入れたての美味しいお茶を召し上がれ。田中屋茶店・店主 小岩井治夫さん
「入れたての美味しいお茶を召し上がれ」・・・美味しいお茶の選び方、お茶の歴史、横浜関内、関外の話・・・お話はタイムマシンに乗って明治、大正、昭和へと移っていきます。 今月の「横浜この人」は田中屋茶店・店主小岩井治夫さん。お祖母さんから聞いたお話、ご自身の体験談、みんなタイムマシンに詰め込んで「横浜今昔お茶物語」の始まりです。
田中屋茶店・店主 小岩井治夫さん |
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奥女中のリストラから歴史が始まりました
屋号の田中屋は、田中屋林藏が初代だと言っていますが・・・商売を始めたのはもっと昔のことだと聞いています。江戸城で奥女中だった女性が、慶応時代(いつかは定かでない)に横浜に出て来て商売を始めたのが始まりのようです。
当時、ペリー来航で横浜に港を造ることになり、仕事に忙しい合間にお茶を飲むのだから、「湯の温度だ、入れ方だ、器だ」なんてこだわりは何にもないわけです。旨かったらそれで良いっていうお茶が求められたわけです。 ゆっくり味わなくても旨いお茶、味が濃いお茶が横浜スタイルです。
絹に次ぐお茶の輸出
明治に入って、横浜港は商館が建ち並び、商業地として発展していきました。いろいろな人が集まってきて、飲食店、娯楽施設(芝居小屋)などが立ち並び、それは賑やかだったと聞いています。生糸の輸出が盛んに行われていたので、蚕を飼っている八王子から生糸商が横浜に来る、その生糸商で働く男の子を養子にして商売が大きく発展し、「田中屋林藏商店」が生まれたといいます。私は5代目になります。
その頃、商館が日本茶に目をつけ輸出を始めます。良質なお茶のなんと50~80%がアメリカ向けに輸出されていたと言われています。生糸とお茶を輸出できる港は横浜は、それは忙しかったといいます。
しかしながら、うちは輸出に関わらず、もっぱら国内向けに商いをしていました。
うちは静岡の産地からお茶を直接仕入れていましたから、産地との間には強い信頼関係が出来ていました。それが関東大震災の再建に繋がりました。
関東大震災からの復興
5月初旬から中旬にかけて良いお茶が摘み取られます。9月1日に発生した関東大震災によって倉に入れていた茶葉が全部燃えてしまいました。その痛手は大きく、再建できないと誰もが思っておりました。その時、静岡の産地からお茶が送られてきました。それもアメリカに輸出できる良質なお茶が送られてきたのです。炊き出しのおにぎりとお茶・・・お茶の需要はありました。お茶屋を続けていく意欲が生まれました。
戦中・戦後の苦難
お茶は統制品でしたから、配給品以外のお茶は売れすぎてもいけませんでした。吉田橋(関内)は川に面しているので強制疎開をさせられ、戦後はアメリカ軍に接収されました。その間、浅間下で商売を続けていましたが、接収解除になって吉田町に戻って来た時に見たのは、辺り一面が原っぱになっていて、そこに倉だけが焼け残っている姿でした。昭和4年に清水組(現在の清水建設株式会社)が作った倉です。さすが清水建設、頑丈な倉です。
その焼け残った倉に隣接して店を作りました。店内から倉の入り口が見える変わった作りになりました。戦後のドサクサに紛れて作った店です。 今、リフォームすると建築法に触れるので、当時のまま使っています。
店内から倉の入り口を望む、タイルは当時のまま、焼けた跡が残る
さて、原っぱになった関内・伊勢佐木町・吉田町に人が戻ってくるまでが我慢の時代になりました。何も売れない、お客様が来ない日が続きました。これが精神的にも一番辛かった時代です。自分の土地に建っているから家賃が無い分頑張れたと思います。
区画整理が行われて、道路に土地を取られることになりました。野沢屋(横浜松坂屋)、松屋(鶴屋呉服店)・・・映画街、人が横浜に戻って来ました。横浜に、関内に、伊勢佐木町に『繁華街』が戻ってきました。
お茶離れとお茶屋さん
仏事にお茶は欠くことが出来ないものでした。「積み茶」といって仏前に5段重ねでお茶を積み依頼主の名を書いて出したものです。ですから、お茶屋の店主は墨字がきれいに書けました。今は仏事で本当のお茶を使って「積み茶」をしなくなりました。 会社でもお茶を出すところが少なくなりました。お湯の保温ポットに異物を混入させた事件があり、それを境に会社でお茶をだすところが少なくなりました。「お茶汲み」が死語になりつつあります。 缶入りのお茶が出た時はそれほど脅威には思わなかったのですが、ペットボトルのお茶は茶店にとっては衝撃的でした。フタができることで、お茶をどこででも気軽に飲むことができるようになりました。これはお茶の産地にとっては、直販ができるようになり、それなりの利益を生み出しているのかもしれませんが、お茶の葉を売る小売店には脅威でした。 集会所では、急須ややかんを使ってお茶を入れることが無くなりました。 |
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飲食店でも「出がらし」の始末を面倒がり、粉茶を使うようになりました。ティーバックに1回分ずつ入っているお茶などが出回り、旅館や家庭でも使われるようになりました。このようなお茶は工場でパックされコンビニやスーパーなどで大量に売られます。
東京に本店を置く、有名店や老舗が横浜にも進出してきました。テレビのCMで全国区になっていて、贈答品や高級品にはこちらが選ばれます。
ウーロン茶、紅茶、コーヒー・・・若者の日本茶離れが進んでいます。町からお茶屋さんが消えて行きました。
看板を守ってきました
大規模複合施設店に日本茶専門店ができたり、お茶業界では生き残りをかけて「日本茶」を若い世代に知ってもらう努力を始めました。日本食が世界遺産になりましたが、日本食には日本茶が一番似合うはずです。「煎茶」、「番茶」、「深蒸し」・・・飲み比べて選べられるお店ができました。うちのようなお茶店が今までにやってきたことです。地道なサービスですが、ネットや通販、コンビニではできないこのようなサービスに販路を見つけようとしています。
私も年を取りましたがお客様も同じように年を取られ、だんだんと減って来ています。思えば、自分の地所に建っているからやって来られたのです。
関東大震災、戦争、不況、お茶離れ・・・幾たびかの苦難を乗り越えてきました。今までも、これからも、地元の信頼に応えられる商売をしていこうと思っています。
貴方にとって横浜とは
家族の歴史そのものです。
入れたての美味しいお茶を召し上がれ。
田中屋茶店・店主 小岩井治夫さん
インタビュー:ヨコハマNOW代表 渡邊桃伯子/文::高野慈子
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