アートのひみつ(第6回) 言葉で絵を描くこと。
第6回 言葉で絵を描くこと。
みなさん、こんにちは!
新緑の季節から夏の気配も感じるようになりました。紫陽花がきれいな季節になりました。いかがお過ごしでしょうか?
私は本が好きなので、ついつい本屋さんで長居をしてしまいますが、あなたは本が好きですか?
日本語で作家というと一般的には小説などを書くことを生業にしている人を指しますね。しかし、小説も書いて作家として、絵も描いて画家として、はたまた映画監督までこなす、あるいは役者としても活躍する。
なんてマルチな才能に溢れているんだろう~!と言われている方もいます。
こういう方を最近はアーティスト、ではなくクリエイターと呼ぶらしいのですが‥‥。たとえばジャン・コクトーのようにジャンルを超えた表現者は以前からいたわけです。しかし、コクトーは天からいったい何物もらったんでしょう?というくらい多才な芸術家ですね。
私たち人間は言語を使います。私は言葉を使って表現する人が絵画などの非言語の表現を言葉のみで表すことはとても興味深いものだと思っていました。
絵を描きたいと思う気持ち、描いている瞬間の気持ちを言葉を操りながら綴ったのが20世紀のフランスの詩人で画家だったアンリ・ミショーでした。
ミショーはもともとは絵が嫌いだったそうです。「絵画は目の前にあるものを再現する手段」でしかなかった彼を変えたひとつがパウル・クレーの作品です。
「絵画はただの現実の再現ではない!」とミショーが強く感じた頃、パウル・クレーの作品はより色彩豊かになり、抽象表現を深めていった時期でしょうか。
「芸術は見えないものを見えるようにする」と考えたクレーのとらえた「本質」をミショーもまた詩という方法で見つめていたように思うのです。
クレーもミショーも、他の詩人や画家たちとの交流があったけれどはヨーロッパでの主な芸術運動のグループには属さずに創作していました。年代が離れていますが、シュルレアリスムにはほとんど関わっていないのにその運動にとても近い存在であることや、独創性を持ったスタイルは共通しているように思い、私にはとても気になる2人なのです。
クレーの作品はキャンバスに油彩で描いているものは実は少ないのです。厚紙、布、ガーゼなどに油彩、水彩、テンペラ、とさまざまな画材を使っています。画面のサイズこそ小さめですが、のちの画家たちの「イーゼル絵画との決別」を予感させます。
ミショーは絵を描くようになり、言葉での表現の限界を感じることがあっても「相棒」としていました。彼は書かれた文字のことを「ねばねばする相棒」と言っています。おもしろい表現ですね。
彼にとっては詩も絵画も同じように重要だったのでした。ゲージュツはミショーの言葉に宿り続け、魅力的な生きたものにしていきました。
言葉は人間が持つ特有のもので、人間のコミュニケーションに重要な存在です。ミショーの言葉にゲージュツは作用しているわけです。
そして、ミショーの絵は抽象的なものでした。人影のようなもの、連続した線。身体の動きに忠実な、あるいは心の動きに忠実な「痕跡」のような表現。詩と絵画を行き来するミショーの言葉は、実はゲージュツを身近にしてくれるものではないかと私は思います。
また、絵画がただの現実の再現ではなくなったとき、20世紀に世界で起きたこと。それは2度の大きな戦争でした。
人間が絶望的に否定された自分の存在や身体感覚を確かめるように、その「本質」を探ることを深めさせたのが皮肉にもこの戦争という不条理だったのではないかと私は思うのです。
クレーは第一次世界大戦で親友を亡くし、そして第二次世界大戦前夜、自身もドイツで前衛芸術への弾圧から逃れて故郷のスイスに亡命しています。
一方、ミショーは戦後も独特な創作活動を続けていきました。体を張った創作についての実験をしています。実験後にインタビューを受けていますがその言葉こそ知りたいところです‥‥。
ミショーのこの実験が前衛的すぎるにしても、身近な言葉が教えてくれるゲージュツもあると思うのです。
私たちが毎日見つめている小さなスマホの画面。たとえば日記、あるいはSNSの中の誰かの言葉にもあるかもしれません。
筆者紹介
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