一緒に始められると思っていると、テオに書いたのです。

 2月7日、例の牧師からテオに連絡が、兄さんは病院の独房に収容されましたと。ここ数日、毒を盛られるとの絶えざる不安にさいなまれていて、怖がった近所の人が警察に連絡をしたのでした。2月17日に仮退院をします。

 2月26日に、牧師はテオに、兄上は再度病院に入れられたと連絡をしました。近所の人々が署名して、市長に狂人の隔離を要請したのでした。パリから画友のシニックが見舞いに来て、テオに快復の様子や医者の意見を伝えました。また黄色の家に一緒に行ったのですが、近所の人の中でも、署名しなかった人たちがいたことを知り、元気づけられました。3月30日、36歳の誕生日を迎えました。郵便夫がマルセイユからわざわざ会いに来てくれ、身の回りのことの処し方を相談しました。行き場を失ったゴッホは、担当医の持ち家の小さな二間を借りました。アルジェリアの外人部隊に入ることができれば、生きるには楽かもしれないとも思いました。

 テオは4月18日にアムステルダムで結婚式を挙げ、パリの自宅に新居を構えました。

第二の人生~サン・レミの精神病院時代(1889~90)

 サン・レミはアルルから北東に20キロの所です。5月8日に牧師に付き添われてこの私立病院に入院しました。新婚のテオとスーから手紙が届きました。テオは、送ってもらった絵の中で、「ゆりかごを揺する女」と「ルーランの肖像」がとりわけ好きだ、時が経って厚塗りの絵の具が落ちつけばとても美しい作品になり、きっと評価されるだろうと。このルーランは郵便夫であり、女はその妻です。ゴッホは、このゆりかごの左右に、ヒマワリの絵を配置すれば、子供がもっと輝くだろうと、その配置のスケッチを書き送りました。

 ゴッホは病院でアトリエを一室もらいました。最初に描いたのは「イチハツ」(アヤメ科の紫の花の多年草)の群生でした。ゴッホの作品は、大きなうねりなど、やや過剰な風合いを帯び始めていました。病室の窓から見た風景をもとに「星月夜」(検索⇒「星月夜」)を描き、そして「糸杉」が描かれました。

 しかし7月中ごろに発作の再発が。快復が遅く、ゴッホが次に手紙を書くことができたのは8月22日でした。そして仕事を再開しました。テオはパリのアンデパンダ展に「イチハツ」と「星月夜」を出展しました。

 ゴッホは例の「アルルの寝室」の模写を描きました。どうしても描きたかったのだといいます。さらに母のためにも複写を描きました。普通画家が同じモチーフで複数の絵を描く場合に、同時期に何枚も描きながら構図や色彩を試して、納得の行く作品に仕上げていくものですが、1年以上も経ってから複製するというのは、極めて変わっています。(流行画家が売れる題材を繰り返し描くのとも違います。)ゴッホにとって特別な絵なのです。

 ゴッホの調子はずっと良くなり、創作が活発なので費用ばかりがかかってしまうというジレンマに悩みました。10月には絵の具と画布が無くなって、素描で我慢をしました。そして来年にブリュセルで開かれる20人会に招待され、例の「赤いぶどう畑」を含む6点を出すと回答しました。

 アルルではひまわりでしたが、ここサン・レミではオリーブ畑が主なモチーフになりました。ゲッセネマの園(オリーブの庭園)のキリストを描く必要は無い、オリーブを描けばそこに、十分に宗教的なモチーフを表現できる。ベルナールがそのような既存の題材を描いたことに、激しい意見を届けました。彼は丁度30号のオリーブを5枚も描いた所でした。

 そしていつも恐れているクリスマスの頃に、再び発作が起きました。さらに1月20日頃にまたも発作を起こしました。でも良いことも、1月31日、テオの子供が生まれ、2月19日に「赤いぶどう畑」が売れたと知らせがありました。

 しかし2月22日にアルルに出かけてまたも発作、何があったか記憶がありません。4月まで具合が悪い状態が続きましたが、5月16日に退院し、パリのテオの家に着きました。そしてオーヴェール(パリの北西30キロ)に向かったのです。

第二の人生~オ―ヴェール時代(1890)

 ここではガッシュ医師を頼りました。医師はピサロの家庭医で、セザンヌも一時期近所に住んで世話になったという人です。ガッシュ医師はゴッホに「思いきって大いに仕事をしたらいい。これまでのことなど、一切考えないことだ。」と励ましました。そしてゴッホの絵にほれ込んで、「医師ガッシュの肖像」を描いてもらいました。医師はパリのテオを訪ねて、兄さんは治るだろうと伝えました。テオは次の日曜日に家族連れでオーヴェールを訪問し、医師の家でにぎやかな昼食をとって、日帰りで帰宅したのですが、実に幸せな時でした。

 6月下旬になると、ゴッホは縦50センチ、横100センチの標準外に横長なカンヴァスで何点かを描きました。晩年の特徴的な作品群です。

 テオが家に来てほしいと再三言ってきたので、7月6日に日帰りでパリを訪問しました。多くの友人が集まったと言うのですが、ゴッホは疲れてはやばやと帰り、会えなかった友人もあったようです。

 ゴッホは7月27日の夕方、宿の食事時刻に帰って来ませんでした。夜の9時頃に傷を負って帰ってきました。胸に拳銃をあてて自殺を図ったのです。そして29日に、テオらに看取られました。

 その後テオも不調となり、翌年1891年1月25日に死去、兄弟の墓はオーヴェールの墓地で仲良く並んでいます。

一作会

 ゴッホは天国らしきところで、人を待っていました。すると日本人らしき男Mがやってきます。

G「君は享年37だね。」
 M「え、どうして分かるのかなあ。」
 G「だって、僕と同じ影の長さですよ。」
 M「そうですね、こうやって並んで立つと、幾何学的に明快ですね。」
 G「僕は、画家のミレーを心から尊敬していて、精神病院で彼の「一日の四つの時」を模写しました。日本ではメナード美術館に僕の模写がありますよ、「一日の終わり」だけですが。一日の光の表現を学びました。だから我々の影は37歳だと分かるのです。そうそう名乗るのが遅くなってしまいました。僕はフィンセント・ファン・ゴッホです。どうぞよろしく。」
 M「はい、よろしく。私は宮澤賢治です。四つと言えば、私の場合は方角です。東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ。」
 G「雨ニモマケズ、ですね。」
 M「でも最近、雨ニモマケズに四つの時が加わりました。作品というものは、作者の死後も一人歩きするものなのですね。」
 G「絵の価格が高騰するのではなくて、イメージが拡大するのはすばらしいですね。」
 M「画家の司修さんが、雨ニモマケズを絵本にしてくれまして、その西ニツカレタ母アレバの挿絵は、四つの時を示した時計が描かれています。8時15分、11時02分、5時46分、14時46分です。」
 G「日本の方々は、決して忘れることのできない時刻ですね。」
 M「そうです。そして世界の人々にも、です。」
 G「ところで僕の作品は、生前にはとうとう1枚しか売れませんでした。いや、1枚も売れたと感謝すべきでしょうね。」
 M「僕が原稿料をもらったのは、雪渡りという、狐の幻燈会の童話だけでした。」
 G「そう、だから僕は君を待っていたのですよ。」
 M「……」
 G「<一作会>に入ってください。生前に、一つだけ作品でお金を得た芸術家の会です。」
 M「一作でも世に出ることは、大きな可能性があるということですね。」
 G「そうです。優れた芸術家が一作会に入ることなく、経済的に恵まれるよう応援してあげたいのです。」
 M「会員を増やさないことを目的とする会ですね、それは愉快ですね。」
 G「そう、愉快でしょう。」
 ふたりは肩を並べて歩き出しました。同じ長さの影も一緒について行きました。

※本稿に着手する前から、最後に宮澤賢治に登場願うつもりでした。ところが調査すると、絵本画家の伊勢英子氏がすでに「ふたりのゴッホ」として以前から注目し、作品制作のひとつのバックボーンにしていることを知りました。参考文献2)に詳しくその思いが語られています。

主な参考文献

  1. 二見史郎:ファン・ゴッホ詳伝、みすず書房(2010.11)
  2. 伊勢英子:ふたりのゴッホ、新潮社(2005.7)
  3. ナタリー・エニック、三浦篤訳:ゴッホはなぜゴッホになったのか、藤原書店(2005.3)
  4. ゴッホ美術館 http://www.vangoghmuseum.nl/
  5. 詩・宮澤賢治、絵・つかさおさむ:雨ニモマケズ、偕成社(2012)

 

自殺を図った後の、包帯のある自画像。切ったのは左の耳です。<パイプの自画像模写図
自殺を図った後の、包帯のある自画像。
切ったのは左の耳です。
<パイプの自画像模写図>

 

背広を着た写真がありました。全く普通のビジネスマンに見えます。<背広のゴッホ模写図>
背広を着た写真がありました。
全く普通のビジネスマンに見えます。
<背広のゴッホ模写図>

榎本博康(えのもとひろやす) プロフィール

榎本博康(えのもとひろやす)  

榎本技術士オフィス所長、日本技術士会会員、NPO法人ITプロ技術者機構副会長

日立の電力事業本部系企業に設計、研究として30年少々勤務し、2002年から技術士事務所を横浜に開設して今日に至る。技術系では事故解析や技術評価等に従事する一方で、長年の東京都中小企業振興公社での業務経験を活かした企業支援を実施。著作は「あの会社はどうして伸びた、今から始めるIT経営」(経済産業調査会)等がある。趣味の一つはマラソンであり、その知見を活かした「走り読み文学探訪」という小説類をランニングの視点から描いたエッセイ集を上梓。所属学協会多数。

 

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ヨコハマNOW 動画

新横浜公園ランニングパークの紹介動画

 

ランニングが大好きで、月に150kmほど走っているというヨコハマNOW編集長の辰巳隆昭が、お気に入りの新横浜公園のランニングコースを紹介します。
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横浜中華街 市場通りの夕景

 

横浜中華街は碁盤の目のように大小の路地がある。その中でも代表的な市場通りをビデオスナップ。中華街の雰囲気を味わって下さい。
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