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ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第43回 第6章 社会人編 15

by staff on 2016/1/10, 日曜日


 
 

 

HEART&SOUL代表 原 正行

1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。

 

横浜、街と風(社会人編) 29(44)

私の病室の近所はポリープ手術で入院していた人たちが数人いてみんな喋れませんのでメモ片手に筆談です。退職後暇になりカラオケにはまって歌いすぎた人やあとは幼稚園の女先生とか、子供達相手に大声を出しすぎたためだそうです。これらの人たちとの筆談は中々楽しかったです。

復帰後

その後、自宅療養を経て3週間後久しぶりに声を出しました。仕事にも復帰! 何とか順調に行きそうな感じでしたが、どうもやはり思うように声がコントロールできないし、裏声は以前よりも出なくなっていました。そこで医者に行って喉を診てもらうと、手術後の経過は順調だといいます。しかし明らかに思うように声が出ない。裏声がすこしでもある曲や、歌いづらい曲は歌わないようにして、毎日一日11回ステージ頑張って歌いました。聞いている側はそれほど以前と変わっているとは思わないようでしたが、本人の心の中ではうまく歌えないジレンマに苦しんでいました。

何度か医者に通ううち、主治医もお手上げの状態になりました。私は絶望感を感じて、もしかしたらこのままもう前の状態には戻れないかもしれない、歌うことを諦めなければいけないかもしれないと思うと夜も眠れなくなりました。やがて主治医に「声帯医学の権威と言われる方に紹介状を書くからそちらに行ってもらえないか」とのこと。その紹介状を持ち、ワラをも掴むような気持ちで相模原にある北里大学病院に行きました。

そこはとても広く近代的な病院でした。病室に呼ばれると年配の大先生と思しき方がいてその周りに10名位の若いお医者さんらしき方がぐるりと囲んでいます。その外に看護婦さん。そのものものしい感じは、昔見た大病院を扱ったドラマのシーンを思い浮かべさせました。

色々質問があり職業上困っていることや現在の状況を伝えると診察が始まりました。診察後喉の写真などを見せられながら、先生の説明では喉の片側の声帯が正しく動いていないとのことでリハビリが必要だということでした。

ギタリスト

この頃、必死にリードギターを練習しました。もしかしたらボーカルでは飯が食えなくなるかもしれない。ギタリスト専門でいくならもっと上手くならなければいけない。そんな気持ちからでしたが、『哀愁のヨーロッパ』などはこの頃弾けるようになりました。入院中、マスターしたシークエンサーのおかげで自作カラオケを作れたのでMDに録音しておけばそれをバックにバンドがなくても弾き語りのステージでもギター一本で『哀愁のヨーロッパ』が演奏できました。以前からしたら快挙です。ベンチャーズやサンタナなど歌わなくてすむレパートリーもこの頃増えたのです。

リハビリ

リハビリは狭い2畳程の防音室に先生と二人だけ。大先生が指名してくれたお医者さんは女性でベテランの方で劇団四季とかに発声を指導している有名な方でした。

まず母音の発音から始め「アオイウミ」とか言葉の発声からやらされました。私にとって3人目の発声の先生です。医学的な見地からの指導だったので今までとは全く違う世界でした。夕方8時から朝の4時まで仕事で歌いながら、昼間は当時住んでいた本牧から相模原迄最初は週2度、2ヶ月くらいしてからは週1度のリハビリを約1年続ける事になります。

 

ここからは原の音楽夜話 - 原の勝手な視点で様々な音楽を語ります。
ソロボーカル(ブラック男性編1)

50年代から60年代に向かう頃ジャズ、ゴスペル、ブルースの影響をベースに黒人たちの間で、後にソウルミュージックと呼ばれる音楽が少しずつ形になっていきます。ジェームスブラウン、サムクック、ジャッキーウイルソン、又、モータウンやアトランティクといったレコード会社から出た新しい世代の人たちが、新しいポピュラーミュージックの歴史を作っていきました。今回はそんなソウルミュージックの生みの親達。独特の歌唱、曲づくり、サウンド、ライフスタイルを持っていたソウルミュージックのパイオニア3人にスポットを当てましょう。

ジャッキー・ウイルソン

1934年生まれ。’57年デビューし、’58年に出した「ロンリー・ティア・ドロップス」が大ヒット。曲づくりにはモータウンレコード創始者のベリーゴーディも関わっており、そのサウンドは、後のモータウンサウンドの原型になったと言われています。裏声と地声を均等に使い独特の節回しで歌う唱法はよく洗練されていて、後のシンガーに多大な影響を与えました。マイケルなどはかなり敬愛していたようです。’86年死去。

サム・クック

1931年生まれのサムは、19歳でゴスペルグループソウルスターラーズのリードシンガーとしてデビュー。類いまれなる美声と美貌で教会の女性ファンを虜にしましたが、狭いゴスペル界を飛び出し、’62年、『ユーセンドミー』のヒットで一躍スーパスターになります。サムがすごかったのはずば抜けた歌唱力に加え作詞作曲が出来たこと。金銭感覚に優れ、早くから自らのレーベルを起こして利益を得ることが出来たこと(この時代に黒人シンガーがレーベルを起こすのは人種の壁など数々の障害があり大変なことだったと思います)、若いシンガーやミュージシャンを発掘して自らのレーベルで道を与えたこと。又、モハメドアリやマルコムXなどとの交流で、人種差別など社会問題にも影響を与えたこと(彼の代表曲『A Change Is Gonna Come』には広い意味での社会的な問題意識を感じます)。そして何よりその独特の歌いまわしは、彼以降の70年代に活躍する黒人シンガーに多大な影響を与えました。1964年モーテルの管理人だった白人女性に誤って射殺されましたが、その死はいまでも謎が多いとされています。33歳でした。

ジェームス・ブラウン

ジェームスブラウン(JB)は、1933年生まれ。貧しい環境で育った彼は、幼い頃不良少年でした。教護院の釈放後、ボクサーなどしていましたが、怪我で断念、以後音楽にのめり込みます。 ’56年デビュー。『プリーズ・プリーズ・プリーズ』がヒット。彼のスタイルは熱いシャウトと比類なきリズム感から生まれるダンス、体全体を使ったアクションで観客を魅了しました。ヒットした曲が3連のバラードだった為か、最初はバラードが多かったようです。やがてリハーサルの中で曲づくりをしていくJBは、彼の見出した優秀な黒人ミュージシャンたちと独特の16ビートのサウンドを生み出していきます。1962年に出した『ライブ・アット・ジ・アポロ』で世にファンキーなJBサウンドを知らしめ、60年や70年代を通じて進化を止めることなくソウルミュージックを牽引していきます。70年代には「ブラックイズビューティフル。黒人たちに誇りを持て」と訴えて黒人意識の牽引役になります。彼に与えられた名は「ソウルブラザーナンバーワン」、「ファンキープレジデント」。ショービジネス界一の働き者と言われたJBは、生涯現役で2006年12月25日キリストの誕生日に息を引き取りました。

(続きは次号へ)

HEART&SOUL代表 原 正行)

 

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