Skip to content

ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第24回 第4章 フォークからニューミュージックへ 10

by staff on 2014/6/10, 火曜日


 
 

 

HEART&SOUL代表 原 正行

1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。

 

第4章 フォークからニューミュージックへ 10

1979年~1980年  80年代への序章

 70年代に様々なジャンルで素行錯誤が繰り返されロック、フォーク、ジャズ、ラテンなどがクロスオーバーし、演奏テクニックも行きつくところまで行き着いた感がある70年代終わりから80年代にかけて。その反動で生まれてきたのがパンク、ニューウェーブの波、そしてテクノロジーの進歩の果てに生まれたのがテクノポップでした。

 又、一般的なポップの音楽市場もバブルへの序章の時代として歌詞やサウンドはどんどんソフティケイトされてAORなどが確立されていきます。

パンク、ニューウェーブ

 ロックがどんどん商業化されていきメジャー発売元の意向で自由な表現の枠をはめられてロックの精神(反体制)を失いつつあった79年頃。それまでの小難しいテクニックを否定、単純明快なコードとリズムを小編成によるバンドで突き刺すようなハードなサウンドで演奏し反体制の歌詞を叫ぶように歌ったのがやがてパンク、ニューウエーブなどと呼ばれるようになります。海外ではロンドンからセックスピストルズ台頭から始まりニューヨークパンクまで飛び火、日本でもそれに影響されたバンドなどが自主レーベルから作品を発表、ミニコミ誌などで若者にアピールし小さいライブハウスなどですこしづつ波を広げていきました。やがてその波はメジャー系レーベルも見逃すわけにはいかず東京ロッカーズやアナーキー、じゃがたら、などがデビュー。関西や九州までその影響を及ぼし、博多からはモッズなどが登場し “めんたいロック” などと呼ばれていました。

テクノポップ

 78年のYMOがデビューし79年に2ndアルバムが140万枚を売る大ヒットを記録するとテクノポップが一気にブレーク!もともと60年代からこつこつ進歩を遂げてきたシンセサイザーミュージックがこの後の音楽世界を変えて行きます。

 “シンセサイザー” はコンピューターから生まれた音を進化させこの世に存在するあらゆる音を再現する事が出来、創造できる限りの音を自由に生み出せる夢の楽器として知られるようになり、やがてムーグシンセサイザーなど楽器として発展しました。

 60年代後半はビートルズなども “ヒアカムザサン” などで実験的に使用、70年代はプログレッシブロック(ELP,イエス、キングクリムゾン)など知的なミュージシャンたちの手によって名作が生み出されています(日本でも富田勲が世界的に注目されました)。最初は一度に1音しか出せないことやその機材の膨大な量や購入予算、それを操る事の難解さが障害となりましたが時代と共に少しづつ発展を遂げます。

 その後YMOの世界的ヒットやディーボがストーンズの “サティスファックション” をテクノ風にアレンジヒットさせると80年からテクノポップ旋風が吹き荒れることになり、シンセサイザーも身近な楽器として進化していきました

AOR

 時はバブルに向かう頃、景気の上昇に乗り商業ベースの音楽の世界でも肉弾相打つテクニックの応酬だったロックの世界から余裕のある音がもてはやされる時代になります。

 TOTOがバックを勤めたボズ・スキャッグスの名盤 “シルクディグリーズ” が1976年発表されてから耳心地の良いロックが次々登場。80年代を迎える頃にはAORなどと言われて一つのジャンルとなっていきます。

 AOR=アダルト・オリエンテッド・ロック。クロスオーバーの時期を経たテクニックをベースにしていることが基本。うるさ過ぎないキーボード主体のサウンドでギターも突き刺すようなファズ(歪んだ音)ではなくソフト・ディストーションを使用しリズムも乗りやすく軽い16ビートが基本。日本の広告代理店が “大人向けのロックサウンド” という意味で名づけられたそうで欧米では “アダルトコンテンポラリー” と言われ “AC” とも言われます。ボビーコールドウェルの “風のシルエット” も歴史に残る名盤で、ほかにもクリストファークロスや76年以降のシカゴ、トトなどがその代表とされます。

1979年のヒット作品

 「アイムセクシー・ロッドスチュアート」 「マイシャローナ・ナック」 「ブレックファストインアメリカ・スーパートランプ」 「ヤングマン・西城秀樹」 「魅せられて・ジュディオング」 「関白宣言・さだまさし」 「ひとり咲き・チャゲ&飛鳥」 「大都会・クリスタルキング」 「贈る言葉・海援隊」 「さよなら・オフコース」

 

横浜、街と風(社会人編) 10(25)

オべーション

 2ヶ月もするとなじみの客も付きだし「原ちゃん」、「ハラボー」などと呼ぶ人も現れ店や仕事にもなれて来ました。前任のマンタローも店をやめメジャーを目指すため東京へ行き、やがてプロビデンスのステージは自分ひとりに任せられる事に。又この頃吉野家もやめ、この仕事一本で行こうと決心します。

 この頃あまりにひどいギターを使っていたので店に頼み前借りをしてギターを買うことにしました。

 この当時はアコースティックギターはマイクスタンドについたマイクをサウンドホールにあてて音を拾っていましたが6本の弦をバランスよく拾うのは至難の業でいつも低音がボーンといったり高音がキーンといったりさんざんでした。アコースティックギター専用のボディに貼り付けるタイプのバッカスベリーなどのマイクもありましたが音が薄っぺらい感じになります。そこで買ったのは当時注目を浴び始めていた “オべーション” 。右手側のブリッジの所にマイクが内臓されてありアコースティックの質感を損なわずエレキのようにバランスよく音を拾ってくれます。ポールマッカートニーがUSツアーで使用して有名になり、デイブメイソンの日本公演の時使っていてこれが欲しいとずっと思っていましたが、この時念願がかないエレクトリックアコースティックタイプのオべーショングレンキャンベルモデルを買いました。

 生でもエレキでも使え弾きやすく、音程もしっかりしていて、練習にのめりこみました。この頃がギターの腕が一番上達した時期で、楽器はいい物を使えば上達は早いと理解しました。

突然

 店の店長やスタッフとも仲良くなり、しょっちゅう仕事が終わると飲みに行きました。野毛の妖しげなスナックやディスコ、店長さんには福富町の焼肉屋でよくご馳走になりました。そのまま東口のスカイビルにあったサウナに泊まりそのまま仕事に行ったり家に帰らないのはよくありました。

 ある正月の朝、2日ぶりに自宅に帰ると誰もいません。しばらくすると電話がなり、とると父が出ました。

 「お母さんが危篤だからいますぐ病院に来い」と、、まさか、、とるものもとりあえず病院に行ってみると母の顔にはすでに白い布がかぶせてありました。なんという親不孝物、母の死に目に会えなかったのです。

 この当時母はリハビリの効果もあり、かなり回復していてしゃべる事や半身は不自由でしたが壁使いに歩けるくらいになっていました。一人でストーブのある部屋でテレビを見ていた母は隣の部屋の電話を取ろうと歩いていったようでその電話の前で倒れていたそうです。父が帰って発見し、すぐに病院へ連れて行きましたが手遅れだったようです。

 母が元気だった頃のふっくらとした顔とは比べ物にならない位にやせた母の顔。死に目に会えなかった自分の愚かさと母にために自分は一体何をしたんだろうと、そんなことばかり考えいつまでも涙がとまりませんでした。

別れ

 母は大正15年(昭和元年)生まれ昭和53年に亡くなっていますから53歳でした、裕福な家で生まれ何不自由なく育ち、戦時中は大変だったようですがピアノに和歌を愛し、優雅に過ごした後、嫁いでからは一転、商売人の嫁として昼夜なく働かせられ苦労の半生だったと思います、短かったですが店をたたんでから家族4人で過ごした3年間は母にとって最高の時間だったのではないかと思っています。その後46歳の時脳溢血で倒れてから闘病生活が始まりました。

 葬儀の時母の妹が言っていましたが「姉さんは幸せだったと思う、私は良い家に嫁いだけどもし寝たきりになったとしても(私の夫は)ここまで面倒みてくれるとはとても思えない、姉さんは本当に幸せだったと思う」と。。。子供の目から見てもそういう意味では母は幸せだったと思います。ヘルパーさんの怠慢から床擦れが出来、それ以降他人を信じられず入院中からずっと病院と家を行き来し、下の世話をし、退院してからは食事からリハビリまで面倒を見ながら子供達を育てた父。ここで彼はこの仕事から解放されました。そんな2人を見て神様はそろそろこちらへおいでと母の手を引いたのでしょう。約7年間の壮絶な闘病生活でした。

HEART&SOUL代表 原 正行)

 

HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/

バックナンバー

 

Comments are closed.

ヨコハマNOW 動画

新横浜公園ランニングパークの紹介動画

 

ランニングが大好きで、月に150kmほど走っているというヨコハマNOW編集長の辰巳隆昭が、お気に入りの新横浜公園のランニングコースを紹介します。
(動画をみる)

横浜中華街 市場通りの夕景

 

横浜中華街は碁盤の目のように大小の路地がある。その中でも代表的な市場通りをビデオスナップ。中華街の雰囲気を味わって下さい。
(動画をみる)

Page Top