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ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第16回 第4章 フォークからニューミュージックへ 2

by staff on 2013/10/10, 木曜日


 
 

 

HEART&SOUL代表 原 正行

1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。

 

第4章 フォークからニューミュージックへ 3

シンガーソングライター

 1969年ウッドストックが終わり、1970年ビートルズの解散が決まり、世界の若者の中に一つの時代が終わったという感じが漂っていました。世の中は、ベトナム戦争は泥沼状態、東西冷戦まっただ中で音楽で何かを変えよう、政治すらも音楽で変えてゆくんだという夢も打ち砕かれ、人々の心は打ちひしがれたような気分になっていたようなそんな時代でした。そんな時、流れていたのが ♪君の苦しみの河を越える橋になりたい♪ と歌うサイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」。苦しみ悩んだ時、聖母マリアが現れて知恵あるお言葉を与えてくれる“なすがままになさい”と歌うビートルズの「レットイットビー」。こんな癒しの歌がヒットしていました。

 それら癒しの歌の中でも1971年7月に全米No.1になったジェームステイラーの「You’ve got a friend(君の友達)」のヒットは特別でした。“君が暗い気持ちで沈み、まわりの人たちでさえも君につらく当たる時そんな時でも僕の名前を呼んでくれればいつだって飛んでゆく、だって君の友達だから”と歌われるこの歌は実はキャロルキングの作品。

 キャロル・キングは60年代初頭、夫で作詞家のゲイリーゴフィンと共に「ロコモーション」をはじめ4曲の全米No.1のヒットを放ち、数知れない名曲を世に送り出した作曲家でした。’58年に2人は破局を迎え離婚、一人になったキャロルは、’70年作曲のみならず作詞をも手がけボーカルも自ら行ってソロアルバムを作成。完成したアルバム「つづれおり」は発売されるや15週間連続全米No.1を記録。全世界で1,500万枚を売上げこの年のグラミー賞4部門を獲得してしまいました。これ以降、シンガーソングライターという言葉が使われ、音楽業界は彼女の様な歌って曲が書けるアーティストを探します。つたない歌でも自分で書いた歌詞とメロディを自ら歌う方が聞き手に伝わる、という事が一般的になっていきます。彼女こそがシンガーソングライターが世に出る先駆けでした。

 これらの現象は日本にも多大な影響を与え1972年頃からシンガーソングライターとして売り出す人が現れるようになります。その中で登場したのがユーミン、荒井(松任谷)由実でした!

ユーミン デビュー

 ユーミンは54年1月生まれ。6歳でピアノを初め、14歳で作詞家デビュー、17歳で作曲家デビュー。初めは作曲家志望でしたが、アルファレコードを設立した村井邦彦氏に自ら歌うよう説得され、1972年「返事はいらない」でシンガーソングライターとしてデビューします。しかしこのシングルは300枚しか売れなかったそうです。翌年1枚目のアルバム「ひこうき雲」がリリース、なんと1年の年月をかけて製作されました。このアルバムからじわじわと人気が浸透していきます。バックはキャラメルママ。当時の日本で最高の腕利きミュージシャンの集まりでした。はっぴいえんど解散後の細野晴臣がベース、ギターが同じく鈴木茂で、ドラムは林立夫。そしてキーボードが現ご主人の松任谷正隆。そうそうたるメンバーで、今聴いても全く遜色ない出来です。ユーミンの詩の世界は独特で、当時四畳半フォークに代表されるように生活感のする詩が主流だった時代にあえて叙情的な詩の世界をアプローチ。美術専攻だった彼女の詩は、絵や映像を連想させるユーミンならではのものと言えるでしょう。又、コード進行も斬新で、ベースと和音が分かれる分数コードはもちろんのこと、ひこうき雲のサビのコードや中央フリーウエーの斬新なコード展開など、著名なミュージシャンたちから高い評価を得ています。そして歌唱力について各方面からヘタクソと酷評されていましたが、確かにノンビブラートでぶっきらぼうのように聞こえる彼女の歌い方は、当時歌のうまい歌謡界から見れば物足りなかったかもしれません。しかし決してべたべたすることない彼女のボーカルは、逆に彼女の詩の世界を聞くものにとって自由な想像をすることを助けています。逆にこれみよがしな感情表現で歌われては世界が狭くなってしまうでしょう。今ソロアルバムを改めて聴いてみると、細やかな歌唱表現に驚かされます。これがうまい歌でなくて何がうまい歌なのでしょう。

 正にユーミンは日本の女性シンガーソングライター草の分けといっても過言ではないでしょう。

 

横浜、街と風(私の高校音楽編) 2(17)

アマチュアバンド

 高2の頃は、学園祭や友達のイベントがあると高校生仲間でバンドを作ってはステージに立っていました。自分的にはビートルズのような曲をやりたかったのですが、そんな仲間もおらず結局他のメンバーが持ってくるザ・バンドやらロイ・ブキャナンやウイッシュボンアッシュの曲などレパートリーにしていました。

 今でこそ練習スタジオは山ほどありますが、当時は殆どなく、アマチュアバンドが練習する時、一軒家に住んでいる仲間の家で締め切って練習するか、知り合いの倉庫を借りるとか、練習も一苦労でした。発表の場も横浜にはライブハウスというものは殆どなく、自分達で貸しホールや公民館などを借り自主的にコンサートを開いたりしてしていました。和久井君の知り合いで戸塚のほうで活動していたカラスの羽根という音楽活動支援の活動グループがあり、よくロックコンサートを企画してたので、彼らの手を借りて市民ホール(現関内ホール)や横浜野外音楽堂を貸切ってコンサートを開きました。69年頃からウッドストックを意識して日本でも10円コンサートというのがありましたが、この頃は100円コンサートが主流で、これをまねして100円コンサートにしました。出演バンドも高校生仲間に声をかけて集め、一日5バンド位でチケットノルマを決めました。しかし百円くらいのチケットで高校生のガキ共がよくやれたもんだと今になって思います。

横浜野外音楽堂

 横浜に昔野外音楽堂があったのをご存知でしょうか? ちょうど今の横浜スタジアムの敷地内で、平和球場という野球場の海側にあり、うっそうとした木々に囲まれていました。ベイスターズ(当時大洋ホエールズ)が、川崎から横浜に本拠地移転に伴い、1977年9月取り壊されてしまいました。当時地元の音楽ファンは署名を募り野音をつぶすな、もしくは移転して欲しいと運動しましたが、今だにその声はつぶされたままです。

 当時さまざまなロックイベントがここで行われていて、フラワートラベリンバンド、クリエーション、外道、四人囃子、等 日本を代表するロックバンドはもちろん、アマチュアのイベントなどロックやフォークのイベントが盛りだくさんでした。自分達が企画したアマチュアコンサートもここでよくやりました。ゲストに来ていただいたのがまだ売れる前の柳ジョージとレイニーウッド! 出番になり楽屋に呼びに行くとテーブルの上には缶ビールの山。ウエスタンブーツをテーブルに乗せふんぞり返っていたジョーちゃんがOKといってステージに向かうと、こんなに酔って大丈夫かと心配になる俺達をよそに完璧な演奏を聞かせてくれました。こんなすごいロックグループが日本にもいるんだ、これが売れなきゃ日本の音楽界はどうかしていると、本気で思いましたが、それからほんの数年で彼らは「雨に泣いている」で大ヒットを飛ばし一躍スターになっていました。

友人

 高校には面白い学友がいました。S君は当時最も仲の良かった友人で、1,2年と同じクラス。喧嘩が強く2年の時同級で彼に逆らうのは誰もいませんでした。夜は地元のスナックでアルバイトしていて、16,7歳とは思えないほど大人びていました。カワサキのゼットツーというナナハンに乗っていて、よく集会にも行っていました。2年の夏学校に行くと、Sを囲んでひそひそ話し。聞くところによると、前の夜湘南の海沿いの国道でブラックエンペラー、スペクターなどの東京の暴走族400人とピエロなど神奈川、横須賀の暴走族200人による大乱闘があり、車4台が炎上、21台が大破、負傷者も多数出たそうで、S君はこの現場にいました。この当時の族の集会は、100台から200台の車・バイクが集結するのはざら。その殆どが改造車で、シャコタンにチームのステッカーを貼りマフラー(消音機)は改造されて超爆音。バイクはしぼりハンドルに旗を立てる竿をつけて、信号機などは完全無視、通り過ぎるのを待つだけで5分くらいかかる程大規模な物でした。湘南の事件は新聞、テレビなどで報道され大きな社会問題にになり、これ以降暴走族は厳しい規制がされ縮小の傾向に向かいます。又、S君がある日の昼休み、日比谷の野音でキャロルの解散コンサートがあるから今から行くんだ、と言って午後の授業を窓からエスケイプ。後になって一緒に行っておけば良かったと後悔しています。

 そんなS君は上級生からは目をつけられていて、やはり喧嘩の強かったK君と2人で下校時に3年生4,5人に取り囲まれ大乱闘。これが元でS君は退学処分になってしまいました。向こうから仕掛けてきたのにです。S君が学校をやめて数日後、授業中にけたたましいバイクの排気音とパリラリパリラリと響くラッパ音。何事かとみんなが窓に駆け寄ると、改造したバイクにまたがったS君が校門で手を振っています。頭はノーヘルメットで金髪のアフロヘアー。教師達が何してるんだー! と駆け寄ると「じゃあな、しっかり勉強しろよ!」と校門をあとにしました。粋な別れの挨拶に、みんなやんやの喝采でした。

HEART&SOUL代表 原 正行)

 

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