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横浜スケッチ(第13回) 曹洞宗大本山総持寺

by staff on 2016/5/10, 火曜日

ペンネーム 成見 淳

「鶴見小学校だったので、ここ総持寺は遊び場でした。昭和40年代の頃です。」
「塩満さん。そうでしたか。この絵の真ん中の、今駐車場になっている所は大きな池でしたね。その頃私は犬を連れて散歩に来て、池で泳がせたりしていました。小学生の頃です。ひょっとして池に石を投げて何回ジャンプしたか遊んでいたのは塩満さん? 石原裕次郎の法要の時、駐車場に3万人が集まって『夜霧よ 今夜もありがとう』の大合唱は凄かったです。「ときの声」とはあの事を言うのかと実感しました。 懐かしいです。
ところでその頃の思い出の場所やエピソードなどを、箇条書きでも結構ですから送っていただけると5月号の『絵ッセー』のテーマとなるので大変助かります。描いた絵はもちろん差し上げます。いかがでしょう?」
「鶴見の思い出としては三ツ池、大黒ふ頭、今は無き花月園競輪場等々です。殆ど、小学生の頃の遊び場でした。石を投げて何回ジャンプしたか遊んでいたのは総持寺ではなく主に鶴見川でした。また、1963年11月の鶴見事故の時は衝撃的でした。その時総持寺は遺体安置場になっていたことが未だに記憶に残っております。」

先月号の「曹洞宗徳雄山建功寺」に続いて、今月号は同じ鶴見区内にある総持寺となった。別に曹洞宗に肩入れしている訳ではなく、建功寺の桝野俊明ご住職が修行をされた総持寺のスケッチをFacebookに投稿したところ、上記のようなFacebookでのやり取りから一気にテーマが決まった。

曹洞宗大本山総持寺。
曹洞宗は大本山が永平寺と総持寺と二つあるが、そもそも大本山とは何かを知らなかったのでネットで調べ、頭の中を整理してみた。どうも宗派ごとの重要な位置づけとされる寺の事を指すようだということが分かった。
江戸幕府が宗教統制のために設けた制度で、第二次大戦以前は13宗56派が公認されていた。

*ちなみに13宗派は以下の通り

  • 奈良仏教系の法相宗、華厳宗、律宗
  • 平安時代初期に成立した天台宗と真言宗
  • 平安時代後期から鎌倉時代に成立した
    ・浄土教系の、融通念仏宗、浄土宗、浄土真宗、時宗
    ・禅宗系の、臨済宗、曹洞宗
    ・日蓮宗
  • 近世初期に成立した禅宗系の黄檗宗

道元によって今の福井県に永平寺が開かれ、四代目の瑩山によって能登の国(今の石川県輪島)に総持寺の前身が開かれ1321年に諸嶽山總持寺と改められ、1898年(明治31年)火災で焼失、1911年(明治44年)現在地に移転した。JR鶴見駅より徒歩5分という非常に交通の便の良い所にある。
なお、総持寺の境内に隣接した、さらに鶴見駅寄りに成願寺という同じ曹洞宗の寺があることに気が付いた。字は異なるが浄願寺という秋田の私の先祖の寺と同じ発音だったので写真を撮ったのだが、原稿を書きながら撮影日を見ると、これまた偶然に今年の3月の誕生日の日だった。

鶴見の成顔寺 秋田の浄願寺

そうなると時間と好奇心のたっぷりある身としては、さらに首を突っ込んで行かざるを得ない。自然と気合が入る。ほんの少しの好奇心が思わぬ発見に結びつくことを、このコーナーを担当してから実感すること何度体験した事か。空振りに終わっても失うものは何もない。
調べてみると、輪島の総持寺が火災に遭い、明治31年に鶴見に移転した際に成願寺が境内及び所有地の大半を寄附したとあった。さらに「横浜スケッチ」前号の建功寺の檀家でもある鶴見高校の同級生から「成願寺や建功寺など鶴見を中心とする5寺がその際誘致活動を行って移転を実現させた。」との情報も得ることが出来た。それにしても所有していた広大な土地をよく寄付されたものだと初めて知ることが出来た。

話を戻して、塩満さんとの最初の出会いはヨコハマNOW主催の世界コマ大戦の前、ボリビアナイツの時。その時演奏していただいた「アミーゴ・デル・トロンポ」の新進気鋭のアルパ奏者塩満友紀さんのお父様。お互いに何となく馬が合うような気がして、ご挨拶をして、その後Facebookに何度も「イイね」をいただくようになって・・・というような次第でお話を伺うことになった。

「1954年2月横浜市鶴見区鶴見町(現在の鶴見区鶴見中央3丁目)の生まれ、鶴見中学校裏門前、芦穂橋の袂です。現在イトーヨーカ堂鶴見店と成っている場所は、当時は日本石油(生麦工場)の従業員社宅とし、長屋形式で100所帯以上の方達が住んでおりました。自動車教習所を経て、今のイトーヨーカ堂になりました。
また、今のR15(国道15号)鶴見中央3丁目の交差点の角には、当時(昭和40年位まで)朝日製鉄?の溶鉱炉があり昼夜を問わず、赤い炎が燃え盛っておりました。R15の横で、ですよ!! 今では考えられません。R15と言えば箱根駅伝の鶴見中継所が今と違い、鶴見駅から出て来たみずほ銀行(昔の第一勧業銀行)の所だった事が鮮明に思い出されました。
京浜東北線と鶴見川に挟まれたエリアの花月園前の手前(鶴見線の内側)までが学区でした。このエリアには、鶴見区役所、鶴見警察署、鶴見郵便局(本局)、鶴見小学校、鶴見中学校…、と鶴見区の御膝元(中心)街でした。更に遡れば、鶴見小学校はこのエリアでは本校的な扱いで、子供心にも自負が有りました。
地図を見て頂ければお分かりかと思いますが、鶴見川の流域で有り、昭和30年代初頭は泳ぐ事までは出来ませんでしたが、まだ水もそこそこ綺麗で、学校(幼稚園)から帰ると夕方仕事を終えた工場勤めのご近所の人達と鶴見川まで行き、ハゼ釣り(釣れても10数匹でしたが)をし、その魚が夕食に並んだ記憶が有ります。
台風が来る度に鶴見川が氾濫し床上浸水を繰り返していた事も鮮明に覚えています。我が家は、アパートの二階だったので、実被害は殆どありませんでしたが。この場所は、昔から鶴見川が芦穂橋の所で大きく歪曲しており、台風の時は必ず決壊していました。今は治水が進み、氾濫する事はないそうです。
当時、小学生の遊び場としては鶴見川沿いの土手であったり、近所の空き地だったり、遊ぶところには苦労しませんでした。しかしながら当時の一番の遊び場は鶴見商店街でした。商店街の中には多くの同級生がました。今と違って同じ学年のみならず、上下3年位の歳の差は気にせず皆で遊んでおりました。小学校の最初の遠足は三ツ池でしたね。
商店街から線路(東海道線)一つ越えれば、そこには未開の地、総持寺が有りました。
広い敷地で知らない事が多く、毎回が探検・冒険と言った、子供に取っては興味深々の場所でした。敷地内を走り回り、寺の裏に有った墓地は広く、絶好のかくれんぼのエリアです。当時から俳優や相撲取りなどの有名人の墓が多く、一区画が広くて、走り回るには絶好の場所でした。まだ土葬が容認されていた(?) 頃だったことも有り、埋葬したところに足を踏み入れ、友人が陥没した穴に落ちた事も面白い思い出です。
本来は学校では総持寺に行く事は禁止事項だった様です。一つには、危険だったことと、総持寺小学校の学区外であり、今の様に物騒では無かったものの危険が伴うからだったのでしょう。 もう一つ当時の大きな悲惨な思い出として、1963年11月9日の鶴見事故が有ります。東京オリンピックの前年であり、小3であった私も事故直後のサイレンの音や、ニュースでの報道を驚愕の面持ちで見て居た事は覚えております。
また、総持寺は1971年に青森で殉職した親戚の自衛隊葬を思い出します。僧侶40人近くが今の大本堂の中で読経しながら練り歩いていました。」

などなど、箇条書きどころか思い出を沢山書いていただいたのに、紙面の関係で割愛した部分も多く、大変申し訳ない気持ちがしている。

さて、私の総持寺の思い出としては、①「小学校の最初の遠足がここ(当時周りはみな「本山」と言っていた。)だったこと」、 ②「小学校高学年の時に犬を連れて池で泳がせたこと」、 ③「石原裕次郎の17回忌があって当時高校生だった息子と自転車で近くまで行ったこと」が記憶に残っている。もちろんそれ以外も、ここは鶴見駅へ出る時によく通るし、散歩コースのひとつでもあるので何回も訪れてはいる。
だが、一番近い所では在学中に果たせなかった大学自動車部の仲間や先輩とオーストラリア縦断リベンジの旅に行った2008年、裕次郎さんのお墓のすぐ近くにある上保(うわぼ)先輩のお墓を報告がてらお参りしたことが記憶に新しい。
ちょうど上保先輩を含む自動車部の先輩4名と医師1名が石原慎太郎さんを隊長とする南米大陸横断1万キロの旅に出かけた50年後のことだった。そのご縁で石原さんにもお会いすることが出来た。(オーストラリア遠征については同窓会報にも寄稿し、私のホームページにも「ULURU物語」として詳しく書いた。)

  1. については何せ63年前のことなので、小学生の足ではとにかく遠かったということ位しか思い出せない。
  2. は『犬は泳げるんだ! これが犬かきというものか!』と感動したことを映像と共に頭の中にしまいこんでいた。
  3. は、前夜から大勢の人が並んで、総持寺から豊岡通り、森永製菓の工場の前から第二京浜へ出て、眼鏡橋から島忠のあるあたりまで列が続いたことを覚えている。5~6Kmくらいだろうか? 夜中の事なので途中の民家の方がトイレを貸してくれたとか、主催者が警察から厳重注意を受けたので次回は国立競技場で法要を行ったという。私達親子も『これではとてもまともに行ったら近づけないぞ。』と思い、(スケッチに描いた)手杖坂の上から自転車で駐車場の大観衆の大合唱を聞いたことを、映像・音響と共に記憶から引っ張り出せた。
手杖坂から仏殿を望む。池のあったのは左の木々の裏手、
現在駐車場になっている所。裕次郎の墓は仏殿の左奥。
三松閣。緩やかな登り坂の右。

<参考資料>

筆者紹介

Jun Ohsawa 大澤 淳さん  
お名前 Jun Ohsawa 大澤 淳
E-mail j-narumi@ug.netyou.jp
URL http://home.netyou.jp/kk/ohsawa/
成年月日 1967年1月15日成人式。おひつじ座。いわゆる団塊の世代。誕生日はもっと前。
年齢 その年の西暦 - 1947(3月25日以降)
生息地 横浜市鶴見区に60年以上在住。いわゆる浜ッ子。
血液型 いわゆる典型的なAB型
性格 内気、控えめ(だが信念は曲げない)、人前に出るのを極度に嫌う・・・だったが、 最近は少しずつ変わって来た。これもネット化のおかげかな。
割りと簡単に物事をはじめてしまう。(衝動的、意思決定が速い、好奇心が強い) 。忘れやすい。(最近特に)
趣味 絵画(スケッチ、油彩、水彩)ヨコハマNOWのお陰で、2015年より主に水彩画を中心に絵画を再開した。
文章を書くこと(エッセイ、旅行記など)。
フォルクローレ(アンデス音楽、ケーナ、サンポーニャ演奏・・・だったが、今はたまに聴くだけ。
年1回(と決めているわけではないが)の海外放浪の旅。
(心の洗濯:すぐ心が汚れやすいので。)
ゴルフ(1979年にホールインワンをしたことも。神奈川県津久井湖ゴルフコース、最近は月2~3回、ハンディキャップは全盛期13だったが、この頃は何とか10代後半。)
退職後は散歩や庭を眺めたり芝生の雑草を取ったり。
2015年作曲を始める。

 

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