第五回 ファッションとライフスタイル、新しい文化を創出する横浜
横浜の発展
昭和30年代に入って、横浜は人口が急激に伸びていきました。昭和26年(1951年)に100万人突破し、昭和43年(1968年)には倍の200万人になったのです。
横浜が発展する要素の一つに鉄道路線の拡張がありました。桜木町までだった根岸線が昭和39年(1964年)に磯子まで、昭和48年(1973年)に大船まで開通しました。そのほかにもいろいろな交通網が整備されてきました。
昭和40年代、飛鳥田さんが横浜市長のときに、6大事業を発表し着手していきました。それが今日の横浜の発展につながっていったのです。
※横浜市六大事業
① 港北ニュータウンの開発
② 高速道路の建設(湾岸から羽田まで)
③ 高速鉄道建設(地下鉄)
④ MM21の埋め立て
⑤ 八景島を含めた金沢沖の埋め立て (工業団地)
⑥ ベイブリッジの建設
横浜からマドロスが消えた
昭和30年代から40年代に向けて、海外への人々の移動は、船でなくて航空機になってきました。貨物船は大型化され、大型タンカーが続々来港するようになりました。
横浜の大桟橋には大型タンカーは停泊できません。埋め立てた本牧埠頭や大黒埠頭に泊まるようになりました。
大型タンカーの登場が横浜の風情を変えましたね。
横浜の港にマドロス(乗組員)の姿がなくなってきたのです。10万トン級のタンカーでも乗組員が10数人しかいないのではマドロスは少なくなるはずです。
それまで「港」がテーマになってきた横浜の歌に変わって、「港・マドロス」をテーマにしない歌がでてきたのが昭和40年代です。
伊勢佐木町ブルース 作詞 川内康範/作曲 鈴木庸一 あなた知ってる 港ヨコハマ 私はじめて 港ヨコハマ あなたなじみの 港ヨコハマ 「伊勢佐木町ブルース」をお聴きください。
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同じ年、昭和43年(1968年)に発売された、いしだあゆみの「ブルーライト・ヨコハマ」 は、横浜の夜景を歌って、港だけではない横浜の魅力を全国に伝えました。いしだあゆみは当時20歳でこの歌がデビュー曲でした。
「ブルーライト・ヨコハマ」は、開港150年記念の「ご当地ソング」のアンケートで第一位となっています。
ブルーライト・ヨコハマ 作詞 橋本淳/作曲 筒美京平 街の灯(あか)りが とてもきれいね いつものように 愛の言葉を 歩いても 歩いても 小舟のように 足音だけが ついて来るのよ 歩いても 歩いても 小舟のように あなたの好きな タバコの香り 「ブルーライト・ヨコハマ」をお聴きください。
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昭和43年(1971年)には五木ひろしの再デビュー曲「よこはま・たそがれ」が発売され話題を呼びました。
よこはま・たそがれ 作詞 山口洋子/作曲 平尾昌晃 よこはま たそがれ ホテルの小部屋(こべや) 裏町 スナック 酔えないお酒 木枯(こがら)し 想い出 グレーのコート 「よこはま・たそがれ」をお聴きください。
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「伊勢佐木町ブルース」「ブルーライト・ヨコハマ」「よこはま・たそがれ」は、新しい横浜を全国に発信した歌謡曲の三部作と言えるでしょう。 三曲のうち歌碑があるのは「伊勢佐木町ブルース」だけです。 平成13年(2001年)7月、青江三奈の一周忌と協同組合伊勢佐木町商店街創立五十周年記念事業として歌碑が建立されました。この歌碑には伊勢佐木町商店街の振興への想いが込められています。 今年、歌碑の近くに木造のイベントスペース「クロスストリート」が生まれました。7月のこけら落としには、横浜が生んだ人気グループ「ゆず」が出演しました。伊勢佐木町商店街建設したこのイベントスペース「アートで町おこし」の夢が託されています。 |
昭和49年(1974年)に発表された荒井由美(ユーミン 松任谷由実)の「海を見ていた午後」、これは私の好きな歌の一つです。この歌はシンガーソングライターであるユーミンが20歳の頃に作ったものです。
この歌の舞台となっているのは、山手にある「ドルフィン」というレストランです。レストランの窓から見える風景をユーミンは見事に描いています。 |
海を見ていた午後 作詞・作曲 荒井由実 あなたを思い出す この店に来るたび ソーダ水の中を 貨物船がとおる あの時目の前で 思いきり泣けたら 紙ナプキンには インクがにじむから 「海を見ていた午後」をお聴きください。
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「ドルフィン」には忘れられない思い出があるのですよ・・
斉藤さんは御自身と「ドルフィン」をつなぐお話をしてくださいました。
「ドルフィン」と斉藤さんをつなぐ話
今から40年くらい前、横浜中央市場近くにある弊社食料品卸の「横浜乾物」での出来事です。
一風変わった老夫婦が店に来ました。紳士が「これからレストランを始めるんです。仕入先はここ横浜乾物(ヨコカン)がいいと聞いてやってきました」と話されたのです。飲食店を経営する方には見えなかったので「お仕事は何ですか」と伺ったところ、「漫画を描いています。山川惣治と言います」と名乗ったのです。
それを聞いて私はびっくりしました。
山川惣治といえば・・私が子供のころ熱中した漫画「少年王者」や「少年ケニヤ」の作者でとても有名な方だったのです。
間もなく彼が経営する「ドルフィン」が開店しました。お店の周りは何もなくて、彼が建てた洋風の建物はとても目立っていました。
ドルフィンができた昭和46年(1971年)ごろは、根岸の森林公園はまだアメリカに接収されていました。アメリカから返還されて森林公園になったのが昭和52年(1977年)ですからね。
当時、「ドルフィン」の前にはアメリカがありました。フェンスの向こうには広い芝生の中に軍人の大きな家が立ち並んでいました。今でも「ドルフィン」の向かいには、「Fire Station」と書いたアメリカ軍専用の消防署があります。
「ドルフィン」の窓から海を見ると、根岸湾が埋立地になっていて、コンビナートの明かりが無数に散っていて夜景がきれいでした。遠くには遮るものがなく、三浦半島が見えていたのです。走水の上に防衛大学の白い校舎が見えるほど見通しが良かったものです。 「ドルフィン」は初めからはやったわけではない。でも、「しゃれたお店」ということで売上は悪くなかったと思いますよ。 ユーミンが昭和39年(1964年)に開通した根岸線に乗って根岸に降りて、そこから丘へ登り「ドルフィン」へ通い、そこでソーダ水などを飲みながら時間を過ごしたのでしょうね。ユーミンが20才になったときに「海を見ていた午後」を作って発表したのです。心地よいメロディーで人気になり、「ドルフィン」は歌詞に実名で出てくるので、若いカップルのデートスポットとして一躍脚光を浴びたのです。 山川惣治さんは非常に利益を上げたと思います。うちも取引先として忙しくさせてもらいました。私も客として「ドルフィン」によく行きました。夜景が素晴らしかったです。 |
「海を見ていた午後」で私が素敵だなと思うのは、「ソーダ水の中から貨物船が見えた」、「万年筆のインクがにじんだ」などというなにげないしぐさを表している歌詞です。「晴れた午後には遠く三浦岬も見える」という歌詞も景色を絵画のように表現していていいですね。
この歌のおかげで「ドルフィン」は人気が出て、山川さんはお店を増築しました。増築した時に金銭的トラブルがあり、結果として「ドルフィン」を手放さなければならなくなってしまったのです。経営者が替わって、取引先としての付き合いはなくなりました。
あれから30年、「ドルフィン」には行っていません。
「ドルフィン」と言うと、山川惣治さんという人、子供の頃の想いと重なってしまいます。そしてその想いがユーミンの歌に乗り移っていきます。私は特にユーミンのファンでもないのですが、この歌は私の心に残る一曲です。
山川惣治さんとの話を読売新聞が「うた 人 ヨコハマ」という特集記事で取り上げてくれました。このシリーズは単行本になっています。
※今でも「ドルフィン」の一番人気はソーダ水です。初めてのお客様の8割以上の方は「ソーダ水」を注文するそうです。マンションが立ち並んで、「ドルフィン」の窓から見る景色は変わってしまいました。
ユーミンは、昭和51年(1976年)にカトリック山手教会で結婚式を挙げました。その後、この教会で結婚式を挙げたい芸能人などが増え、信者をないがしろにしたためクレームが出て、関係ない人は結婚式を挙げられなくなったという後日談があります。
カトリック山手教会は、横浜では最も古いカトリック教会です。1862年(文久2年)に山下町に建てられた横浜天主堂からの歴史を引き継ぐ教会です。1906年(明治39年)に現在の地に建てられました。関東大震災ときに倒壊しましたが、昭和8年(1933年)に再建されました。聖堂は典型的なゴシック様式の教会建築ですが、内部には細かな装飾が施された柱があり、日本一美しい聖堂と評されています。庭にあるマリア様の像は、いつも白くてきれいですが、1868年(明治元年)にフランスから送られてきたもので、歴史的にみても相当な価値のある像です。
カトリック山手教会の向かいにあるのが、横浜山手女子学園(2010年4月より中央大学横浜山手中学校・高等学校)ですね。
山手町には女学校が5つもあるんですよ。公立の小中高校にインターナショナルスクールなどを数えると、20ぐらいあることになります。凄い数ですね。これには歴史的な背景があります。
明治の初め、男尊女卑の風潮を見ていたキリスト教の宣教師たちが、女子の教育をしなければいけないという想いでフェリス、共立を開校しました。また、外国人と日本人との混血の不幸な子どもたちを救いたいという宣教師たちが横浜雙葉の前身の香蘭女学校を開校したのです。
横浜雙葉、フェリス、共立の3つが明治時代から山手を代表する女学校です。それに横浜女学院、横浜女横浜山手女子学園が加わりました。
ちなみにJR石川町駅は、女子高生の乗降数が全国ナンバーワンで「乙女駅」の異名があります。山手町の住人は4,500人ぐらいですが、同じ数の子供たちが学校に通ってきているので、昼間の人口は九千人ぐらいになります。まさに文教地区ですね。
昭和50年代に横浜元町から発信されたのが「ハマトラファッション」です。
横浜のトラディショナルなファッションが全国的なブームとなり、元町が有名になりました。それをはやらせたのがフェリスなどの女学生たちです。ミハマの靴、フクゾーの服、キタムラのバッグが三種の神器でした。これらを持った山手の女子大生がさっそうと元町うを歩く姿は雑誌「JJ」(光文社)等を通して一世を風靡しました。
「馬車道」を有名にした歌
「馬車道」は、開港当時江戸と横浜を結ぶ馬車の通り道だったことからその名がつけられた道の名前です。馬車道の一帯には、神奈川県立歴史博物館や様々な銀行の横浜支店など歴史的な建造物が多くあります。
昭和57年(1982年)、「馬車道」は、ある歌を通して全国に有名なデートスポットになりました。それが中村雅俊が「恋人も濡れる街角」です。この歌に「馬車道あたりで待っている」という歌詞があります。これには作詞作曲したサザンオールスターズの桑田佳祐の体験談が盛り込まれていると言われています。桑田佳祐夫人の原由子は関内出身での実家は関内駅前にある「天吉」という料理屋さんです。「恋人も濡れる街角」は大ヒットして、映画の「蒲田行進曲」の主題歌にもなりました。
恋人も濡れる街角 作詞・作曲 桑田佳祐 不思議な恋は 女の姿をして 今夜あたり 訪れるさ YOKOHAMAじゃ今 乱れた恋が揺れる 俺とお前の まん中で ああ つれないそぶりさえ よく見りゃ 愛しく思えてく 港の街に 良く似た女が居て Shyなメロディー 口ずさむよ ああ 時おり 雨の降る 馬車道あたりで 待っている 女なら くるおしいままに 恋人も濡れる街角 「恋人も濡れる街角」をお聴きください。
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昭和50年代になると、女性の社会進出が目立ってきました。女性の高学歴化、短大・大学を目指す女性が増えてきて女性の自立心、社会的に認められてきました。横浜の街を闊歩したキャリアウーマンを目指す女性たちに中村雅俊の歌が支持されたのでしょうね。
新しい横浜
昭和60年(1985年)、横浜市の人口は300万人を突破し、東京に次いで日本第二の都市になりました。人口の増加に伴い横浜市の中心から離れた郊外に住む人が圧倒的に多くなってきました。住民の多くは東京で勤務しているので、横浜在住の東京都民という言葉が生まれました。
昭和60年(1985年)に発売された、小林明子の「恋におちて」は、東急田園都市線の横浜市緑区の青葉台が舞台になっています。30代半ばの不倫の恋を描いたテレビドラマ「金曜日の妻たちへⅢ」の主題歌でした。このドラマは、田園都市線沿線に住む中流よりちょっと上の妻たちの新しいライフスタイルを見せて視聴者を引き付けました。「金妻」「不倫」という言葉が市民権を得る危なっかしい時代でしたね。
この歌の歌詞に、「ダイヤル回して、手を止めた」というくだりがありますが、そのころは携帯はおろかプッシュホンもありませんでした。
横浜市の面積が拡張して人口が増えて、歌の舞台も遠く郊外になりました。
ここで「昭和」が終わりました。
1989年に時代は「平成」になりました。MM21横浜博覧会が開催され、1250万人の客を動員し、ベイブリッジも開通しました。美空ひばりはこの年に亡くなっています。
恋におちて 作詞 湯川れい子/作曲 小林明子 もしも 願いが叶うなら Daring, I want you 逢いたくて ダイヤル回して 手を止めた If my wishes can be true Daring, I need you どうしても ダイヤル回して 手を止めた Daring, you love me 今すぐに ダイヤル回して 手を止めた Don’t you remember Can’t stop you, Can’t hold you 「恋におちて」をお聴きください。
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参考サイト
- 協同組合伊勢佐木町商店街
- 街の灯りがとてもきれいね♪ 横浜ご当地ソング堂々1位(朝日新聞)
- クロスストリート
- レストラン&バー 「ゴールデンカップ」
- 「うた 人 ヨコハマ」(読売新聞横浜支局)1996年
- カトリック山手教会 (1)
- カトリック山手教会 (2)
- ハマトラファッションのリカちゃん人形発売
- ハマトラ/ヨコハマトラディショナルヨコハマトラディショナルハマトラ/ヨコハマトラディショナル
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