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Jリーグ経営諮問委員(元YCACゼネラルマネージャー) 依田成史さん

by staff on 2010/8/10, 火曜日

 「ヨコハマ趣味人」の第四回目は、異国情緒あふれる山手の横浜カントリー&アスレティッククラブ(YCAC)で長年総支配人を務められた、依田成史さんをご紹介します。
 大学時代、ヨット部に夢中になったことがきっかけで海外への憧れを募らせた依田さんは、卒業後、船でアメリカへ。名門コーネル大学で学んだ英語力と経営手腕を買われて、YCACや外国特派員協会で、長年、国際交流に貢献されてきました。

名前: 依田成史(よだ・せいし)さん
出身: 1942年、東京都品川生まれ
経歴: 学習院大学を卒業後、1966年に渡米。
ニューヨーク州のコーネル大ホテル学科に学ぶ。
現地での勤務を経て、1972年に帰国。
1976年から23年にわたって、横浜カントリー&アスレティッククラブ(YCAC)の総支配人を務める。
2001~2008年、日本外国特派員協会総支配人。

リタイア後の現在も、Jリーグ経営諮問委員、横浜山手ライオンズクラブ会長など、精力的に活動中。

家族構成:妻一人 子供一人(秋にはベビーが誕生の予定)
現在の住居:横浜市中区
趣味:水泳、ローンボール、ボウリングなど

YCAC依田成史さん  

 

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  横浜カントリー&アスレティッククラブ(YCAC)
日本最古のスポーツクラブとして140年以上の歴史と伝統を持つ、会員制国際総合スポーツクラブ
〒231-8684 横浜市中区矢口台11-1
Tel: 045-623-8121
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ヨットに夢中の大学時代。海→海外にあこがれて、米留学

横浜のご出身ではないんですね

 生まれは東京の品川です。親父が医者だったもので、大して苦労もなく大学まで行って、学習院大学なんですが、ヨット部に入ったのが横浜とのなれそめですね。当時大学のヨット部は13校が、新山下の今の貯木場の辺りにずらっと艇庫がありましてね、そこでもう学校はそっちのけで夢中でやっていました。

 3年くらいになってヨットの活動もそろそろ終わりかけた頃に、就職ということになるんですね。ヨットをやっていますと、何しろディンギーは当時は板ですから、その一枚下は海なわけですね。練習が終わって夕方帰ってくる頃に、地平線を見ながら、向こうにはどういう国があるのかなあなんてことで、アメリカというものにあこがれたというか、見てみたいなということで、留学を試みました。

 といっても何しろ成績が成績だったんですけど(笑)。当時はI-20という学生ビザを取らなくてはいけないんですね。語学学校から知人を頼って取り寄せて、留学したんです。当時は1ドル=360円の時代で、最終的にはまだ日銀の許可が、印鑑が必要だった時代です。

 昭和41年に大学を卒業して、大桟橋からアメリカプレジデントラインという船に乗って、ハワイ経由でサンフランシスコに着きました。こんな大きな国とよく戦争なんかやったなーという実感でしたね。

もう大学を卒業されてすぐにそのまま?

 ええ、そうです。3月に卒業して5月には出発しました。向こうで1年間苦労して、コーネル大学ホテル科の入学許可が下りました。当時コーネルというの はなかなか厳しい大学で、最初は特別生(卒業を前提としない学生)として1年間が認められた。その1年はやはり勉強しましたね。難しいことは考えないで、とにかく今日一日、予習して授業して復習、月曜から金曜までそれを やって、土日はお金がないからアルバイトです。そういう生活を1年送って・・・

 キャンパスからカレッジタウンに戻るところにつり橋のような橋があるんですよね。そこから毎年留学生が2人くらい飛び降りる。私も、学業ができなくなれば、飛び降りちゃうんじゃないかというような悲壮感があった(笑)。それで1年過ぎると、あまり難しいことは考えないでも、自分のやっていくことをやれば、というようになりました。

 

ヨット部の先輩、麻生太郎氏に請われて帰国。そしてYCACへ

 日本人というのは教育がしっかりしていたのか、算数とかそういうのは強いんですよね。英語が全くわからなくて、当時私はもう23でしたが、向こうの18,19の学生にテストでわからないところを聞くんです。すると非常に丁寧に親切に教えてくれる。極東の島国から来ためずらしい留学生ですからね。ところが、テストではこっちのほうがいい成績を取ってしまうんです。数学、アカウンティングとかね。するともう、聞いても教えてくれないんです。あんたのほうがいい成績を取るじゃないかと(笑)。

 
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 そういう生活でともかく、怖いもの知らずというか、Do Your Best, Never Give Upというような精神が培われたのかなと思いますね。まだ当時はよきアメリカでしたからね。ちょうどベトナム反戦の学生運動も非常に盛んだった。

コーネル大学を出られてからは・・・

 1970年に卒業して、向こうで2年半勤めて永住権も取ったんですね。ヨット部の先輩が元総理大臣の麻生太郎さんで、サンフランシスコで仕事しているときに、彼から手紙をいただいた。麻生さんの会社はセメント会社なんですが、当時外食産業がブームになりかけていて、進出するので帰ってこないか、ということで、日本に帰ってきたのが1972年です。

 麻生さんのところに4年間世話になったんですが、石油危機とかそういう問題があって、外食産業どころじゃない、という時期にYCACからヘッドハンティングされて、来たのが1976年。それから99年までGM、その後2年間シニアアドバイザーをやって、2001年から08年までが日本外国特派員協会。それもヘッドハンティングされたんです。私は自分で仕事を探したという経験がなくて、なんかこう、オファーがうまくめぐり合わせでやってくるという感じですね。

華麗なる経歴、という印象です

 いえいえ、そんなことはないですよ(笑)。08年からまたこちらで1年間お世話になって、去年の5月にハッピーリタイアじゃないですけど、生活のための仕事は打ち上げて。

今まで自分で仕事を探されたことがないという話ですが、最初のYCACからの誘いがあった時、どうしようかな、とか考えたりはあまりなさらなかった?

 人に求められるのであれば、ともかく行って話を聞いてみようかな、という感じでしたね。そのとき持ってきてくれといわれたのがコーネル大学の卒業証書です。アメリカはよく実力主義だなんて言いますが、証書がすごく求められたわけです(笑)。10月にインタビューが始まって、11月1日には着任しました。

 

透明性を徹底して、YCACもプレスクラブも黒字に再建

GMのお仕事にはどんな風に取り組んでいらっしゃったんでしょうか

 プレスクラブもそうでしたけど、すべてを透明にする。説明責任、結果責任、そこの職場の従業員以上には、その会社というのは決してよくならないから、とにかく従業員をよくしようと。自分がそのヘッドですから、自分の努力というものは一番重視しましたね。

迷ったり困ったりしたときに、どなたかに相談されたりは?

 意外とそういうことはしないんですよ。YCACの場合には、社団法人で理念がしっかりしているんですね。スポーツ、文化活動を通じて内外人の交流を図り、以って国際親善に寄与する、ということが定款に謳ってあります。30何カ国の皆さんが楽しめるように、日本での滞在が非常によかった、ということを、その人たちがそれぞれの国に帰って言ってくれれば、日本の民際外交になるだろう、という気持ちでしたね。それはプレスクラブでも同じでした。

プレスクラブからのヘッドハンティングのお話もちょうどいいタイミングで?

 ここのGMを23年もやるとね、サビだらけですよ(笑)。同じことの繰り返しでしょ。理事たちから見たときにも、依田さんは一生懸命やっているかもしれないけど、サビが出てきたと。そろそろ私も、ということで後任を採用して、その人の下でシニアアドバイザーを2年間やったんですが、シニアアドバイザーってあまり仕事がないんです(笑)。そういう中で、どなたかがそれを見ていたんでしょうかね。「最近どうですか?」ということで、プレスクラブがGMを採用している、というのを知った人材バンクから、連絡があったんです。

そのときは同じように即決で?

 そうですね、ここはスポーツ中心で、向こうはジャーナリズムですよね。ただ向こうの理念も、報道の自由を守って、2200人いるアソシエイトとジャーナリストの会員との交流を通じて、国際交流に貢献するという信念。似ているわけです。ジャーナリストの皆さんにクラブを楽しんでいただいて、日本からいい情報を世界に発信してもらおう、という気持ちが強かったですね。私が行った2001年当時はなかなか日本の状況が難しくなってきていました。ジャパンバッシングが終わって、パッシング→ナッシングなんていって、どんどんジャーナリストたちも日本を離れて、上海、香港とかシンガポールに移っていった。

 その頃は向こうも赤字だったんですが、うまい具合にYCACでの経験があったものですから、黒字にして7年間お世話になりました。

 

現在は、Jリーグの経営諮問委員として活躍

そして、現在は特に「生活のためのお仕事」ではなく、Jリーグの経営諮問委員

 はい。93年に始まったJリーグでしたが、当時のチェアマンの川渕さんと、2000年頃知り合ったのです。2002年に日本でワールドカップがある、と決まった頃に、NHKがYCACを取り上げたんです。そのときのメインゲストの一人が川渕さんだった。そこで知り合って、Jリーグはスタートしたけれども、バブルが弾けてクラブ経営がなかなか難しい時代になってきた。サッカーだけではなく、外部のスポーツクラブの経営の経験がある人たちを集めて、経営諮問委員会を作りたい、という話があった。それから10年くらいやっています。

もともとスポーツはお好きなんですものね。サッカーも?

 いや、私はサッカーは・・・あんまり知らないんですよ(笑)。ここはラグビーの発祥の地ですから、毎年試合があるんですが、テレビ取材で「ラグビーのことなんか何も知りませんよ」といって慌てて、恥かいたことがありますよ(笑)。

具体的に諮問委員のお仕事というのは?

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 スポーツを通じて幸せな国づくり、ということですね。その理念に基づいて、Jリーグは今J1が18クラブ、J2が19あって、93年発足当時の10クラブだったときと比べると3倍以上になっている。急速に拡大してきているんです。だから無理がいろいろ生じてきていてね、経営基盤がしっかりしていない。それで、我々の一番大きな仕事は、経営不振になっているクラブに諮問して、向こうの社長や総支配人と話をして、問題点を把握して、それをチェアマンに答申するんです。

 ですが、JFLからJ2に入会したいクラブは、その意志表示をする必要があります。認められたクラブには準加盟クラブの資格が与えられます。今年準加盟クラブはFC町田ゼルビア、V・ファ-レン長崎、ガイナーレ鳥取、それに今月行ってくるんですけど松本山雅FCです。その後入会予備審査、入会審査を得て、最終JFL上位4位以内に入りますと入会が可能になります。いくつかの条件があって、まずは経営能力ですね。あと、ホームタウン制度を取っていますから、地域に支持されているか。企業に支持されているか、次が行政。この3つに支持されていないと、Jのクラブは成り立たない。また、スタジアムがちゃんとしているか、収容人数、収入規模、広告料・・・そういうことを調べます。経営諮問委員会そのものは毎月第三木曜と決まっていますが、その他に問題があるクラブの訪問が年に3,4回くらい。特典としては、J1,J2のゲームどこでもいつでも見に行けるということがあります。

 個人的に気になるチームはやっぱり横浜FCです。マリノスにはもう日産がついているから大丈夫でしょうけど、横浜FCはね。以前はフリューゲルスでしたか。

 

子育てを楽しみながら、日本にクラブライフを普及させるのが夢

現在の平均的な日々の過ごし方はどんな感じでしょうか

 家族というのが今は一番軸になっていますね。なんといってもチビの面倒に追われています。幼稚園に行っていますから、9時には出るから7時頃起きて着替えさせて、食事も一緒にとって送っていきます。前の結婚生活では仕事人間で、いわゆる子育てをしたということがないので、新鮮です。子育ては楽しい。毎日変わっていくから。毎日プールで泳がせて、あとは自分も運動ですね。今の元気を維持することを一番心がけています。今度生まれてくる子が成人する頃には私も90歳近いですから(笑)元気でいないとね。

今後の目標や夢はありますか

 YCACもそうですし、プレスクラブもせっかく名誉会員にしていただいたので、日本の皆さんにクラブライフというものを知っていただきたい、という気持ちが強いですね。日本の皆さんのクラブライフは、テニスをやる人はテニスだけで他の会員の方と交じり合わない。

 あとは2つのクラブを通じてクラブライフを皆さんに広める。ローンボールを普及させたいという気持ちもありますね。バイス・キャプテンをやっているものですからね。この9月には北海道で男子ダブルスの日本選手権に出ます。まだローンボールは普及していない。英国を中心として世界選手権はあるんですよ。でも日本では競技人口が少ない。1000人くらいだそうです。横浜はここだけ、東京は立川、関西が強いんですよ。神戸を中心として。

クラブというのは入るまでに敷居が高い、という印象もあると思うのですが?

 以前は、金銭的には高かったですね。外国の方の8倍。入会金が300万円くらいでした。去年の6月から思い切った改革をして、日本の方も同じ入会金。個人で15万円、カップルで30万円、月会費は個人で15000円、家族で3万円ですかね。ただ、欧米の皆さんは考え方が合理的なので、一ヶ国の人が会員数の20%だったかな、それ以上占めてはいけない、というルールがある。日本人は入りやすくはなったけれども、ある一定以上の数になるとシーリングに来てしまう。今シーリングに近いんじゃないかな。

忙しくて、ゆっくり過ごす時間がないということも関係あるのでしょうね

 そうですね。私も今でこそこういう生活ができるけれど、YCACで働いていた頃は仕事一筋でしたからね。その反省をこめてプレスクラブでは土日祭日は休ませてもらった。どうしても仕事がね、日本人というかアジア人の場合は(笑)。

ローンボールってどんなスポーツ?

ローンは「芝生」、つまり、芝生の上で楽しむボール競技で、ボーリングやカーリングにちょっと似ています。芝生の上に置いた白いボールに近づけるように、重心のずれたボールをころがします。重心がずれているので、どっちに転がるか分からないのが、面白いそうです。
発祥はイギリス。現在世界30数ヶ国で楽しまれています。

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英語で話して交流する、ということも日本の人に広めていきたい

 あとは、考えているのは英語です。クラブでなかなか皆さんが交流しないのには、もちろん語学の問題もあるでしょう。ここは公用語が英語ですからね。私のように40年英語を使っていても、毎日しゃべっていると疲れますからね。

 日本の人たちにスポーツを手段として英語で皆で話そう、ということを広げていきたいと思っています。横浜市中区が区役所隣に開設した、ナカ インターナショナルラウンジを運営する横浜市国際交流協会(YOKE)と協力し、年4回の国際理解セミナーの内、2回を英語によるセミナーとして去年からやっています。私がモデレーターになって講師を探してきます。1回目の講師はオランダ人で元ブラウンの社長。2回目が駒澤大学の先生でインド人。3回目は、日本滞在40年のアメリカ女性で横浜国際婦人会の役員の方。「日本の40年間の失敗と成功」について話していただいた。30人くらい人が集まるんですが、私のイントロダクションから講師の話、質疑応答まで、皆英語で2時間半です。それを何とか継続させたいなというのがありますね。対象は横浜市民で、学生から主婦から色んな方がいらっしゃいます。今YOKEも予算不足で大変なんですけど(笑)。

最近日本の企業でも、公用語を英語にしようという動きがありますね?

 ユニクロとか楽天とかね。いいと思いますよ。英語というのは、自分の意見を伝えなきゃいけないんですよね。日本語の場合には「私は」というのがないでしょう。でも英語の場合は必ず「I(アイ)」という。自分の意見として話すから、日本人が一番不得意とするところじゃないですかね。

 今日本に来ている外国人は本当に日本語が上手ですよ。日本語ができないと日本で仕事にならない、という切羽詰った状況だから。ですからここでも私が英語で話すと向こうは日本語で返事してきて、また私が英語で返すと、「いや、日本語で話してくれ」というように。プレスクラブでも、ジャーナリストには一風変わった人がいまして、「絶対に私には日本語で話してくれ」と言われましたよ。

依田さんに教わった「英語が上達する方法」とは?

  • 努力しないとダメです。古い言葉でいうと「艱難辛苦」。ある一定期間、半年なら半年、1年なら1年。努力しないと英語は身につかない。
  • 暗記が大切です。単語や語彙をある程度覚えること。
  • ミスを恐れないで使うこと。今でも私は英語を使っていて間違いだらけですよ。要は通用すればいいんですよ!

 

ライオンズクラブの会長として、根岸の外人墓地で銘板の復刻や慰霊碑建立を実現

現在の横浜に対する愛着、思い入れはどのようなものでしょうか

 まずは、YCACというのが非常に大きな比重を占めていると思います。76年からですから34年ですか。

 それと、横浜には4つ外人墓地があって、山手、中華街、保土ヶ谷、もうひとつが、根岸外人墓地なんです。ここは、山手の外人墓地が手狭になってできたんですが、戦後、占領下の日本で、米軍と日本女性との間にできたお子さんが数多く埋葬されている。1200体のうち800くらいがそうです。私は87年当時、たまたま山手ライオンズクラブの会長をやっていたので、この案内板を作りました。

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 95年には、墓地の清掃をしていて、文字が書いてあるけど銘板がない、これは何だろう、と思って調べてみたら、横浜港で昭和17年にドイツの軍艦が爆破事件を起こしていて、それで亡くなった人たちのお墓だったんです。名前のわかっている将校たちは山手の外人墓地に埋葬されて、名前のわからない日本人や韓国人、中国人などが根岸に埋葬されている。お墓はあって銘板がなかった。それで、ドイツ大使館に連絡をとって、銘板を復刻したのです。随分メディアで取り上げられました。

 もうひとつ、ここに埋葬されているのにお墓がない、そのほとんどが嬰児だということで、子供たちの慰霊碑を作ろうと計画しました。それを建てる目的でまた、ライオンズの会長になってね。会長にならないとなかなか、好きなことができないじゃないですか(笑)。それで市と話して許可をとって、99年の5月に、慰霊碑を建てました。これもまた随分大きく取り上げられましたね。作家の山崎洋子さんが作詞、エディ藩さんが曲を作ってくれた。「丘の上のエンジェル」という歌です。こういう事実を、もう少し日本の皆さんに知っていただきたい、という運動は続けていきたいと思います。

では最後に、横浜の魅力をひとことで表すと・・・

 それは「国際性」じゃないのかなあ。うん。インターナショナルということですね。

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