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合同会社Loco共感編集部 代表社員・編集長 坪田知己さん

by staff on 2016/7/10, 日曜日

「憧れのまち本牧」を主宰している川口智子さんから、「文章講座を開くから参加してみて。先生が素晴らしい方なの」と言われて、受講生としてお会いしたのが坪田さんとの出会いでした。坪田さんのお話を伺って、あらゆる事柄に詳しいのに驚かされました。坪田さんとはどのような方なのでしょうか。インタビューをご覧ください。

合同会社Loco共感編集部 代表社員・編集長 坪田知己さん合同会社Loco共感編集部 代表社員・編集長
坪田知己さん
 
お名前 坪田 知己(つぼた ともみ)
ご年齢 66歳
出身地 岡山県
お住い 横浜市港北区
ご家族 現在独身
お仕事 合同会社Loco共感編集部 代表社員・編集長
京都工芸繊維大学特任教授
他多数
HP http://www.loco-editors.com
ご性格 ざっくばらんで、すぐ人と仲良くなれるので友人が多い
考えること議論することが大好き
ご趣味 バイクツーリング
家庭料理なら何でも(中でも得意はカレーライスで、十種類以上のバリエーションがある)

横浜歴はどれくらいですか

岡山出身です。
父は元特攻隊員で、戦争の悲惨さをよく話してくれました。
「新聞がウソを書くようになったら、世の中終わりだ」というのが口癖でしたね。
その父が孫子の「敵を知り己を知りれば百戦殆うからず」という一文からから「知己」という名前をつけてくれました。
 
幼少のころから読書が大好きで、特に地図はスタンレーやアムンゼンなどを読み、小学校4年生のころには世界中の地名を覚えていました。将来は新聞記者か天文学者になりたかったです。
 
大学は東京教育大学の哲学科に入りました。私たちのときは全共闘による学生運動の真っただ中で、大学に通ったのは2年半くらいでした。
クラスの半分は留年しましたが、日本経済新聞社の採用試験に通ったので急遽、卒論を書いて卒業しました。
1972年に入社してから、大阪・名古屋・東京と転勤して記者をしていました。横浜に住んだのは1984年からですから、横浜歴32年になりますね。

日経新聞ではどのようなお仕事をしていたのですか

最初の赴任地、大阪では経済部で中小企業担当でした。ちょうど第一次ベンチャーブームで忙しかったですね。
 
それから社会部に移り、社会面で真面目に働いている人たち、「サラリーマン」の連載をしたいと、一年間言い続けてようやく記事を書かせてもらいました。
 
最初の記事が、関西電力の原発で働いている人たちの話で、「何かあったときの覚悟ができているか」という内容でした。佐世保重工の倒産で大阪に流れてきた人たちも取り上げました。
 
その連載は25年間も連載されました。そしてなんと第32回菊池寛賞(1984年度)を受賞したのです。
「日本の企業を支えるサラリーマンの生きがいと苦悩を、すべて実在の人物を通したドキュメントとして5年間にわたり報道し、読者の共感を呼んだ」というのが授賞理由でした。
 
名古屋時代は猛烈社員でしたね。日経が名古屋で印刷工場を持ったので、紙面充実のために送り込まれ、毎日午前3時帰宅です。(笑)
その頑張りで、販売部数がたった1ヶ月で8万部から16万部に跳ね上がりました。
 
東京では、「21世紀企業」という企画物のキャップをやりました。
半年間の連載では、マイクロソフトのビル・ゲイツ氏など様々な企業のトップに会いました。思い出深いのは電電公社(現 NTT)の最後の総裁だった真藤恒氏へのインタビューです。
 
それ以来、「良い会社」の研究がライフワークで、1994年には『マルチメディア組織革命』という本を書きました。「良い会社」とは、社長がいなくてもいい会社ではないでしょうか。
アメリカのザッポス、サウスウエスト航空、ブラジルのセムコ社などは世界的にみて良い会社でしょう。
日本では、社長を社員投票で選んでいる、テレビマンユニオンを挙げます。

日経新聞の情報化戦略の礎を築かれたそうですね

名古屋に勤務していた1980年ごろにパソコンを覚えて、パソコン通信にのめり込みました。
トフラーの「第三の波」(1980年)を読んだ時の衝撃は今でも忘れられません。
3日間眠れなくて、「第三の波」のことばかり考えていました。
そのときに、紙媒体の新聞は早晩なくなり、電子メディアになっていくのだろうと悟りました。
 
「日経新聞の目指す方向は、電子新聞である」と社内で語ったのは私が初めてです。まだ「マルチメディアって何?」という議論がされていた時代でしたらかなり早かったです。
 
「情報とは、行動を選択するときのために必要なものなのだから、ニュースを即座に届けられる電子メディアは、日経にとっては追い風」と主張し続けました。
 
電子メディア局次長、日経メディアラボ所長などを歴任して2009年に定年退職しました。
 
日経時代の思い出は、「日経・電子版」につながるインターネット時代の戦略の基礎を作ったこと。とくにAOL(アメリカオンライン)との提携交渉が最大の仕事でした。もう一つが「日経地域情報化大賞」「日経デジタルコア」を創設したこと、それに「サラリーマン」でしたね。
 
日経新聞は他社よりも情報化戦略が進んでいると言われていますが、それは、インターネットに詳しい技術者がいたことと、常に他社に先んじて手を打ったことが大きいですね。他社から学んだことは皆無です。常に先頭でした。


インタビューの様子

横浜で会社を作られたとか

NPO法人横浜コミュニティデザイン・ラボ代表理事の杉浦裕樹氏と知り合ったのは2007年の地域SNS全国集会だったと記憶しています。
 
それから、横浜の地域SNS「ハマっち!」に関わるようになりました。
「ハマっち!」は、横浜の開港150周年を契機に、市民が参加し、アクションを起こし、つながりをつくるための手段として2007年3月に開設されたSNSです。
 
「ハマっち!」を運営するための企業体(株式会社シンフォシティ)を2010年に設立して役員になりました。
 
地域SNSは、横浜のように図体が大きすぎる都市では厳しいですね。
私見ですが、5万~30万人程度の都市にはフィットするように思います。
例えば、兵庫県姫路市や京都府宇治市などは地域SNSが盛んで、コミュニティ作りに貢献しています。
 
370万人の人口を擁する横浜は、Facebookの世界になりますね。

定年後はマルチのご活躍ですね

日本人は欧米人と比較すると、「個」が確立していない民族です。
「個」が確立していないと、真の意味での民主主義が成り立たないと思うのです。
 
「個」を確立するためには、表現力をつけることが重要だと考えて、2011年から文章講座を始めました。教え子は1000人に達しています。女性が多いですね。
 
優秀な書き手である教え子たちが、合同会社Loco共感編集部という編集プロダクションを立ち上げました。現在、40人のライターを擁して、東急電鉄やパソナ、日本財団からの受注を請けています。女性は意欲とチャンスがあればどんどん育っていきますね。私はそれを厳しく温かく見守っています。
 
文章講座のために書いた「読まない人に読ませる共感文章術」という教則本に加筆した「21世紀の共感文章術」という本が9月に出版されることになっています。
 
最近、「ソーシャリーマン」という概念を広める活動を始めました。
「ソーシャリーマン」とは、サラリーマンをやりながら、ソーシャルメディアを使いこなしている人たちの総称で、私の造語です。
 
「ソーシャリーマン」には、会社だけの生活ではなくて、自己主張を持って多種多様な分野で活躍する人材を目指そうという私の想いをこめています。
今年中に「ソーシャリーマン学会」を設立する予定です。

坪田さんにとって「横浜」とは?

まず住みやすい街です。東京だと大きすぎます。
それから、知的でアクティブな人たちが大勢いることもいいです。
私の知的好奇心を様々な角度から満たしてくれるコミュニティがたくさんあります。
私の故郷は岡山ですが、ずっと横浜に住んでいたいです。
 
横浜から新しいことを創り出していきたいですね。
「成長!! 人々が仕事を通して成長する、それを見守る花咲かじいさんでいたい。横浜からのスタート!!」


坪田さんにとって横浜とは?
「成長!! 人々が仕事を通して成長する、それを見守る花咲かじいさんでいたい。横浜からのスタート!!」

<取材を終わって>

坪田さんは、日経新聞の敏腕記者だった方で、ITに詳しく総務省地域情報化アドバイザー、文章講座の講師としてご活躍だと伺っていました。鋭い方なのだろうと想像して、お会いしてみるととても気さくで話好きな素敵なおじさまでした。色紙に書いていただいた「横浜の花咲かじいさん」としての今後のご活躍に期待しています。

(インタビュー:成見(大澤)淳/文責:渡邊桃伯子)

 

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