ヨコハマ・キラキラ(第4回) ヴァイオリニスト 小笠原伸子さま
横浜の「人」の姿を多くの方々に知ってもらいたい・・・そんな想いからヨコハマNOWを立ち上げました。先人が築いてきた「横浜」、そして今の「横浜」、これからの「横浜」を「人」を通して伝えていきたいと思っています。
9月から新しいコーナー「ヨコハマ・キラキラ」として、私、浅川義治が毎月「人」にスポット当てて書かせていただいています。
これまでにも、沢山の方がヨコハマNOWに登場されています。ヨコハマに住む、ヨコハマで仕事をされている、あるいは、ヨコハマにご縁のある方にお会いしお話を伺いヨコハマについて語っていただきます。
その人に関係する別の方や場所なども、その人を立体化させるために登場していただくこともあると思います。
また、紙面ではなくインターネットですので、動画でもお伝えいたします。
もっとヨコハマをキラキラと!
輝かせるのは、一人ひとりだと信じています。
第4回は、ヴァイオリニスト 小笠原伸子さまです
第4回ヨコハマ・キラキラのこのコーナーは、ヴァイオリニストの小笠原伸子さまにご登場いただきました。
先月 に引き続いて、小笠原さまが主宰する「横浜関内バロックサロン」を使わせていただき、インタビューも、先月同様音楽家の土屋友紀さんにお願いしました。
お二人は、こんな方です。
左 ヴァイオリニスト小笠原伸子さま/右 音楽家土屋友紀さま
ヴァイオリニストになった理由
小笠原伸子さまの幼い頃から今の活動に至るまで、隅々まで(笑)のお伺いします。まず単刀直入に、ヴァイオリニストを目指されたきっかけをお伺いたしたいと思います。
始めたのは4歳の時で、子供のころは、ぼーっと親の言うままにお稽古に通っていたんですけれども、10歳になった時に、「私は、一人で練習するから、もう口を出さないで」とお母さんに言って、それから自分で練習を始めました。その10歳の時に、NHKで「ヴァイオリンのおけいこ」という番組が始まりまして、江藤俊哉先生という立派な先生がアメリカから帰ってきて、その番組を担当されることになって、オーディションの募集がありました。全国から500人くらいの応募があったらしいんですけど、親が必死に連れて行ってくれて、で、なぜか合格して、超一流の先生の音を毎週浴びるように聴くことができました。それで本当にヴァイオリンが好きになって、。
期間はどれくらいですか?
ちょうど半年だったです。小学校の授業も公に休めて行けたのも嬉しかったし、みんなの目もあるから一生懸命練習するし、そこで随分自分の目も開かれて、「ヴァイオリンっていいものなんだな」って心から思ったのがその番組ですね。
そのあと、小学校2年生の時から、朝日ジュニアオーケストラという朝日新聞が開催していましたジュニアオーケストラがあるんですが、そこに通って、そこにすごく上手なお姉ちゃんがいて、そのお姉ちゃんが、芸高っていう音楽高校を目指すんだっていう話を聞いて、芸高って何だろう何だろうって思っていたら、ヴァイオリンばっかり弾いて音楽家を目指す高校なんだよっていうことで、それなら私も行きたいと思うようになったのが、小学校の高学年でした。
そのお姉さんの話を聞くと、中学の1年生になった時には、藝高(東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校)に行くと決めなければ間に合わないと言われまして、親から早く決めなさいと、毎日のように言われて決意をして、その時はなぜか中学の先生に親が連れて行き「うちの娘は、藝高っていうところへ行って、音楽家になるんです」って言いに行ったんです。
私の担任先生は、英語の先生だったんですけど、なんと奥様が芸大のピアノを出てらっしゃたんです。その先生は、いつも奥様が朝ごはんを作ってくださらないので、職員室でいつもパンを買って食べていたんですが、「うーむ、僕は反対だ」って言うんです。「えっ何でですか? 先生」って聞きました。先生は、「僕は、君が小説家になるのを期待している」と。
「えっ、私が小説家ですか?」っていう話もあったんですけど・・・。
その先生の話は無視して、ヴァイオリニストになるのを決意したのが、中学1年生の時です。それからは、この道一筋です。
先輩の存在は大きかったんですか?
そうですね。やっぱり、お姉ちゃんのようになりたいし、そういう学校があるなら入りたいしと思ったのが。
昔から藝高だったんですね。
桐朋音楽教室に行っていたんですね。小学校5年生から行っていたんですけど、やっぱり桐朋音楽教室には、上手な方が、コンクールで上位入賞者の方が、たくさんいらして、私は、そういう世界に入るのが遅かったので、この世界にどうやって追いついていこうって思っていたので、親も家庭の事情もいろいろありますし、藝高にしてくれと、行くなら藝高にしてくれと言われて、親孝行の意味も含めて藝高に行きました。
おばあちゃまが、クリスチャンでいらしゃるんですね。
はい、そうですね。やっぱりクラッシック音楽というのはいわば、ヨーロッパの音楽ですから、キリスト教と切っても切れない世界の作品があると思うんです。私は、本当に先生が良い先生だったんだと思うんですけど、小学校の5年生の時にバッハの無伴奏の曲のガヴォットを課題に下さいまして、「わーこんなに良い曲があるんだ嬉しい」と思って弾いて、バッハに触れる機会が増えました。その時、祖母が中学1年の入学祝いにと、分厚い聖書を1冊くれました。これを読みなさいとくれたので、なぜ出来たのか分かりませんが、一気に全部読んだんです。
ちょうどその頃、「赤毛のアン」を村岡花子さんが、訳を出された時期と重なっていて、友達の間で「赤毛のアンって知ってる?」「どんな本?」と言ってお互いに貸して読んでいました。そうすると、やっぱりキリスト教の話っていっぱい出てくるんですね。心理的な影響も沢山あってキリスト教の考え方にも沢山触れたと思います。ですので、バッハに触れたことと聖書の世界に触れたことが、すごく多感な時代にこのふたつの強烈なものに触れられたということが、人生の中で大きいと思います。
後の人生の中でバッハが、ライフワークになって行くのも、この時期に作られていったということですね?
そうですね~。頭ではなく、とにかくバッハは、好きでした。練習し始めるとやめられなくなるんです。入り込んじゃうんですね。入り込んじゃって、親がもう練習やめなさいって言っても、やだっている。(笑)
で、やっぱり凄く宇宙的な世界なので、部屋を真っ暗にして弾くのが好きだったりして・・・
へ~えー!
何とも言えないこの宇宙が好きだったですね。
もう、その世界にどっぷり入り込んじゃって!
そう、入り込んじゃってましたね(笑)。
すごいですね!楽譜も見なくても弾けるという・・・
若い頃は、2、3回弾けば全部暗譜できましたね。
もうその世界にどっぷり、
きちゃってましたね(笑)。
素晴らしいです。
そう言う人生です(笑)。
学生時代の思い出
晴れて藝高に入学されて、印象的だったこと、思い出となったことはどんなことでしたか?
印象ありすぎで、何をお話ししたら良いかわかりませんが、とにかく全国から40人しか来ないクラスで、それも本当に経歴もそれこそ小学校の部、中学校の部で全国第1位だった人がぞろぞろいました。教室の後ろにはピアノがあって、休憩時間毎にみんなわーっと後ろに行って、わーっとやるんです。それがもう本当にみんなプロの演奏家で、素晴らしい演奏で聞き惚れていました。
ご自身も?
私は、ピアノは副科ですから断然弾けませんけど(笑)。
ああ(笑)
もちろんヴァイオリンも素晴らしいし、そういうところへ入ると楽器も見たことのないような良い楽器を持ってる人がいて、この世にこんなに良いものがあるんだという・・・
色々な刺激がありました。
40人中ピアノは、何人とか割合は、あるんですか?
ピアノが10人、ヴァイオリンが10人ちょっと、あと作曲科が1人、あと管楽器ですか。
楽しいですよね~。
うーん、みんな音楽家を目指す人だから、テンションが高いですね。個性も強いし、テンションも高いし、凄まじい学年でしたので、強烈な印象でした。
文化祭などでは、何か?
文化祭は、手作りの劇を台本書いてみんなでやるんですけど、実は私の同期で藤井一興さんという今日本を代表する本当に有名なピアニストの方と私で、2人で学級委員をしたんです。実は彼は、「あらそうなの」って女言葉で話すのが得意な人で、学級委員のクラス会をすると2人で漫才になっちゃうわけですね。とても楽しいクラス会でした。
そんなお話を伺うと当時の様子を見たくなっちゃいますね。
特に私たちの学年は強烈な人が多かったらしくて、教室中が湧いていたらしいです。外から見ると。
そのパワーは、社会人になってからも?
そうですね(笑)。みんな一人一人すごい頑張っていますね。
そのまま大学に持ち上がられて大学時代は、どうでしたか?
大学時代は、間口が広がったというか、今まで40人だったのが、200人になったというか、で、4年生までいますので、急にキャパが増えました。それから、音楽学部だけでなく美術学部もあるので、自分の視野がすごく広がって、色んなことに興味を持ちました。それはそれで、面白かったです。
学生としてする活動で、何かこう良かったなあということは?
やっぱり、アンサンブルを沢山やりましたので、弦楽四重奏が、一番好きなので、四重奏を沢山やりました。
そういうお仲間の方とは今も?
最近会いましたけど、就職してて、地方へ戻ってしまうとバラバラになっちゃって・・・。
時々合奏団で一緒にやる方もいますが。海外に行っちゃった方もいますね。丁度今頃帰ってきて、帰ってきたら一緒にやろうねっていう人もいます。
ひとつ音楽というつながりで、高校時代、大学時代を学ばれるというのは素敵ですね。
やっぱり、楽しさを共有したというのは大きいので、一緒に演奏すると、同じ世界を頂いて弾くみたいな共通点が多いです。その時代に何を聴いていたかというのも同じだし、そういうのは不思議にあるんだなと思いますね、最近。
同じ空間を共有していたというのもあるんでしょうね。
小笠原伸子さま紹介動画
ここで、小笠原伸子さまについて、東京藝術大学の先輩で世界的な活動をされている指揮者の増田宏昭さまにお伺いしました。動画でご覧下さい。
小笠原伸子さまについて語る増田宏昭さま
今伝えたいこと
音楽家として、芸術家のあり方として感じたり、こういうものだというのがあったら聞かせてください。
様々な活動の方法がありますし、色んなスタンスでみなさんなさっていますので、どれもありだと思います。私の場合は、子供を育てながらオーケストラに入っていた時もありますが、結婚した後は、ホームコンサートを毎月やっていることから、自分の演奏活動を広げていったということもあります。その先に合奏団を作って、そしてやっぱり身近な生活の中で、音楽をみんなに親しんでいただきたいなっていうのが本音です。「どうだすごいだろ!」っていうんじゃなくて、音楽って、音が楽しいって書きますよね、ですからみんなを幸せにするのが音楽で、聴いたらみんなが幸せになってくれるような音楽を日々の生活の中で、奏でたいなっていうのが私のスタンスです。
根本には、楽しい音楽に自分自身も楽しめるということが、
そうですね。毎日その中で生きていきたいということもありますね。
その共有を皆さんとしていきたいということですね。
そうです、それが出来たら最高にしあわせです。
神奈川フィルハーモニー管弦楽団
小笠原さまは、神奈川フィルハーモニー管弦楽団でもご活躍をされていたり、オーケストラとかアンサンブルでもご活躍されていますが、学生時代からもお仕事をされていたわけですね?
そうですね、もう大学に入ったら、色々なお仕事のお誘いがありまして、授業と重なるけどどっち行こうかなということも結構ありました。初めてメンデルスゾーンを弾いた時も、3日前にちょっと弾いてもらえませんかという、
えーっ、そんな3日!!
授業が、あったんですけどそっちはやめて、結局行っちゃいました(笑)。
凄いですね(笑)。社会人という言葉を、もうプロとしてそれこそ、高校生くらいから?
さすがに高校生の時はなかったですけど、大学生になってからですね。
お仕事しながら、学生生活を(笑)。
そうですね(笑)。
すごく刺激的ですよね。
楽しいですよね。やっぱり。好きなことして、これでお仕事になるという。
仕事をすることによって、モチベーションにつながったり、何か戴くことによって、高めていけるという、素晴らしい!4年でご卒業は?
はい、ちゃんと単位はとりました(笑)。
大変ですものね、お仕事しながらって。
その辺は、気をつけないとね。
うまく?
頑張りました。
先生も、ご理解はあったんですか?
そうですね、基本的には学校としては、あまり仕事をしてはいけないという方針はあったんですけど、(小さい声で)その目をすり抜けて。
なるほど。神奈川フィルハーモニー管弦楽団は、何年ほど?
大学を卒業して、8年間勤めました。でもその後は、自分で好きなことをやりたいので、8年で辞めてしまいました。
横浜バロック室内合奏団
横浜バロック室内合奏団を主宰され、2009年に横浜文化賞文化芸術奨励賞という凄い賞も受章されていますが、今年で、25周年で・・・
はい、気がついたら、ちょうど今年で25年も経っておりまして、何かびっくりなんですけど。
おめでとうございます。
ありがとうございます。
室内合奏団が集まって演奏を行う趣旨や思いとかありますか?
やっぱり、自分たちの好きな曲を、自分たちの好きなように演奏できるという、醍醐味があります。
演奏家の皆さんも同じ思いで?
そうですね。やっぱりオーケストラに入って、オーケストラの方針とかじゃなく、そうじゃなく自由にさせてもらえるというありがたい場として、みんな楽しくやっています。
室内合奏団をご存じない方のために、例えば特徴とか、売りというか?
売りですか~ (笑)とにかく、最初弦楽合奏の団体を作りたいなと思って、みんなで一生懸命考えました。「横浜バロック」というのが格好いいんじゃないみたいな話から。やっぱりビバルディとか、バッハの作品のレパートリーが多かったので、ああ素敵な名前だしこれでやろうかと。逆に名前から入った部分がありまして、バロックって付くからには、もっとちゃんと勉強しなきゃって、バロックの勉強もたくさんしました。楽譜もちょうど古楽が盛んになってきて、古い時代の楽譜も盛んに出版されて、手に入るようになりました。ビバルディの初版本とか、バッハの自筆譜とかも結構集めました。直接作曲家の筆跡を見ていると、楽しいです。バロックっていう名前をつけて良かったかなと思っています。主なレパートリーは、特にイタリアが好きなので、ビバルディを毎年やるようにしています。定期演奏会では、ドイツのバッハもやりますし、あとは、その年毎にイギリスを選んだり、スペインを選んだり、フランスを選んだり、あとは、仲間で、ハープのソロの子がいたり、フルートの子がいたり色々な組み合わせで、多彩なプログラムを組んで、やりつづけています。
みなとみらいは、今年でできて何年目ですかね、みなとみらいホールが出来て・・・
98年ですね。
それからずっと、みなとみらいホールで、年に4回必ずやっています。その前は、年に2回位でした。いつも私たちは、楽しく演奏しますので聴いてくださる方も、楽しく聴いていただきたいなと思って弾いています。
今年2016年は、5月にドイツ、7月はスペイン、10月にはイタリア、年越して、来年2月はマンハイム楽派の演奏をされるんですね。詳しくない方への解説もあるんでしょうか?
はい。定期演奏会では、2回お話しします。休憩の前に1回と終わってから1回と、簡単な説明をいたします。
次回は、2017年2月24日金曜日ですね。是非聴かせていただきたいと思います。
4スタンス理論
最近音楽以外でご関心をお持ちになってることは・・・
いろいろなことに興味を持っています。趣味は、昔は洋裁が好きで色々なものを作っていましたが、今は、目がやっぱりそんな細かいものは負担になってきて、やりたいんですけど、やっていません。布は、いっぱい買ってあるんですけどね(笑)。
この10年くらいは、チェリストの息子が身体を壊したことがあって、身体の勉強をして、身体の使い方が、人それぞれ違うということが分かりました。身体も色々なタイプがあるので、決して単一じゃないこと分かり、そういう勉強を今すごくしています。ヴァイオリンの場合は、何々先生のメソッドとか何とか流派とか、アウアの教えとか、色々あります。奏法が確立されちゃっているだけに、すごく身体に合わない人には、身体を壊すという不幸なことがあります。昔、友達も弾けなくなった人を何人も知っているので、どうしてだろうと思っていましたが、このことがきっかけで、身体も色々なタイプの使い方をしなければいけなくて、それぞれのタイプで、リズムも音学觀も違うということも分かってきました。仲間と色々研究して、それをいい形でそろそろ社会に還元したいなと思っています。このメソッドは、4スタンス理論と言います。アスリートの方では、有名なメソッドなんですが、音楽にももちろん応用できますし、ヴァイオリンに限らず、ピアノでもビオラでも応用できるメソッドなので、それをいい形でみなさんにお伝えできたらいいなと思って勉強しています。
重心は、かかと重心とつま先重心があるんですが、私は、かかとで、重心が低くて薬指が重心なんです。
えっ、何ですかそれ!?
信じられないでしょ? 何ですかでしょ(笑)。
重心?
薬指と人差し指とどちらが強いか、人によって違うんですよ。
は~、なるほど~。
私は、人差し指が強くて薬指が弱いと教わっていたので、薬指が弱いと思っていたんです。でも、調べてもらったら、私は、薬指の方が強いんです!それがまず、一大革命で、自分の中で!
やっぱりだから、そういうことって知らないとまずいなって・・・
薬指が強い方がいるって、今初めて知りました。
でしょ、だから、世の中って、人差し指が強いんだって、当たり前のように教わるでしょう? そうじゃないんですよ。そういうことを、
逆に刷り込んじゃって、体を無理に動かしていることがあると、
そういうことです。だから、そういう意味で、お行儀よく座ってよくきちっと膝をつけて座りなさいと育てられたんですけど、私の場合は、股関節が外側に向かって付いているので、実は、脚を広げた方が具合がいい身体だったということが分かったりとか。
女性は、足閉じなさいとか、
そうですね、お行儀よくって、大事ですよね。
じゃあ、電車などで見る、こういう(脚を開いてる)人は、そっち向きの関節という?
中には、辛いのにこう寄せている人もいるし、もともとこう(中に寄せている)人もいるし、色々ですね。人間の身体のことも、非常に面白いので、それで、演奏家でも弾き方が違ってくることが分かってきました。
関節の特性によって、
特性によって、自然と発音も違うし、リズム感も違うし、音楽の感じも違うのが当たり前なんだと、自然にみなさんに分かっていただけたら、楽しい世の中になるんじゃないかと思っています。
音楽が楽しくないだろうというのは、もしかしたら、そういったことで楽しくなるかもしれないと。
何もみんな、同じように弾かなくたっていいのよっていうことを、子供達にメッセージで伝えられたら楽しいなと思っている最中です。
素晴らしいですね。楽しみです。私も勉強したいです。
ヨコハマ
最後に、今までのヨコハマとこれからのヨコハマについて語っていただきたいと思います。
卒業するときに、東京で活動するか横浜で活動するか、ある意味悩んだんです。横浜は、すごくいい街だと思うんです。東京に比べて空気が良くて、風も気持ち良いです。文化もこの横浜から入ってきたわけですよね。この街で音楽を奏でて、その一人一人の方と顔が分かるところでおつきあいをさせていただくのが、私には合っているのかなって思い横浜にしました。そして、ここでずっと活動させていただいています。
そして室内合奏団も、
横浜の名前をつけて。実は、もう一つ横浜弦楽四重奏団というのをやっていまして、そっちも横浜の名前をつけました。ずっと、横浜を拠点にやっていきたいと思います。
これからの横浜については、いかがですか?
これからは、世界が広がっていますし、グローバル化されて世の中がこれからどうなっていくのか予想もつかないんですけど、でも本当に沢山の人が横浜を訪れるようになっていますので、どんどん良い街に発展していくことを願っています。音楽とともに(笑)。
今日は、どうもありがとうございました。そして、特別に演奏をご披露いただきました。動画で是非、ご覧ください。
タイスの瞑想曲 - 小笠原伸子&増田宏昭 -
小笠原伸子さま プロフィール
北海道赤平に生まれる。4歳よりヴァイオリンを池田敏雄氏に師事。10歳の時、テレビ「ヴァイオリンのおけいこ」に出演。江藤俊哉氏に出会い、ヴァイオリンの魅力に目覚める。朝日ジュニアオーケストラ、桐朋学園「子供のための音楽教室」同Dオーケストラなどでの音楽体験から、中学1年の時音楽家を志す。
東京藝術大学付属高校を経て、同大学、同大学院修了。井上武雄、福元裕氏に師事。大学在学中より、数多くのリサイタルを開催する一方、室内楽奏者として演奏会に多数出演。NHKFM出演。1977年78年イタリアのシエナ、アカデミアキジアーナのマスターコースにて、サルバト-レ・アッカルドに師事、ディプロマ・ディ・メリトを得る。同地および近郊で演奏活動を行う。
1979年より87年まで、神奈川フィルハーモニー管弦楽団に在籍し、アシスタントコンサートマスター、コンサートマスターを歴任する。1981年横浜弦楽四重奏団を結成、第1ヴァイオリンを務める。1991年に横浜バロック室内合奏団を結成し、コンサートマスター、プロデューサーとして横浜を中心に広く活動。同合奏団では、2006年に第18回「ヨコハマ遊大賞」、2009年に「横浜文化賞文化芸術奨励賞」を受賞した。
2014年~2016年東京室内管弦楽団コンサートマスターとしても活躍、2014年12月にはロシアにてトムスクフィルハーモニックオーケストラ、ノボシビルスク室内管弦楽団と共演した。2015年より協奏曲シリーズを開始、2015年及び16年6月に神奈川県立音楽堂にてベートーヴェン、メンデルスゾーン、チャイコフスキーの三大協奏曲を演奏(共演東京室内管弦楽団・横浜バロック室内合奏団)し好評を博す。
身体理論を廣戸聡一氏に師事、現在レッシュプロジェクト・マスター級トレーナー。
2001年より毎夏イタリアのトスカーナ地方の音楽祭に出演、現在に至る。
2004年からは横浜みなとみらいホールにて毎年9月にバッハの無伴奏全6曲リサイタルを開催。
2016年には無伴奏6曲のライブ録音CDをリリースし、またフィレンツエのサンフィレンツエ教会にてバッハの無伴奏曲のリサイタルを行い好評を博す。
生活の中で身近に音楽に親しむ場を広げる事をライフワークとし、横浜バロック関内サロンでのサロンコンサート(2016年11月までに460回目を開催)や、横須賀の自宅でのホームコンサート(2016年現在182回開催)など息の長い活動を通して、音楽の普及に努める。
写真撮影 : KAORU/動画撮影編集 : 浅川義治
筆者紹介
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