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日本の伝統文化を横浜から海外へ発信していきたい。写真家で徒根屋株式会社代表 山中順子さん

by staff on 2016/2/10, 水曜日

「ハマっ子として、日本の伝統文化をモノとしてではなくコトとして、写真家の本質を見抜く視点を添えて、文化伝承を横浜から海外へ発信していきたいと思います。」・・・写真集「奄美100歳 母なるシマ 生命の島」の写真家山中順子さんに奄美大島のこと、大島紬のこと新社屋『徒根屋株式会社』のお話を伺いました。

写真家・徒根屋株式会社代表 山中順子さん写真家・徒根屋株式会社代表
山中順子さん
 
お名前 山中 順子(やまなか じゅんこ)
お生まれ 昭和45年6月 二俣川付近
お住い 瀬谷区育ち
お仕事 徒根屋株式会社 代表
写真家
133代奄美観光大使
ホームページ toneya-web.com

大イチョウの木に登り駄菓子を食べながら『早く大人になりたい』と願っていました

瀬谷日枝社は樹齢300年を越えるけやきが有名なのですが、私は大イチョウの木に登って近くの駄菓子屋さんで買ったお菓子を食べるのが好きでした。お転婆さんで太陽が沈むまで、家に帰らなかったものです。
反面、日本の伝統的な芸事が好きで、日本舞踊やそろばんを習いました。小学生の時に既に身長は162cmあり、その身長を活かして『連獅子』を舞台で舞いました。
早く大人になって綺麗な帯を締め着物を着て暮らしたい、お出かけしたいと思っていました。 何がどう繋がっていくか分かりませんね。

10代でスカウトされ、若くして芸能界を経験しました

14歳でスカウトされコロンビアレコード、グラビアのお仕事やお稽古など、子供時代から「普通が嫌い」と足を踏み込んだのが摩訶不思議な世界でした。
当時はまだ芸能界というところは今のような世界ではありませんでした。上下関係やマネージャーとの確執など逆らえませんでしたから・・・私には続けられないと思い15歳でやめました。
ですが、当時から身長も高く目立っていましたから10代後半でモデルになりました。横浜が狭いと感じていたので、可能性を信じて東京に進出しました。

幼い頃から、「わたしの居場所はどこにあるのか?」 「わたしはどこに帰るのか?」 と自問自答を繰り返していました。家族や家庭に恵まれなかったわけではありません。大人になっても頭の片隅にいつもこの「問い」がありました。

20代 華麗なる世界で経験を重ねて

時代はバブルの終わりの頃、昼も夜も働きました。(苦笑)
有名ブランドのファッションショー、百貨店、展示会のモデルやコンパニヨンを務めました。雑誌のモデルをしたこともあります。その華やかさの中にいて、これがず~っと続くとは思っていませんでした・・・時代と多くの出逢いが後押しし、様々な経験をさせていただきました。

その経験を生かし、芸能プロダクションを手伝うようになり、20代半ばから後半、地元横浜・元町にモデル事務所を立ち上げました。「横浜女子の夢を共に叶えたい」と養成所も平行してプロデュース。音楽レーベールも立ち上げ、ボイストレーニング、モデルスクール、ダンス、俳優講座などタレント養成にも取り組み、製作会社として音楽イベントや展示会の総合プロデュースも経験してきました。

でも、何か物足りない日々・・・自己実現や達成感はなく、何かを求めて心の旅を続けていました。仕事面では依頼が来たものは全てに取り組みました。自分にない物は仲間の力を借りて、新たなものを生み出す、形を作る・・・「企画的なものが合っているね」とよく言われました。

カメラとの出会い

芸能プロダクションや養成所の若い子たちを応援しようと、プロフィール写真の撮影をしたのがカメラとの出会いでした。 思うように表現できるスタイリストやヘアメイク、カメラマンがいなかったので「それならば自分でやろう」と思ったのです。
言い添えますが、皆さんが下手という事ではありません。ど素人の新人に向かって「笑って」「最高の表情をして」など到底無理。プロのモデルだって難しく、相性の合うカメラマンを探すのが大変です。プロフィール写真で面接も第一印象も決まる世界です。しかも、プロに依頼すると5万円~10万円撮影費用が掛かります。モデルなりたての子にとって大金ですよね。

一番身近にいる私がコミニュケーションし魅力を引き出す。「どうしたらセクシーに、どうしたら可愛く撮れるかしら?」 失敗を繰り返し、納得できるものが写せるように独学で勉強しました。尊敬するプロの写真家に手ほどきを受けることができ、自分らしい写真が撮れるようになりました。

カメラマンから女流カメラマンへ

男性雑誌のグラビア女優を写す時は、肌の質感「やわらかさ、ぬめり感」まで写すことにこだわりました。男性を刺激する写真が女性カメラマンだと分かり「しらけ」てしまうと意図と違いますから、グラビア写真を撮る時は「フォトグラファー:●●●」と別な名前を使っていました。

転機が訪れたのは、ベースボールマガジン社の『格闘技通信』の編集長から「格闘家の撮影をしてみないか」とお話があった時です。ここでは「写真:山中順子」で撮影したらどうかと、言っていただきました。
思えば多くの女優、格闘技家、作家、モデル・・・と「人」を撮り続けていました。
そしてそれが「フォトグラファー:●●●」から「写真:山中順子」へと「写される側」から「写す側」へと人生のターニングポイントとなりました。
自分の名前を看板にすることは「自分を商品化」することだと思いました。名前が残るという事は、1写に責任を持つという自覚へとつながりました。

フィリピンの医療ボランティアに参加して

華やかな世界にドップリと浸かっていた20代、アメリカ、アジアを中心にまわり中南米へも行きました。世界中「自分探しの旅」をずいぶんとしましたが、どこに行っても自分の求める場所では無い気がしました。自分を見失いかけた時が多々あります。その繰り返しだったようにも思えます。

ある時、医療関係の仲間からのお誘いでボランティアに参加しました。フィリピンの医療ボランティです。歯科医、外科医、内科医、眼科医・・・フィリピンのスラム街に暮らす子供たちに医療を届けるという長野の医師たちの取り組みでした。現場は野戦病院のようでした。

現場で掃除を手伝い、皆さんの記録を残す仕事をしながら「自分の役割とは何か?」「私たちの命って何だろう?」と考えさせられました。

幼い子は永久歯が虫歯になり、歯ブラシもありません。治療するお金がないので永久歯を全て抜かなければなりません。ましてや抜くお金もないのです。口の中は炎症ではれあがり、内蔵に毒が回って亡くなる子も・・・。

子供たちに夢を聞くと「男の子は漁師、女の子は先生」と答えます。夢の選択肢は2つです。日本に生まれ、横浜で育ち、華やかさの中で夢は無限大にある私とは全く違う環境なのです。
生まれた場所が違うだけで夢も未来も変わってしまいます。何かがおかしいと思い、絶望に似た感覚さえ覚えました。

けれどレンズを向けた向こう側には目を輝かせた真っすぐな瞳がありました。子供達を笑顔にできると、回りにいるお母さん達も自然と笑顔になります。皆が笑顔になると自分も嬉しくなります。この笑顔と感動の連鎖が言葉を超え、環境を超え、私自身を成長させてくれました。

写真というレンズを通した信頼感や心の繋がり、その経験がその後訪れる奄美の島々で役立つことになりました。

数年間フィリピンの医療ボランティアに参加し日本とフィリピンを何度も行き来しました。 「とうとう居場所を見つけた」と思っていましたが、突如、「なぜ外国なのか?」という問いが沸き上がってきました。

「あなたは奄美に必要な人になる、あなたにとっても大切な島になるから」と誘われて

写真や映像のお仕事でご一緒した奄美出身の方から「あなたは奄美に必要な人になるから是非奄美に行ってください」といわれて、「なんで私が・・・」と不思議に思いました。
ちょうど自分探しの旅をしていた頃で、「奄美大島」の場所さえ知らないこと、目が向いていたのは外国で、日本を全然見ていなかったことに気が付きました。

  奄美群島には奄美大島、加計呂麻島、諸島、与路島、徳之島、沖永良部島、与論島など有人8島と無人島を合わせると50以上の島々があります。奄美8島には独自の文化があり方言も祭りも違っています。
特産品は黒砂糖・大島紬・黒糖焼酎・フルーツなどが有名ですが、螺鈿細工に使われた美しい貝殻やその細工品、マベ貝から採れるマベパールにも人気があります。長寿の島とも言われ、100歳を超える人口では日本一を誇っています。

 
奄美に惚れ込むきっかけは30歳の夏でした。ロケハンで奄美に入り、笠利にある神の子の浜を訪れた時の事、眩しく突き刺さるように光が足元から私を捉え、光と語らった経験・・・「また、ここに帰ってこよう」と言う新鮮な感覚と「此処だったんだ」と言う懐かしい感覚に包まれました。

奄美の民間信仰では、海の彼方には豊穣の国があり、それを「ネリヤカナヤ」と呼びます。2羽の鳥は女性の姿に変え航海の安全の祈願する「ウナリ神」。民間信仰や神が宿る「タチガミ」など神と人々が共に生き、自然に感謝し生きる姿が長寿のシマ、ネリヤカナヤだと感じました。私にとっては、奄美こそがその楽土に思われました。

長寿の知恵から学ぶこと

奄美群島に住む、100歳以上の高齢者、暮らしの背景を撮り続け16年になりました。これまで380人以上の方を撮らせていただきました。100歳のお年寄りは皆元気で仕事や家事の手伝いをしています。

病名があふれる不健康な現代社会において、奄美のアンマ(お母さん)は発病を防ぐ様々な知恵を先人から受け継ぎ、処方箋を持っています。それは、旬の物を食べ、ヨモギなど薬草となる物を食材に取り入れることです。普段と様子がおかしければ、声を掛け合います。何気ない事かもしれませんが、奄美の100歳の方々や元気なお年寄りの生き方をみれば、私たちに何が欠けているのかよくわかります。

奄美群島では、シマ(集落)のアンマ(お母さん)は旧暦で暮らしています。旧暦で暮らすと毎日の生活に意味があることが分かります。旧暦から学ぶことは多く、島の自然、暮らし、島口、島唄、祭り、食、大島紬にいたる全てに興味が湧きました。

取材をしながら分からない言葉はメモに残しました。料理の具材や作り方も全てメモに残しました。 祭りや神様のことなど、何でもメモしました。後で調べて注釈を入れるとメモは『奄美辞書』のようになりました。

奄美の100歳と向き合うようになって、無知なものを知る喜びを感じ、自分の心が豊になっていくのが分かりました。「奄美の100歳を写真に撮りたい」と思いました。

「奄美を持ち歩く」2009年から自費出版している旧暦ダイアリー「奄美手帳」

2009年7月22日奄美大島で今世紀最後の「皆既日食」が見られると知り、私も奄美との繋がりを太陽と月のように形に残したいと思い2008年から「奄美手帳」を製作し11月に「2009年版 奄美手帳」を発行しました。

2000年から取り溜めていた取材メモは、8島の方言と意味、史跡、歴史、アンマの知恵やことわざ、旧暦行事、月の動き、ユタ神様の神事、集落の祭り、集落地名、黒糖焼酎蔵、本場奄美大島紬、島内を走るバスの時刻など、暮らしに関わる全ての事が、見聞きした時間の全てが詰まっていました。
その膨大な資料を島ごとに365日に仕分けし、島ごとに整理して、新暦と旧暦の暦(こよみ)が生まれていました。
いつしか暮らしにも観光にも役立つ情報で「奄美辞書」のように膨らんでいました。これが「奄美手帳」になりました。

「奄美手帳」を発行して今年で8年目になります。毎年2,000部製作しています。もっと多くの方々のためにと思い、奄美手帳を作りつづけていますが、その編集はほとんど1人でこなしています。毎年ギリギリでやりくりをしています。

2016年版奄美手帳の見所と制作エピソード
http://toneya-web.com/268




奄美手帳

生き神様との出逢い

2000年から導かれるまま奄美を歩きました。奄美を撮影し仕事にしようと島に入ったわけではありません。風や光に導かれるように「長寿の島の知恵と豊かさ」を探求する日々でした。100歳を訪ねて奄美群島の集落はほとんど回りました。

日常の暮らしをフィルムに収めるのですから、ポーズを付けるわけでもなく、家屋の中に差し込む僅かな太陽の光で写さなければなりません。白髪の1本1本に、刻み込まれた皺の一つ一つに、私が伝えたいと思った感動が宿っていた時、光にも水にも風にも空気にも神様がいると感じられる瞬間でした。

時にはやめたくなるようなこともたくさんありました。「よそもの」だと悪い噂、やっかみに足をひっぱられ、生じる誤解に苦しんだときもありました。
そんな時「あなたには光があるから大丈夫、真っすぐ生きなさい・・・」と、喜界島のユタ(シャーマン)で当時105歳の生き神様「アンノフばーちゃん」からの突然の金言、励まされました。

加計呂麻島の諸鈍の当時100歳のハルさんには、娘のように可愛がってもらいました・・・「100歳まで生きたから順子さんに出逢えたのね」・・・と。
「私にしか見えない事、できないこと、きっと役割がある」と心に響かせました。

2009年頃までは一眼レフ、中判カメラ、デジタルの一眼レフ、ビデオを抱えて、ふらっとお年寄りのもとを訪ねました。面会時間は決めていません、出逢いを運にまかせ、神の引き合わせを信じて歩き、車を走らせました。

がらがらっとお勝手の戸を開けて「アンマ」と声かけます。「どこから来たの、よく来たねえ」と返事があるときも無い時も・・・話しながら家事を手伝うことは当たり前。畑を手伝い,買い物を手伝い、時には寝起きを共にする事もありました。夜通し語って、シマの唄や方言、旧暦の祭りの時間や料理の話等…たくさん学ばせてもらいます。初対面の方であっても,懐に飛び込むのがいつしか自分のスタイルとなり、私も開けっぴろげで・・・玄関から入ればお客様になってしまいます、だからいつも勝手口からでした。

その年に100歳を迎える方を探すのですから、各地の役場の方々の温かい後押しがありました。詳しい名前が解らなくても道端で訪ね歩くと、不思議と風が教えてくれました,ここぞという必要なところで、必要な方々の導きがありました。再訪の際には「お勝手から家族のように入ってね」と笑って迎えてくれます。そのような関係を築かせていただけたのもシマならではと思います。

訪問を断られた事がありました。目や耳が遠くなり対応できないと言われました。事情は十分承知の上なので電話だけでは諦めません。必ず訪ねて行きました。

「アンマ遊びに来たよ。踊ったり唄アシビしよう」。加計呂麻島諸鈍で出逢った上田ハルさん。当時、部屋の奥でうずくまるように座っていました。ご家族や医療関係社が呼びかけても2年間まったく部屋から出ようとしなかったといいます。
私は同じ目線になるよう膝と手をついて声を掛けました。どれくらいの時間がたったか分からないけれど、目が合うまでの時間が必要でした。しばらくして小さな声で話しだしたので、「私についてきて」と声を掛け、ハイハイしながら縁側へ誘うと、後ろにはハルさんがハイハイしてついて来てくれていました。「一緒に島唄を唄おう、外に出たら気持ちいいよ?」と言い軒先へ・・・。ハルさんは外に出たのです!「ヨイスラ節」「いきゅんにゃ加那」「島のブルース」で手踊りまでして、太陽の下で遊んだのです。何がそうさせたのか分からなかったけれど「光を当てなくては」と、私も必死でした。

数年後、再び訪ねると、ご家族も覚えていてくれました。あれからハルさんは皆と同じ床の間にいると…。だた、もっと耳も聞こえなくなり目も悪くなったから、私を覚えていないと思うよと言われました。
ハルさんに挨拶すると、目をまん丸くして「旦那さんは連れて来たの?」と聞かれました。なんとその言葉は以前の会話を覚えていたから出た言葉でした。初めてあった時のお別れの言葉「今度は旦那さんを連れて来なさいよ」・・・あの時を覚えており、再会を楽しみにしていたのです。

目や耳が効かないのはその方にあった時の間があるのだと思います。ゆっくり引き出せば溢れる出逢いがあります。ハルさんの大きな手で私は顔や頭をくしゃくしゃに撫でられ、互いに涙しました。写真集には再会を心から喜んでくれたハルさんの写真も納めてあります。

写真集「奄美100歳 母なるシマ 生命の島」

『人の思いは生きている限り深まっていく』そう実感させられた出逢いがありました。名瀬におられた里農吉さんとの初めての出逢いは107歳。「人生とは何ですか」と訪ねると「まぼろしだ」との答え。また3年後に再び訪ね、もう一度同じ質問をすると、1時間ほどうなり 突然 言葉が導きだされ「人生とは幻のごとく、ひらめきの如し」。3年の間に何があったのでしょう。生命力をいただいた落雷のような鋭い言葉が忘れられません。

2000年から撮りためていた “奄美の100歳” の方々の写真は「奄美100歳 母なるシマ 生命の島」として編集し発行しました。1世紀生きた人の存在感は圧倒的な魅力。そばにいるだけで、心身に伝わってくるものがあります。

それらの編集にあたっては、運命的な方との出逢いに支えられ今日があります。文章の書き方、視点を教えてもらいました。その方との出会いが、作品を作り続け向き合い続ける私のバイタリティーになっています。
本当に人と人の出会いは一瞬です。人に恵まれて今のわたしがあるのだと、※マブライの人生だと思います。

※マブライとは自然の神々や祖先、親に守られて導かれ、幸や恵を頂くことをマブライといいます。その恵をいただく人のことをマブライムンといいます。奄美の深い世界観です。命こそ宝、命をキミ、アナタ、ボク、ワタシに置き換えてみたら・・・気がつくでしょう。マブライを得て私たちは生きています。
辛いことも嬉しいことも表裏一体です。その全てがあって、この瞬間の恵に喜び、感じることができるのではないでしょうか。


写真集「奄美100歳。母なるシマ、生命の島」


写真集「NERIA」

島から外へ,外からシマへ

「写真家としては写真展は大切ですが、奄美のお陰で私はたくさんの響きを得ていますから、奄美群島で出逢った食の豊かさも一緒に伝えたい」という思いから写真と物産を一緒に展示する形になりました。小さな空間ですが『奄美』を感じてもらえたらと思いました。

2007年頃から特産品の販売企画やデザインを手伝ってきました。奄美にとって普通の事は私には特別に見えます。
奄美の商品と言っても沖縄と似ているし、鹿児島の商品とも似ているので差別化が必要でした。その前に奄美を知っている方が少ない中で、商品を販売するわけですから認知してもらうまでが大変でした。もちろん他の人に任せられるような状況ではありません。
私にはデザイン、プロダクション、広告宣伝の経験があるので、様々な表現方法で長寿の島の特産品開発のPRができました。

黒糖とタンカンフレーバーの『奄美黒糖麦酒(あまみこくとうばくしゅ)』という奄美ビールや皆既日食限定の奄美ビールです。横浜出身という事もあり『(株)横浜ビール』の応援で製造してもらいました。この時は、企画からデザイン味にまで関わりクラフトビールを誕生させました。

横浜伊勢佐木町にあったカレーミュージアムで『琉球・奄美カレーの店』の運営に関わり、『アジアンカレーの店』『横浜フレンチカレーの店』『カレーバー』でも奄美ビールを販売し、当時のメディアにも掲載され人気となりました。カレーミュージアムが閉店となりやむを得ずミュージアム事業部は解散しました。ですが、店舗運営や実績は大きな経験となりました。

また、長寿の島商材の開発では徳之島の島みかん果汁を入れた『島サイダー』『奄美ラー油』『月桃美茶ハーブティー』など、新たな商品開発を会社内の事業部として立ち上げ、百貨店で催事販売を担当しました。(年間2回から~4回)外からみれば上手く言っているように見える事でしょう。ところが苦労苦労の連続でした。

商品は、売れる顔にする為にデザインし小分けしたり、陳列、金額、割引・・・様々な仕掛けが必要です。最初はとにかく並べて商品を紹介し販売するといった流れですが、百貨店の1テーブルの売り上げが最初は1日5万円も行きませんでした。人件費、百貨店マージン、宿泊費、交通費、食費を計算したら、例えば仕入れが50%だとしてもマイナスです。それでもやると決めたので止めませんでした。
家族には相当苦労をかけました。もちろん友達も同様です。無償で手伝ってもらいました。もちろん恩返ししますが双方それでは長続きは難しいです。アルバイト代を工面し赤字が膨らみました。

全国で行われる物産展です。ホテルに泊まるとお金がかかりますからスーパー銭湯を利用し、車で寝るときもありました。アルバイトを雇う事は赤字が嵩むので、その分私が会場に早朝7時入りし、商品を並べ、朝礼に出て、10時のオープンに間に合せました。
食事もトイレも行かず毎日閉店まで接客し、「どうしたら売れるのか?」 「どうしたら美味しそうに見えるのか?」 「どうしたら準備が早くできるのか?」全てが初めてでしたから、自分が体験し苦労しなくては人に教える事もできないと思いました。「1日5万円の売り上げを1日30万にするにはどうしたらいいか」 「6日間の催事で200万円売り上げるにはどうしたらいいのか?」・・・「どうしたら?」を自分の力で解決し、実践し、メニューを作るまでやめないと決めました。
ロビンソン百貨店、高島屋の鹿児島物産展にいれていただきました。物産展の依頼があれば引き受けて、販売員としての経験を積んでいきました。

他の売り子さんとの私の違いは、私が販売のプロではなく、奄美が好きな写真家だったこと。仕入れも販売も全て自分でやっているから、すべての生産者と地域の事を誰よりも詳しかった事です。
物産展のお客様には『奄美の100歳の方々から学んだ知恵』をたくさんお話ししました。実際は商品を売るというよりも自分に興味を持ってもらえた事が最大の利点だったのかもしれません。「毎日大変ね」と手作りのお弁当を差し入れしてくれた方・・・催し場に年に2回来ると分かっている方は、差し入れを持って私に会いに来てくれ、私のファンになってくれました。 全ての商品をコースで買ってくださる方も増えていきました。

奄美の商品はもちろん美味しいです。ですがそれ以上に「長寿の島のストーリー」があります。
そのストーリーを魅力的に表現し語る事が「商品力」となり売り上げに繋がる事を私は学びました。100円のモノも1万円のモノでも結果は一緒だという事です。誰がどう伝えるかが大事なのです。もちろん販売のコツもありますが…売れる子を育てるのには時間がかかります。

写真家として観光大使としての顔の裏には、足を棒にして100円の商品を愚直に説明し、搬入搬出をしてきた日々があります。 苦労を苦労だとは思っていませんが、その時は本当に大変でした。島のわーなり(嫉妬)にも苦しんでいましたが、途中でやめたらもっと恥ずかしいと思い、今も継続して奄美の物産の販売も年に数回ですが続けています。

 

消費してくださる方々 = 価値を知ってくださった方がお客様になります。

2ほど、明太子やさつま揚げを抜いて1日の売り上げがトップになった事があります。この時は本当に嬉しかったです。物産展の主催者や販売員にとって、お客様にとっても未知であった『奄美』の黒糖や島の手作り商品で売り上げが上がるという実績が作れた事、今の自信にも繋がっています。

奄美に心を残して、奄美から外へ

200年から16年、奄美に関わってきました。ここでもう一度自分の可能性を試したいと思うようになりました。
物産展も一段落し、2013年ごろから行動と精神の拠点を横浜に戻し、奄美の衣食住を横浜から発信してみようと考えました。次の発信するものは「本場奄美大島紬」です。
奄美では「のの」と呼ばれ代々受け継がれていく大切な絹織物=着物です。

「一人では着られない」 「帯が結べない」 「非日常的」 「手が回らない」 「タンスに閉まったまま」などということで、着物離れが日本中で起きています。

西洋では女性の服装はドレスからワンピース、ワンピースからツーピース、そしてパンツルックへと時代とともに変化し多様化しました。 東洋でも今や洋服が主流となっています。
けれど着物は「しきたり」に縛れ、変化が許されず、「和服」であって日本以外で広まることはまず望めません。このままでは日本においても「着物文化」を残すのは難しくなると思います。

本場の大島紬はシルクです。そして島の天然素材を使って染め上げます。「テーチ木染め」 「泥染め」 「藍染め」といった手法です。織り上げるのも手仕事で、染から織りあがるまで約1年がかかります。
そのため値段も高くなり「超高級品」となりますが、「紬」であるがゆえに「しきたり」では正式なハレの席に着て行けません。

高級品を普段着にカッコよく着こなすことが「オシャレ」だとしたら、その「オシャレ」の極みが大島紬です。そのお手伝いを「奄美式部」という想いと形で、ファッションでやろうと立ち上げたのが「徒根屋 株式会社」です。

シルクや文化を扱う会社なので、社屋をシルク文化の発祥の地「横浜の弁天通り」に置くことにこだわりました。

着られないでタンスに眠っている着物、着られないからと処分される着物、そんな着物なら思い切って着られるように『加工』というデザインにしてしまいましょうと、ワンピースやツーピース着物に仕立て直します。
既存のセパレート着物とは違い、着ても『加工』してあると思わせない『仕上げ』にこだわったオーダーメード着物です。そもそもキモノはオーダーメードですが・・・。
このセパレート着物はリバーシブル仕立てが可能で、上部と下部を別々に組み合わせたり、羽織や巻きスカートとして洋装と組み合わせを楽しむことができます。
日本に来た外国の方が、「着物が着たい」とお土産に買って帰っても、簡単に着られる着物になっています。5分で着られ12パターン以上の遊びが楽しめます。

大島紬と向き合うようになって糸とりから機織りも習っています。大島紬を自分で染め、機をたて、へたくそでも織ってみると苦労や「思い」が分かります。
その「思い」を理解したうえで、「大島紬」でストール、ブラウスやコートを作ったり、紬を裂いて織りなおす「裂き織り」で帯やバッグを作ったりと大島紬の可能性を模索しています。
「ファッション界にいた経験が活かされる場所、横浜の地で「大島紬」に光を当てたいと思っています。」



着付けいらず、5分でおしゃれに! 山中さんオリジナルブランドの「奄美式部」

奄美式部の詳細はチラシ(PDF)をご覧ください

133代奄美観光大使に認定

関東の百貨店などで10年近く物産展を企画し、国内外で写真展やイベントを主催してきました。昨年2014年3月25日「奄美を応援する」という原点に立ち、会社を設立しました。
「あの人は奄美で稼いでいる」などという声が以前から誹謗中傷のように囁かれ、その言葉が聞こえてくるたびに「頑張らなくてはいけない、しっかりやらねば」と思って「悔しさ」がバネになっています。
大切なのは私のリズムとお客様のリズム、シマのリズムを組み合わすこと、それが「仕事」だと感じています。シマの現実は厳しいです。資源を生かす取り組みや生産と販売のリズムが大切です。

観光協会認定「133代奄美観光大使」は今から5年前でしょうか? 関西奄美会元会長 武田勝次氏、東京奄美会元会長 佐藤持久氏の両名から当時の新年互礼会の際、推薦がありました。関西の会長にお断りの連絡をしたら「決めるのは君じゃない、断る権利はないよ・・・」と、笑い飛ばされました。そのことを東京の会長に話すと「少しでも島出身ではない山中が活動しやすいようにしたいよな、頑張れ」と気合いを入れていただきました。暖かいお言葉に涙が溢れました。

観光大使になって、様々島の事をやっていく中で「あの人は観光大使だから、お金をもらっているからやっている」など、理不尽な陰口は聞きたくないという思いがよぎり断りたかったですが、推薦してくれたお二人の思いにしっかり応えたいですし、「見ている人は見ているのだから自分を貫きしっかりやるしかない」と思った事を昨日のように覚えています。私が情熱的にすべき事は多いいです。

奄美市認定「奄美ふるさと100人応援団」に認定

奄美の営業マンとして店舗や実際に動いている方々を朝山市長と紬観光課が認定している制度があります。「奄美ふるさと100人応援団」です。100人応援団といっても全国にはまだ50名くらいの認定者です。

昨年、『奄美ふるさと100人応援団名鑑』の製作を徒根屋株式会社が奄美市から正式に請負いました。全国の応援団の把握や繋がり強化のためです。そして目玉は全国の奄美会を紙面で繋ぎ、全国の奄美店舗を探し、データとしてまとめあげるという画期的な試みです。構築が難しい内容ですが、その情報は島を応援する人たちが何処にいるのかが一目で分かる冊子です。
奄美市のホームページでも今後の情報等が見られると思います。

山中順子さんにとっての横浜とは?

私にとっての横浜は「港町」です。混交した文化や風習がおそらく私自身の知性や感性に影響していると思います。港は外海・海外への玄関です。奄美も海繋がり、世界中海でつながっています。

2013年3月横浜マリンタワーにて開塾の式典、ここに神奈川・横浜の企業約20社の異業種が連なる塾が誕生しました。次世代の経営者を育てる一般社団法人道草塾です。私も理事を務め今年で4年目となります。
代表は、神奈川新聞社元社長 堀田憲司氏、塾長に富士ゼロックス神奈川元社長 南 徹氏、私を含め理事2名で運営し、神奈川・横浜の未来人の塾生と共に日本文化を学び歩く座学と学びで親睦を深める活動をしております。

写真家として奄美100歳を撮り続け深めた感性と視点から横浜人として活動したいという思いが地元でも繋がりました。

ハマっ子として、日本の伝統文化をモノとしてではなくコトとして、写真家としての本質を見抜く視点を添えて、文化伝承を横浜から海外へ発信していきたいと思います。

(インタビュー:高野慈子)

 

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ヨコハマNOW 動画

新横浜公園ランニングパークの紹介動画

 

ランニングが大好きで、月に150kmほど走っているというヨコハマNOW編集長の辰巳隆昭が、お気に入りの新横浜公園のランニングコースを紹介します。
(動画をみる)

横浜中華街 市場通りの夕景

 

横浜中華街は碁盤の目のように大小の路地がある。その中でも代表的な市場通りをビデオスナップ。中華街の雰囲気を味わって下さい。
(動画をみる)

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