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セカンドライフ列伝 第14回 海野十三(うんのじゅうざ)

by staff on 2014/1/10, 金曜日

榎本技術士オフィス/榎本博康

第14回 海野十三(うんのじゅうざ)

逓信省の電気技師が抱いた見果てぬ夢のまた夢

 私が尊敬するある技術士の先輩は、佐野昌一が書いた「おはなし電気学」を子供の頃に読んで、電気という学問の魅力に目覚め、電気技術者の道を目指したとのお話を伺いました。

 また良く知られているように、宇宙戦艦ヤマトの艦長の名前は沖田十三ですが、この名前は、ヤマト作者の松本零士が日本のSF小説の先駆者、海野十三(うんのじゅうざ;明治30年(1897).12.26~昭和24年(1949).5.17)に抱き続けていた尊敬の念に由来していると言われています。

 さっさと種明かしをしてしまえば、これは同じ人物の本名とペンネームであります。一見して全く違う領域での活動をしながら、共に一般大衆のための仕事をしたという点では全く同じ姿勢とも見えます。

 このように海野十三は現在の70歳台、80歳台の人々に大きな影響を与えた作家でありながら、一時忘れ去られ、また最近になってじんわりと再評価されつつあります。特に三一書房から海野十三全集(1988~1993)が刊行されて、彼の業績の全容が掌握されました。また彼の没後50年を期して「海野十三メモリアルブック」が企画され、2000年に発行されました。監修者は彼の妻、英(えい)です。この全集もメモリアルブックも既に新刊での入手はできませんが、著作権切れの作品を電子化するボランティア活動、青空文庫が全集版などを底本として現在173作品が閲覧可能であり、また準備中のものがあります。そして青空とほぼ同数がamazonの電子ブックkindle版としてゼロ円で配布されています。

 さて、海野十三の生家は徳島の御典医の家系であり、彼も医者となることを嘱望されながらも、早稲田大学で無線通信学を専攻し、逓信省電気試験所に勤務して技術的な成果を生み出しました。その一方で創作への意欲を抑えがたく、本名とペンネームの二足のわらじを17年に亘って履き続け、ついに専業作家となりました。そこで先の大戦の勃発です。彼は海軍報道班員として南方に赴き、熱病に罹って送還されました。戦時中は戦争に協力する言動をしたためか、昭和20年8月の敗戦で一家自決を決め、友人らに実行の直前で諌められました。その後は一時海野十三の名前を控えます。その後も執筆を続けながらも、20歳台で感染した肺結核が進行し、ついに昭和24年、51歳で余りにも短い生涯を終えました。

 いつものように私の主観や勝手な妄想で史実とは異なる点が多々あるとは思いますので、いわゆる伝記とは違うものであるとのご理解の上で、お楽しみいただければ幸いです。

 なお少年期は昌一とし、成人以降は海野と呼ぶことにします。海野十三は多くのペンネームを使い分けていますが、煩雑ですのでそれは省きました。

御典医の家系

 佐野家は代々の御典医でした。明暦3年(1657年)に蜂須賀候(徳島藩藩主)からのお召しで御典医となり、連綿としてその家業を守って、海野の祖父の佐野渉に至ります。彼の父の真雄も医者であることを嘱望されたのですが、坊ちゃん育ちで好男子、遊びが派手という性質で、一向に医学に向き合わずに、税関関係の仕事に就きました。

 彼らが住んだ徳島藩の城下町は、吉野川の河口デルタ地帯にあり、例の阿波踊りが盛んな商業都市です。城の千秋閣の池は、海と連続していて汐の干満を見ることができると言われていました。海運、造船、医療、天文等の環境が、昌一少年の脳裏に深く刻みつけられたと想像できます。鳴門の渦潮の姿に、自然の摂理の背後に必ず存在する物理学的な法則を感じ始めていたかもしれません。

 所が家計を支えていた祖父が高齢で仕事に耐えなくなり、父が勤務する神戸に引っ越しました。昌一が福島小学校3年生の半ばのことでした。まずは神戸市の大開小学校に転入したのですが、以降は市内を転々としたといいます。経済的にかなり逼迫した生活であったようです。そして6年生で実母が亡くなりました。

 昌一は名門の第一神戸中学校に入学し、家族は父の勤務のため東京に引っ越しました。継母となじめないという事情もあったようです。

 中学校入学時には、級友たちに比べてかなり小柄であったようです。その後の成長で挽回はしますが、成人後の写真を拝見しても小柄であることが目立ちます。その1年生の時に、手書き同人誌を始めるという、将来を予感させるできごとがあったと伝えられています。神戸では伸び伸びと生活したのではないかと想像します。昌一が生来持っている出自の良さは、美点として作用したことでしょう。

早稲田は大学ではなかった

 さて、海野十三は大正5年の9月に早稲田大学の予科に入学します。所が期末試験を受けずに退学し、翌年の9月に再度入学するという不思議なことをしています。これは当時のいわゆる早稲田騒動で、次期学長の座を巡って学内が学生も巻き込んで2派に分かれて争ったという事件に巻き込まれて、期末試験を放棄する挙に出たからではないかと言われていますが、真相は不明です。

 さて大正8年の3月に予科を終了しますが、本科の入学が9年4月という、ここでもまた謎の空白の1年があります。

 当時はいわゆる帝国大学と私立大学とでは、圧倒的な差があったのです。帝国大学は内地に7大学が設けられましたが、この話の当時では大正7年に北海道帝国大学が5番目の帝大となった頃です。あとの4つは東京、京都、東北、九州の各帝大です。一方早稲田のような私立大学では、官庁に勤めた時に専門学校卒業資格でしかなかったのです。それが大学令改正により、条件付きながら大学卒業資格となるため、当時の多くの学生が意図的に1年遅れる道を選んだのです。実際には1年遅らせることなく学業は進み、卒業時の希望で入学時の資料を書き換えたと考えられています。それは彼らが卒業する土壇場の大正11年の正月過ぎのことでした。

 さて本科では、余り人がやっていなくて難しそうな学問ということで、その実質2年目に無線電信学を選択し、坪内信教授に師事しました。この出逢いこそ、海野の運命を決定づけたものに他ありません。そして夏休みには日本無線で実習をしています。また級友の福田庚午郎と親しくなって、彼の紹介で雑誌「野球界」の主幹に会い、大正9年5月号に彼の漫画が掲載されたのが、商業誌掲載の最初となりました。

 翌大正10年には逓信省電気試験所で福田と共に実習をしており、後に勤務することになります。「初めてのラヂオ」の原稿を書き、また無線タイムズ誌に翻訳を提供しました。大正11年には「在学継続」の余暇を利用して友人の樋口正巳らと早稲田大学電気工学会会報を始め、これには卒業後もこだわりをもって関係しつづけました。大学資格のために残留していましたが、実際には修業しているので、8月から電気試験所で福田と共に実習生として勤務を始めました。

第一の人生~電気試験所技師

 大正12年4月に、電気試験所の正式採用となり、第四部「無線通信デバイス類、システム開発」に配属になりました。さらに学友樋口の妹のたか子と結婚し、浅草花川戸に住みます。

 所がそこに、9月1日の関東大震災があり、人的損害は無かったものの、資料・ノート類を焼失してしまいました。この直後に寺田虎彦が震災調査を開始して、実体験を求めていたので原稿を提出し、その礼状の2枚の便箋を大切にしていたと言います。残念ながら二人が会うことはとうとうありませんでした。

 大正13年には長女朝子が誕生するも、妻たか子が結核で死亡し、自身も感染してしまいました。

 さて大正14年には外国製真空管の特性に関する報告書を電気試験所での業績として発表する一方で、多数の投稿を行うようになります。掲載誌は無線タイムズ、科学知識、科学画報、そして特に無線電話、無線と実験の2誌でした。科学技術の啓蒙的な記事が多いのですが、器用に漫画も描いていました。この無線電話誌こそは、恩師坪内信教授が主幹であったのです。

 ところが大正15年の2月に、坪内信教授が35歳の若さで、腸チフスで死去します。海野本人も同じ病気に罹患し、極めて苦しんだのでした。

二足のわらじ~その始まり

 海野十三が電気試験所の外の仕事に向かったのは、大学卒業資格が影響していたとの説があります。要するに同じ大学卒ということになったとしても、やはり帝国大学出身者とは明確な格差があったと言われています。いくら業績を積み上げても、電気試験所での栄達は絶望的なわけです。

 一方3歳年上である江戸川乱歩の作品にほれ込んで、彼の世界にのめり込んで行きました。

 さて昭和2年(注:大正15年の翌年ですぞ)に延原謙が「あざみの花」で新青年誌作家デビューをするのですが、彼は海野の5歳上の電気試験所の上司でした。延原はすでにコナンドイル等の翻訳家としての業績を積んでいました。一方海野の方は、恩師が残した無線電話誌をSF誌への舵切をし始めます。無線電話3月号掲載の「遺言状放送」、4月号の「三角形の恐怖」などの作品を世に問うたのでした。特に「遺言状放送」は核の恐怖に先駆的に触れている点が評価されています。それも核の平和利用の恐怖だからです。

 その延原謙が、昭和3年に新青年誌の編集長、横溝正史に海野の作品を紹介しました。横溝の回想録によれば「しゃっくりをする蝙蝠」という電気試験所の機関誌に掲載された作品であり、今日では失われているといいます。一方延原の回想では「三角形の恐怖」であるといいます。まあ、両方ということにしておきましょう。

 そして「電気風呂の怪死事件」(新青年4月号)で本格的に作家デビューをしました。所がこれが事件となります。作品の冒頭には海野十三というペンネームがあるのですが、目次を編集する段階で、担当者が「編集長、あの電気風呂の作家の名前は何でしたっけ」と聞くと、横溝が思わず「そりゃあ、佐野昌一君だよ。」と本名を言ってしまい、目次に本名が載ってしまったのです。これが電気試験所でばれて、上司からさんざん叱られたと言います。官庁ですから、副業禁止は当たり前のことです。

 しかも副業であること以上に、この犯罪小説の中身も問題でした。公衆浴場で当時流行していた電気刺激を与える風呂に仕掛けをして、男性を感電・卒倒させるところはまだしも、犯人の真の狙いはその混乱に乗じた、女風呂での愉快殺人であり、全裸の女性が苦悶のうちに死に至る様子を天井裏から高速度カメラで撮影するという、何ともエログロなものでした。当時の時代趣味に迎合したものとは言え、官吏が書くようなものでは無かったのです。

 どももっと電気試験所を怒らせることがありました。実は試験所で実際にあった感電事故を下敷きにしていたからです。これが一番まずかったに違いありません。

 でももしも叱責した上司が延原であったなら、ふたりは結構芝居上手だったのでしょう。

 しかし、何と延原謙は新青年の10月号から3代め編集長に転じました。電気風呂事件は、むしろ延原をこそ、電気試験所を離れる決心に導いたのかもしれません。

二足のわらじ~絶好調期

 昭和5年に、最初の単行本である「麻雀の遊び方」を博文館から上梓します。実は彼は麻雀好きであって、ペンネームもそこに由来しています。本当は緻密に観察と分析を加えながら打っているのに、打ち方を問われれば運が全てさ、運が十さ、と答えていたと言います。でもこれって真実ですね。いくら努力をしても、時代という大きな波には誰も抗することはできないという意味で。でも十が全てとまでは言っていないので、十までは運であっても、自分で十一や十二に拡大していけばいい。私は「運が十だが、あと三を自分で開拓するのさ」という意味に、勝手に彼のペンネームを解釈しています。

 この本は、実は結婚資金ねん出のためで、神埼英(えい)と再婚しました。

 さて本稿では、海野の大量の作品の中から、私が気になったものを好き勝手に選択して言及しておりますので、名作が網羅されているわけではないことを、予めお断りしておきます。

 昭和6年に新青年誌11月号に「振動魔」を発表しましたが、江戸川乱歩はこのような傾向を「空想科学小説」と名付けたと言います。空想科学小説というと、何となく子供向けの作品を想像しますが、この「振動魔」はあらぬ関係でできた胎児を、振動共鳴装置を使って堕胎するという、これもエログロなものでした。

 昭和7年の「空襲葬送曲」(朝日5~9月連載)は日米開戦の近未来小説であり、時代の空気を敏感に読み取ったものでした。前年の昭和6年に満州事変が勃発し、昭和20年の敗戦までの、後に15年戦争と言われる一連の時代の始まりでした。

 昭和9年の「三人の双生児」(新青年9,10月号)は何とも不思議な題名ですが、これは彼の生まれ故郷である徳島の土地を舞台にしており、地元ファンには必読の書です。実際に海野には右一、左一という早世した双子の弟があったといいます。それに加えて医者の家系という背景があっての作品ですが、人体実験の恐怖がテーマでした。実世界では、昭和7年にあの731部隊の前身である防疫研究室が開設されています。そこまでは海野も知らなかったでしょうが、時代の雰囲気は確かにそうだったのです。

 昭和11年は二二六事件とベルリンオリンピックがあった年ですが、「難産のテレビジョン」(新青年誌11月号)はテレビの啓蒙的な作品でした。日本でのテレビ開発は大正15年12月25日(大正時代最後の日)に浜松工業高校の高柳健次郎がブラウン管に「イ」の字を表示させて以来、NHK技術研究所などで開発が進められてきましたが、昭和14年(1939年)に実験放送を開始します。正にその直前での作品でした。またラヂオ科学に連載した「地球盗難」は最初の科学長編小説です。

 昭和12年の「蠅男」(講談雑誌1~10月号)では人体改造と倫理の欠如をテーマとし、「十八時の音楽浴」(モダン日本増刊4月)では国家的なマインドコントロールを描きました。これはオーム事件の予言とも言われています。そしてあの啓蒙書、「おはなし電気学」(明治書院10月)が発刊されました。

 昭和13年の「浮かぶ飛行島」(少年倶楽部1~12月号)は英国の超大型航空母艦を爆破撃沈して日本の制海権を確立する話です。米国では日本で言う昭和16年末からの太平洋戦争を、Carrier War と言います。要するに航空母艦戦争です。航空母艦が制海権、制空権の要となることを予見していたものでした。

 そして海野十三は電気試験所を辞職しました。17年間の勤務であり、権利化された特許は300件以上であったといいます。

第二の人生~専業作家として

 専業となると、従来よりも長編もの連載ものが増加しますが、この時期の特徴として少年向け長編が多くあります。先に紹介した「浮かぶ飛行島」に続く次の作品群でした。

「怪塔王」(東日小学生新聞;昭和13年4月~12月)
「太平洋魔城」(少年倶楽部;昭和14年1月-12月)
「火星兵団」(東日小学生新聞;昭和14年9月~15年12月)
「怪鳥艇」(少年倶楽部;昭和15年1月~12月)
「地球要塞」(譚海;昭和15年8月~16年2月)
とくに400回もの連載であった「火星兵団」は、当時12歳くらいの手塚治虫が夢中で読んだといいます。

 昭和16年の「人造人間戦車の機密」(新青年6月号)は、100体の人間型ロボットが合体して戦車を形成するという、合体戦隊ものの走りでした。100万体を量産し、1万台の戦車隊とするという計画です。目的地までは標準化されたロボットが自律歩行で進むので、少々消耗しても残ったロボットで戦車が構成できます。これは強い。

 そして12月8日のパールハーバー、日米開戦の日を迎えました。

 戦争は総ての人々を巻き込まずには置きませんでしたが、海野十三にとっても大きなものでした。

 さて、この開戦を遡る秋のある日に、郵便で白紙(徴用令状)が届き、翌日に海軍省に出頭すると、海軍報道員を命じられました。

 その後は何もなく過ごしていると、昭和17年元旦に電話があり、翌2日に東京駅を発って、4日に海軍報道班員として大阪港を出発し、パラオ、トラック島を経由して、ニューアイルランド島カビエング攻略戦に同伴しました。その次はニューブリテン島ラバウルに、その後も転戦しますが、火山灰を吸って肺結核を再発し、またデング熱で衰弱し、5月には内地に返送されました。その後、共著ですが海軍報道班作家前線報告として、12月に「進撃」、翌年2月に「闘魂」を博文館から出しています。

 健康を、海野は戦争で大きく損なったのでした。

第二の人生~敗戦日記の日々

 海野十三の2冊の日記は、彼の死後に妻の英から提供され、橋本哲夫氏が「海野十三敗戦日記」として編集し、世に出したものです。橋本氏は学生時代に海野に師事し、昭和23年から毎日新聞に入社して、後にフリーライターになった方です。彼が「愛と悲しみの祖国に」として単行本の編者あとがきを書いていますが、その一部を以下に引用します。

 海野の死後のある日、橋本氏が海野宅を訪ねると、英夫人が神棚からホコリだらけの二冊のノートを取りだしてきた。「これは海野の日記です。死後そのままにしてあったのですが、読んでみてください」と。

 手にとってみると、 1冊は「空襲都日記」(昭和19年12月7日~20年5月1日)、もう1冊は「降伏日記」(昭和20年5月2日~20年12月31日)と表紙に書かれていた。戦争中のノートだから、粗末なザラ紙を綴じたもので、現在のような日記帳の体裁ではないが、そこにエンピツで、戦時下の一日一日の身辺のできごとが、克明に記るされていた。

 内容は、首都東京がB29の空襲を受けた初期から、焼夷弾に焼かれてみるみる焼野原になって行く光景や、空襲下の生活、戦況、敗戦による混乱、食糧事情、自分の病気のこと、物価、作家仲間との交際、家族へのひたむきな愛情などが記され、ところどころには、自筆のさし絵までついている。

 これは一市民の立場で、国家の存亡を主体的に記録する意思をもって書かれたものです。忠実な国民として日本の勝利を願い、従軍報告や戦意高揚的な作品を書く一方で、軍人の考え方には違和感をおぼえ、この戦争の行方をSFの形で問い続けた作家として、この戦争の責任を自分でも負うべきとの強い自覚があったと読み取れます。寺田虎彦が関東大震災で個人的な現場での情報を収集したように、自分をセンサとした定点観測を試みたものと理解します。しかしそれは血も涙もあるセンサでした。

 海野十三は何と昭和16年の1月に、自宅の庭に大きな防空壕を掘りました。日米開戦の11ヶ月も前です。近所の人々は一体何だろうかといぶかるのですが、海野は首都が空爆を受けることは避けがたいと考え、各人が防衛の手段を講じるべきことを身を持って示したものでした。

 すでに昭和13年に「東京空爆」という小説で燃えやすい材料の建物でできた東京が無残にも焼け野原にされる様子を予言しました。これは大衆雑誌「キング」(講談社)に掲載され、ラジオ科学者から単行本として出版されました。両社とも全く改変を求めずに、海野の原稿のまま掲載したということで、この作品の持つ警告の意味を理解していたと思われます。しかし果たして、この作品は大本営海軍報道部の目にとまり、呼び出されてひどく叱責されました。軍の言い分は、「帝都上空には、敵機は1機も入れないのだ」ということです。この偏狭な連中を相手にしていても始まらない。自分でできることをして、一人でも多く救う他にないと、海野は腹をくくりました。

 さて、焼夷弾におびえながらも、懸命に立ち向かう人々に同情し、被災には憤り、敵機の撃墜には素直に喜ぶなど、そこには何の飾りもない市井の人の視点が書かれています。毎夜の空襲でみんなが絶え間ない寝不足と高揚感の中で、したたかに生きる市民のゆとりも感じることができます。しかし、その調子が変わるのが広島の原爆投下からです。その被災の様子から、原爆と考えました。8月10日の新聞に、トルーマン大統領演説として確かに原爆であることが報道され、海野は自分の理解の正しさを知りました。ソ連が8月9日の未明に満州国国境を越えて対日参戦したことも、なぜこのタイミングであるかを理解できました。日本は完全に負けたと知り、海野自身が恐れていた未来が現実になってしまったのです。しかも原爆投下という人類史上初の行為を、一片の事前通告もなしに実行したのでした。

 (米軍は広島上空で数日前からビラまきをしていて、今後投下する新型爆弾には未曾有の破壊力があること、今から避難するものは救われるであろうことが書かれていました。しかし日本軍はそのビラを回収し、またその内容を隠し、読んだものには米軍のデマに惑わされるなと叱責しました。これを海野が知らないのは当然でした。このビラは米軍が、事前通告をしたとの国際的なアリバイ作りで撒いたに過ぎません。ローカルに巻かれたビラがどう判断されるかを冷酷に予想してのもので、実質的な不意打ちであったことの確たる証拠です。なおこのビラは広島の平和祈念館に展示されていましたが、いつからか見かけなくなりました。)

 海野は10日の日記に「戦争は終結だ。」と書きました。首都上空に米軍機1機の飛来があれば、原爆投下の可能性を思い、「警戒を要す」との放送があり、都民はくたびれ果てていました。既に和平に向けての動きがあることを、新聞報道の行間と、友人たちの口コミから感じていた海野は、12日に「その話」を妻に問い、そして子供達にも問いかけました。翌13日にも意志を確認し、立派な毛筆の文字で遺書をしたためました。近所の主治医である村上勝郎医師のもとに青酸カリをもらいに行くのですが、「いつだって死ねるから、もう少し待て。薬はちゃんととっておくよ」とくれない。14日には従軍作家仲間と出会って、彼らのルートの情報で敗戦の事実を知ってしまいました。そして15日の玉音放送ですが、一日中身辺整理をしていて、くたくたに疲れ果てて寝てしまいました。すると16日には友人達が来て、その話が無いように親身で諭しました。海野がライカでも何でも高価なものを気前よく人に呉れて、夫人が一番良い着物を着ていて、子供達がとっておきの食料をぱくぱくと食べていたので、これではその意図がバレバレです。こっけいで、こっけいで、泣けてきます。

 一家自決は避けたものの、8月26日の日記には「海野十三は死んだ。断じて筆をとるまい。口を開くまい。辱かしいことである。申訳なき事である」と書きました。ラジオではころっと態度を変えた文化人などが陽気にしゃべっています。何という違和感か。

第二の人生~そして死

 人の死を書くのは、たとえそれが過去の事実であってもつらい。

 昭和23年の春のある日、横溝正史の御子息が訪問してきました。東京の大学に入学した挨拶のためです。正史が岡山に疎開したままで、帰るに家が無いことを知り、おとうさんに家を買うようにすすめなさいと、タンスから現金を掴みだして渡したといいます。昭和21年の新円切り替え後に、どうして大金を持っていたのでしょうか。それで横溝は成城に家を得て帰京しました。

 敗戦の年の秋からぶりかえした喀血が続きます。

 この頃の作品に、「怪星ガン」(冒険少年;昭和23年1月~24年3月)があります。一時筆を折ろうとしながら、戦後も数々の原稿依頼に応えている中で、冒険少年からの依頼は格別のものがあったといいます。そして「怪星ガンは当たった」、とは挿絵担当の小松崎茂氏の言葉です。この話は地球の金星探索船が異星の高度な文明に遭遇するのですが、最後にはより強大な他の文明により滅ぼされるという、弱肉強食の世界を示しています。

 この連載完了直後の昭和24年5月17日に、海野十三は帰らぬ人となりました。

科学技術の運命

 海野十三の人生を辿ると、濃密な人間関係に気付きます。彼が早稲田で坪内進教授に出逢い、電気試験所で延原謙に出逢うという偶然は一種の神の導きかもしれませんが、海野はあらゆる人との出会いを重んじ、尊重してきたように思えます。早世した坪内教授の御子息は、戦時中も正月の挨拶に海野邸を必ず訪れていました。横溝正史の御子息も訪れています。このような世代を越えた付き合いもできたのです。

 そればかりではありません。従軍作家として戦地に赴くと、従軍記者という方々もいて、両者は似て非なる存在であるがゆえに、どうしても軋轢を生じるもののようでした。そこでも海野は人間性を発揮して、部隊での人の融和を図っていました。他の作家達は部隊を移ると、その違いを大いに感じたようです。

 もちろん、編集者の信頼を得ることも大でありました。「電気風呂の怪死事件」も、新青年誌の横溝編集長の要望に沿ったもののようです。編集方針通りに書けるというのは、流行作家に必須の資質です。当時はSFというジャンルが存在しなかったので、まず書ける場所が必要でした。新青年は海野の恰好の活躍の場になっていきました。

 編集長の信頼とは、①編集方針に即し、②品質を維持し、③原稿納期を守ることです。原稿依頼をした以上、①と②は編集長にも責任があるのですが、③だけは本人の事情であり、書きあがっていれば、問題個所の訂正もできるのですが、納期通りに書けていないと手の下しようがありません。ざっと海野の資料を見る限りは、連載を落とさずに書いていたように見えます。そうであれば、これほどの信頼はありません。

 そのような誠実な科学者であった海野十三の問題意識は、日本の科学技術の後進性でした。彼の描く宇宙人や欧米の軍隊は、かならず装備が優越していました。また彼の描く戦争は、防衛戦であり、侵略では無かったことも特徴です。

 祖国防衛のためには科学技術力の向上が必須です。海野は作品としては描きませんでしたが、電気試験所の仕事を通じて経済の発展にも科学技術力が必須であることを知っていました。一方で、それは侵略の道具ともなり、行きつく先は人類滅亡であることも明白でした。この科学技術の持つ二面性を世に問うことが、彼の使命でした。

 徳島中央公園にある「海野十三文学碑」には、江戸川乱歩による賛辞の横に、海野による次の文章が刻まれています。これは「地球盗難」を書いた作者の言葉の一部です。私たちはこの課題から目をそむけることが、益々困難な時代に直面しています。

 全人類は科学の恩恵に浴しつつも、同時にまた科学恐怖の夢に脅かされている。恩恵と迫害との二つの面を持つ科学、神と悪魔の反対面を兼ね備えている科学に、われわれはとりつかれている。かくのごとき科学時代に、科学小説がなくていいであろうか。

――海野十三(昭和十二年)

以上

主な参考文献

  1. 海野十三の会(徳島市)編;海野十三メモリアルブック、先鋭疾風社(2000.5)
  2. 海野十三著、橋本哲男編;海野十三敗戦日記、中央公論(2005.7)
  3. 小松左京、紀田順一郎監修;海野十三全集(全13巻、別巻2)、三一書房(1988,7~1993.1)
  4. および付録の海野十三研究、特に「長山靖生;デビューまでの海野十三」

  5. あおぞら文庫(http://www.aozora.gr.jp/

 

社会人を始めた頃の海野十三を想像してみました。<海野十三像>
社会人を始めた頃の海野十三を想像してみました。
<海野十三像>

 

遭難した「宇宙の女王号」救援に飛び立つ救援ロケット艇の想像図。流線型の巨体、後部に16本の噴気管、頭部の操縦室は半球形の透明壁、最新型の原子力エンジン、10台の編隊、これを形に描くと結構難しい。<救援ロケット艇想像図~怪星ガンより>
遭難した「宇宙の女王号」救援に飛び立つ救援ロケット艇の想像図
流線型の巨体、後部に16本の噴気管、頭部の操縦室は半球形の透明壁、最新型の原子力エンジン、10台の編隊、これを形に描くと結構難しい。
<救援ロケット艇想像図~怪星ガンより>

榎本博康(えのもとひろやす) プロフィール

榎本博康(えのもとひろやす)  

榎本技術士オフィス所長、日本技術士会会員、NPO法人ITプロ技術者機構副会長

日立の電力事業本部系企業に設計、研究として30年少々勤務し、2002年から技術士事務所を横浜に開設して今日に至る。技術系では事故解析や技術評価等に従事する一方で、長年の東京都中小企業振興公社での業務経験を活かした企業支援を実施。著作は「あの会社はどうして伸びた、今から始めるIT経営」(経済産業調査会)等がある。趣味の一つはマラソンであり、その知見を活かした「走り読み文学探訪」という小説類をランニングの視点から描いたエッセイ集を上梓。所属学協会多数。

 

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