Skip to content

ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第20回 第4章 フォークからニューミュージックへ 6

by staff on 2014/2/10, 月曜日


 
 

 

HEART&SOUL代表 原 正行

1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。

 

第4章 フォークからニューミュージックへ 6

昨年2013年12月30日に大滝詠一さんが永眠されました。
今回は日本のロック界に多大なる足跡をのこした大滝詠一さんに
敬意を表したいと思います。

 大滝さんは岩手県出身 65歳。1968年に早大入学後、細野晴臣さんと出会い ’70年、はっぴいえんどでデビュー。フォーク全盛の時代にバファロー・スプリング・フィールドなどアメリカ西海岸のロックに傾倒したサウンドを追求。はっぴいえんどは、日本語はロックのビートに乗らないという考え方が主流だった時代、日本語の詩にこだわり、それを見事にロックサウンドに溶け込ませた日本で始めてのロックバンドといえるでしょう。大滝さんは、全ての50年代から70年代のアメリカンポップス及び洋楽全般に精通する人であり、音楽評論家としても他の追随を許さない存在。そして素晴らしいシンガー、作曲家、アレンジャー、自身及び他人のプロデューサー、時にラジオのDJ。正に7つの顔を持つ男 “多羅尾伴内” (自身で名乗ったこともある)です。

 はっぴいえんど解散後、在住していた福生でスタジオを作り自身で立ち上げたレーベル 【ナイアガラレーベル】 から名作の数々を発表し、最終的に80年代に大ヒットしたアルバム「ロングバケーション」と「イーチタイム」にたどり着きます。アメリカンポップスをこよなく愛しその造詣の深さは万人の知るところであり、彼の音楽からもそれをうかがい知ることが出来ます。特にリズムへのこだわりは顕著で、メレンゲなどのリズムやニューオリンズのサウンドなどをいち早く取り入れたのはおそらく大滝さんが最初だと思われます。

 更に進化し日本の音頭のリズムで独特の世界を作ります。布谷文雄を起用した “レッツ音頭アゲイン” (レッツツイストアゲインに日本語を乗せ音頭のリズムにしたもの)、金沢明子のイエローサブマリン音頭など、どこまで冗談か分からないほどユニークで楽しい音楽を作りました。片や彼のつむぎ出す美しいメロディにもアメリカンポップスへの奥深い愛情を感じることが出来ます。 “夢で逢えたら” を聞くとロネッツやフィルスペクターを、小林明でヒットした “熱き心に” を聞くとカスケーズの “悲しき北風” を思い出してしまうのは私だけでしょうか?

 ロングバケーションのヒットを受けて、あるインタビューで洋楽に詳しいインタビュアーが「大滝さんのOOという曲は3曲のアメリカンヒットと取り入れていますね」と言ったところ「へえー、あの曲はそれに加えOOとOOの5曲を取り入れているよ。君には3曲しか分からなかったんだ」と粋な切返しをした逸話を聞いたことがあります。

 私見ですが、大滝さんは古き良きアメリカンポップスを素晴らしい世界を日本の音楽文化の中に正しく取り入れ彼のセンスの中で昇華させた音楽を作りたかったのだと思います。大滝さんの最後のシングルは “幸せの結末” だったそうです。英語にすると “はっぴいえんど” ですね!

 おそらく現在の40歳から60歳くらいの音楽をやる人の殆どは大滝さんから良い影響を受けていると言っても過言ではないでしょう。正に J・ポップの父。心よりご冥福をお祈りいたします。

 

横浜、街と風(社会人編) 6(21)

バイトからスタート

 父親との約束だった高校は卒業しましたが、単位を取るのに精一杯でやっと卒業できた感じだったので、就職どころではなく、担任は色々心配してくれていましたが結局何も決まらず、バイトもやめてすることもなく何となく日々を過ごす毎日。この時心の拠り所のない孤独感にさいなまされました。大して通っていなかったくせに高校在学というのも心の拠り所だった事に終えてみて初めて気が付きました。自分は一体何者なんだろう? 金もなく仕事もなくこれから一体どうなるのだろう? と言いようのない不安に包まれていました。本牧事件の傷も癒えた頃、友人からバイトの面接に誘われて行ってみると、当時人気が出だしていた牛丼の吉野家でした。時給がとても良かったのです。新宿まで面接に行き採用され最初に行かされたのが今でも関内駅前にある吉野家関内店でした。

吉野家

 当時牛肉は高級品で牛丼が一杯300円というのは大変な事だったのです。当時の吉野家の人気はハンパじゃなく、昼時には1時間に200人から300人位の客をさばきます。それ以外の時間でもひっきりなしに客が入り、世の中にこんな所があるのかと驚きました。24時間営業で社員は大体一人か二人、あとはみんなバイトで、バイトは10人程いて、昼は6時間、深夜は9時間の労働で、交代制。深夜は確か当時で600円くらいの時給だったと記憶しています。金はいいが何しろハードで仕事は完全にマニュアル通りでわずかな休憩以外はほとんどひっきりなしに動かされます。来客の少ない時間もなべ磨きから床掃除まで。本当にきつくて何度やめようと思った事か。。。。又スーパーバイザーと呼ばれる監視の社員がお客を装い不定期にやって来て仕事具合をチェック。ここ(吉野家)でバイトができればどんな仕事でもできると言われるほどでした。特に関内店の凄さは壮絶で、入って2日目、たまたま販売促進の為の牛丼一杯150円の半額セールにぶち当たり、ものすごい人数の客が押し寄せました。この時はさすがに新人では使い物にならず外で弁当売り場を担当しましたが、もう息もつかせぬ混雑で本当に逃げ出したくなりました。半額セールが終わり新しく出来ていた日の出町店へ配属されいくらか静かな新店舗でほっと一息。それほど関内店での1週間は悪夢でした。

続吉野家

 日の出町店での仕事にも慣れ日々の忙しさに不安もいつしか忘れていました。1、2ヶ月たつと今度は伊勢崎町のオデオンの近くに新店舗が出来るという事で新規開店からそちらに行くことになりました。ここでの仕事は半年くらいやったと思います。1つ年上のOさんという優しい先輩が何かと目をかけてくれました。吉野家の給料は週ごとに銀行口座に振り込まれるので給料日にはそのまま銀行でお金をおろしてOさんたちと一緒によく飲みに行きました。よくいったのは関内駅前のセンタービル(現セルテ、ハートのビルです)の12階にあったカウベルというディスコ。まだ12階建てのビルは少なく店内の窓から見える夜景は絶景でした。エレベータが開くといきなり店内で扉で仕切られた真ん中にライブステージがありフィリピンバンドが演奏していました。合間には対面のブースからDJがダンスナンバーをかけていてずっと踊ることができました。女どおしのOLグループも多くて、ホールはナンパ目的の男どもであふれ、又不良のたまり場でもあったのでもめ事も多くしょっちゅうトイレでけんかがありました。自分も何度かナンパに挑戦しましたが彼女と別れて垢抜けた感じがなくやはりギラギラしてたのでしょう全くもてませんでした。

 そんな頃いつも昼ごはんを吉野家に食べに来る近所に服屋に勤めている女の子と仲良くなり、家まで遊びに行ったりする仲になりました、ある日バイト仲間で年上のOさんとNさんにこの事を告白するといきなりNさんが怒り出し、自分もそういう仲で真剣に付き合っているから手を引けと、引き下がれない自分と決闘だということになり危うく大喧嘩になる所をOさんが2人の間に入り事なきを得ました。その事件後、自然に服屋の子は現れなくなり家に行っても顔を見せずいつからか噂で故郷に帰ったと聞きました。この話には後日談があり、実は服屋の子は喧嘩をとめたOさんとすでに付き合っていたというオチ。多分Oさんの事が好きだったのでしょう。ほろ苦い思い出と共に大人の女性を少し知りました。

HEART&SOUL代表 原 正行)

 

HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/

バックナンバー

 

Comments are closed.

ヨコハマNOW 動画

新横浜公園ランニングパークの紹介動画

 

ランニングが大好きで、月に150kmほど走っているというヨコハマNOW編集長の辰巳隆昭が、お気に入りの新横浜公園のランニングコースを紹介します。
(動画をみる)

横浜中華街 市場通りの夕景

 

横浜中華街は碁盤の目のように大小の路地がある。その中でも代表的な市場通りをビデオスナップ。中華街の雰囲気を味わって下さい。
(動画をみる)

Page Top