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山手ストーリーを語る会(第1回)

by staff on 2017/2/10, 金曜日

斉藤 秋造

主催者の渡邊さんから事前に、「山手町で一番印象的な風景は何処?」という打診がありました。成見淳画伯に、外国人墓地の門柱の素晴らしい絵を描いていただきました。

『外国人墓地』 作:成見淳

門柱の右側に日本語、左側に英語で、18世紀のイングランド詩人トーマス・グレーの詩の一文が刻まれています。この詩を読むと人生の無常を感じますね。

「美人の栄華 富豪の驕奢」は皆さんのことです。ただ栄光の路はそのまま墓場に繋がっています。「だから華やかな今を謳歌する」か「だから慎み深く生きる」はご本人次第です。

山手外国人墓地門柱の碑文

And all that beauty、 all that wealth e’er gave,
Awaits alike th’ inevitable hour:
The paths of glory lead but to the Grave.
 
Thomas Gray 1716-1777
 
美人の栄華 富豪の驕奢
熟づれか無常の風に逢はさらん
栄光の路 向ふ所は墳墓のみ
 
トーマス・グレー

 

外国人墓地門柱

横浜外国人墓地

ジョナサン・ゴーブル(1827~1896)

さて私は、昭和60年4月初旬、元町公園の満開の桜が我が家の庭に降り注ぐ、山手町75番地に転居してきました。音も無く花びらが散る朝夕の様は、大都会の真ん中に居ながら「深山に遊ぶ」様でした。「これが山手町なんだ」と実感したものです。

我が家の庭先で「ジェラール」の銘の入った西洋瓦の破片を見つけました。幕末から明治の中頃まで、この町は日本人オフリミットの外国人居留地でしたが、「この75番地に一体誰が住んでいたんだろうか」という興味が湧いてきました。居留地時代から今に至るまで、山手町は地番が変わっていないので調べてみました。すると、興味深い人物に行き当たったのです。その人の名前はジョナサン・ゴーブルというキリスト教伝道師です。

今日は、皆さんにとっては馴染みのないどころか、聞いたこともない名前、ジョナサン・ゴーブルのお話をさせていただきます。私はこの人の功績がもっと世に知られるべきだと思っています。

ゴーブルは今から190年前、米国ニューヨーク州の片田舎に広大な農場を持つ開拓農家の長男として生まれました。腕自慢の粗暴な性格の少年だったらしい。11歳で父親を失った後に、母親は小作人と駆け落ちして居なくなり、祖父に厳しく育てられましたが、家庭的には恵まれませんでした。その粗っぽい性格が禍したか、人を脅迫したという罪に問われ、20歳前後に2年間の刑務所暮らしを余儀なくされました。しかし服役中に改心したゴーブルは、以後は模範囚として過ごします。獄中で、将来は遠い国でキリスト教の伝道に携わるという霊感を感じたそうで、出所後は村に戻って農業に携わりながら、信仰生活に入りました。

間もなく、彼に千載一遇のチャンスが訪れます。この頃、アメリカでは太平洋彼方の国、日本に関心が高まっていました。鎖国中の日本を開国させて、米国捕鯨船の寄港と物資の補給、更に交易を勧めようとする国論が湧きあがっていました。東インド艦隊司令長官ペリー提督が日本開国に向けて遠征隊を出すというニュースを聞きつけます。ゴーブルは、早速志願兵として応募し採用されました。艦船「ポーハタン号」に乗り込んで1853年7月に横須賀浦賀沖に着きました。これが日本中が大騒ぎした、幕末の黒船来航ですね。遠い国(東洋)でのキリスト教布教を夢見て、日本がどんな国かを確かめる確固たる目的を持ったゴーブルの働きは群を抜いていて、ペリーさんにも注目されていたそうです。

翌1854年、ペリー艦隊2度目の来航時に、横浜村で日米和親条約が締結されました。この時に、マストから転落死した水平の埋葬が厳かに行われました。ゴーブルも選ばれて葬儀に参列し、初の横浜上陸を果たしました。その場所が、後の外国人墓地です。

まさかそれから10数年後に、愛娘と最愛の妻を同じ墓地に埋葬することになろうとは、当時独身のゴーブルには思いもよらなかったでしょう。運命の悪戯としか言いようがありません。

その後、横浜村に何度か上陸した彼は「日本人は礼儀正しい。文明とキリストの恵みを与えれば、日本は幸福な国になるだろう」と書き記しています。アメリカに帰国後、ゴーブルは神学校に学び、伝道師の資格を得ました。この間に9歳年下のエリザ・ウイークスと結婚し、ロリンダという娘を授かります。

 ゴーブルの日本への想いは益々高まり、バブテスト派の本部に、自分を宣教師として日本に派遣するよう執拗に求めます。彼の情熱に負けた会派は不本意ながら、不承不承認めることになります。但し、渡航費も滞在費も自己負担という厳しい条件付きでした。

資金集めに苦労しましたが、横浜開港の翌1890年4月、ゴーブルは妻子を伴って再び来日しました。6年振り、33歳。寒村だった当時の横浜村は、賑やかな港町に変貌を遂げていました。この時に彼は、開港前と開港後両方の横浜の土を踏んだ唯一の外国人となりました。1900名もいた黒船艦隊の乗組員たちは殆どが志願兵で、帰国後は皆散り散り、ペリー提督自身も横浜開港を知らずに既に他界していましたから。

本国からの仕送りの無い一家。生活費を稼ぐためにゴーブルは、刑務所で覚えた大工仕事に精を出し、妻のエリザはミシンの内職で家計を助けます。ところが、可愛い盛りの娘ロリンダが或る日、当時流行りのコレラに罹り、たった一夜にして4歳の命を亡くします。夫婦の悲しみは計り知れず、妻はその後病弱の身となってしまいます。娘は外国人墓地に埋葬されました。

それまでは原野だった居留地背後の山手地区を外国人住宅地として開放する知らせを受けて、ゴーブルは山手75番地のおよそ1000坪を、永代借地として確保します。貧しい生活の中、この地でゴーブルは聖書の翻訳に力を注ぎました。そして苦労の末に1871年、「摩太(マタイ)福音書」の日本語版を完成させました。平易なカナ文字で書かれていました。しかし当時は未だキリシタン禁制の時代でしたから、残念ながら出版と同時に発禁処分となってしまいました。実にこれは、日本初の翻訳聖書として、そしてゴーブルの後世に残すべき業績として、高く評価されるべきと思うのですが、この事実を知る人々は多くはいません。

この頃、若い頃からの性格が禍してか、日本人の筆生(秘書)を殴打したなどの悪い噂が本国本部に伝わっていました。弁明も上手く届かずに、宣教師を解任された上に、本国のバプテスト教会から絶縁状が届いてしまいました。

本国から何の支援も無い一匹狼の伝道師となったゴーブルは、それでも自力で教会を建設し、一層キリスト教の布教に情熱を傾けました。彼は「キリストの恵み」を大盤振る舞いして、相手の理解の深さを判断せずに、大勢の人たちに洗礼(バプテスト派では浸礼)を授けます。しかし、それを承認する機関が無く、彼の強引な伝道には他の宣教師たちは困り果てたようです。

ゴーブルは日本での布教に様々なアイデアを取り入れました。教会の座席を寄席風にしたり、オルガン演奏の代わりに琴や三味線を取り入れたりと。聖書の点字翻訳も行っています。キリストの生涯を幻灯で見せたり、賛美歌を掛け軸に書いたりと工夫しています。

病弱な妻の為に人力車を考案し、連れだって聖書販売の全国行脚をしました。日本各地を回って販売した聖書の売上げ総数は、5000冊以上に達したと言われています。明治10年代、聖書は横浜では隠れたベストセラーと言われていますが、ゴーブルの力に負うところが多かったと言えるでしょう。

1882年5月1日、苦楽を共にした最愛の妻エリザが、長年の過労が祟り、46歳の生涯を閉じてしまいました。ゴーブルは、外国人墓地の娘の隣に立派な墓を造り丁寧に葬りました。その場所は、彼がペリー艦隊の水平として葬儀に臨んだ外国人墓地最初の埋葬者の墓から、僅か50mとしか離れていません。

妻に先立たれたゴーブルの奇行が目立つようになりました。辻説法をやれば、その度に群衆と喧嘩して鉄拳を振るい、警察の厄介になります。街角で立小便して人々の笑いものにもなります。これには他の宣教師たちも、ほとほと困ったようです。

既に55歳を過ぎたゴーブルには、往年の気力は失せていました。妻を亡くした翌年の12月、アメリカへ向かう船上で寂しくクリスマスを迎えるのでした。傷心の彼の目に映った日本の景色はどんなものだったでしょうか? 帰国後も各地でトラブルが絶えなかったようです。講演旅行をしたり、10年を超える放浪の旅を続けた後に、1896年、ミズリー州セントルイスにあるバプテストの収容所で69歳の波乱に満ちた生涯を閉じました。そこの教会に墓石は見当たらず、墓地台帳に埋葬日だけが記されています。5月1日、奇しくも妻エリザの命日と同じ日でした。

日本での24年間、異端児呼ばわりされ続けたゴーブルですが、彼がキリスト教の歴史に燦然と残した足跡は、正しく評価されるべきものだと思います。異国の地で苦労を重ね、これ程までにキリスト教の伝道に情熱を捧げられたのは、正にアメリカ人の開拓者魂そのものではなかったでしょうか。彼と同じ山手町75番地に住んでいる私には、波乱に富んだゴーブルの足跡を後世に伝えてゆく役目があるかなと思っています。

エリザとドリンダのお墓

ネーサン・ブラウン(1807~1886)

もう一人、本日お話したい人物がいます。

1873年、一時帰国したジョナサン・ゴーブルの導きで、夫人を伴い横浜にやって来た米国パブテスト派重鎮の宣教師ネーサン・ブラウンです。「キリスト教禁止令」が高札場から降ろされた直後でした。ブラウンはこの時、既に65歳の高齢でした。

ブラウンは、若い頃の23年間に及ぶ、印度アッサム地方での過酷な環境の中でのキリスト教伝道の実績がありました。アメリカに帰国後は会派の雑誌編集に携わりますが、奴隷解放運動に熱心に取り組みました。

時あたかも南北戦争の真っただ中、ブラウンはバプテスト会派を代表してリンカーン大統領に謁見し、「奴隷解放は正義の行為である」と強く進言した人物でした。それまで奴隷解放にはそれほど強い関心を示していなかったと言われたリンカーンでしたが、果たして1863年に、かの有名な「奴隷解放宣言」が発せられた時、ブラウンの「正義の行為」の一節が加えられていました。

ブラウンは早速、ゴーブルの持つ山手居留地75番地に「横浜第一浸礼協会」(横浜バプテスト教会)を設立し、山手居留地最初の教会を建て、初代牧師となりました。しかし、間もなくしてゴーブルは本国の本部とのトラブルにより会派を離れることになります。ゴーブルはブラウンとも仲違いになり、この地を離れますが、ブラウンが75番地に残ります。年老いたブラウンが心血を注いだのは、聖書翻訳と賛美歌の出版事業でした。

1879年、日本最初の新約聖書「志無也久世無志与」(しんやくせいしょ)を刊行しました。これは平易なひらがな文字で書かれていましたが、平易さに於いてはゴーブルの影響を多分に受けています。文明開化の風潮の中で、多くの日本人に読まれ驚異的な販売数を示しました。その後も数々の功績を遺したブラウンは、1886年の元旦に、夫人や友人のヘボン博士らに見守られながら、異国の地で静かに人生の幕を閉じました。78歳でした。

その後に国民的英雄に祭り上げられたリンカーンとは対照的に、「奴隷解放の陰の功労者」ともいうべきブラウンが何故、老体に鞭打ってまでして、東洋の日本でキリスト教の伝道を決意したのだろうか? という疑問が残ります。75番のバプテスト教会からは桟橋が望めたはずです。停泊中の外国船を見れば、望郷の念に駆られたであろうことは想像に難くありません。

外国人墓地に眠る彼の墓石に書かれた墓誌を読んだ時に、私の疑問が解けました。自分の事は何も書かれておらず、ただ「神よ、日本の人々を祝福したまえ」とだけ記されているのです。宣教師ネーサン・ブラウンにもゴーブル同様に、アメリカ人の強靭な開拓者のスピリットを見ました。

ネーサン・ブラウンのお墓

関東学院への道

1879年、米国バプテスト会派は高齢のネーサン・ブラウン牧師を支える目的で、宣教師のA.Aベンネット夫妻を派遣してきました。彼は当時30歳でした。

1884年、ベンネットは山手居留地の一角に、日本人伝道者養成を目的とする「横浜バプテスト神学校」を設立して初代校長に就任しました。学校は土地建物の購入資金不足で、山下居留地を転々としましたが、2年後に山手75番のバプテスト教会隣接地に落ち着きました。その後、1910年に東京小石川に移転するまでの24年間存続しました。ブラウン招天後は、この地でベンネットは牧師と校長を兼任しました。1909年、「横浜バプテスト神学校」創立25周年式典が挙行されました(10.10)が、その翌日にベンネットは招天しました。60歳でした。

「横浜バプテスト神学校」は。翌年に福岡の神学校と合併して東京に移りますが、その後に紆余曲折あって1919年「中学関東学院」として再び横浜の三春台に戻ります。初代学長テンネー、初代校長坂田祐。

「関東学院」は自らの創立を、ベンネットの「横浜バプテスト神学校」に置きます。あれから125年。学院は2009年に創立125周年記念式典を盛大に挙行しました(10.10)。それに間に合うよう、当時の関東学院内藤幸穂理事長と私は綿密な打ち合わせを行い、我が家の敷地の一角に「関東学院キリスト教教育の源流はここに発する」という顕彰板を設置し、学院内外に披露しました。

関東学院は既に130年以上の歴史があります。しかし、A.Aベンネットの前にネーサン・ブラウン、その前にジョナサン・ゴーブルの来日が無かったら、もっと言えば、幕末のペリー艦隊の日本遠征が無かったら、関東学院の今の姿は無かったのです。160年以上も続く大河ドラマを見る思いです。

関東学院の記念板

参考文献
川島第二郎著「ジョナサン・ゴーブルの研究」新教出版社
生出恵哉著「横浜山手外人墓地」暁印書館
関東学院「125年史」

あとがき

この文章は、2016年11月12日(土)に開催された「山手ストーリーを語る会」で、講師の斉藤秋造氏がお話しされた内容を斉藤さんご自身にまとめていただいたものです。

「山手ストーリーを語る会」の様子

山手の歴史は、横浜の歴史そのものです。山手町のそれぞれの番地に横浜の歴史を垣間見ることができます。「ヨコハマNOW」では、「山手ストーリーを語る会」をシリーズ化していきたいと考えております。よろしくお願いいたします。

講師の斉藤秋造 氏

 

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