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株式会社高野商店の専務&ヨコハマNOWのプロデューサー 高野慈子さん

by staff on 2019/4/10, 水曜日
高野慈子さん
高野慈子さん
 
お名前 高野 慈子(たかの やすこ)
出身 東京生まれ、埼玉育ち, 60代
お住まい 横浜市西区在住
お仕事 株式会社高野商店 専務
(横浜で一番古い冷凍・冷蔵・空調・エアコン部材店)
HP https://coolstore.jp/
市民活動 ヨコハマNOWのプロデューサー

 

誰かのためなら頑張れる!! 肺癌に喝!

「ヨコハマNOW」の仲間である高野さんが「肺がん」と診断されたきっかけは、2018年10月13日に開催した「ヨコハマNOW 100号記念イベント」でした。
2018年12月3日に手術を受けて、現在は「抗がん剤治療」に臨まれています。
今回の「ヨコハマNOW」は、今や日本国民の2人に1人が発症するという「がん」と明るく前向きに闘っている高野さんへのインタビューと手記を掲載いたします。

インタビュー

Q:「がん」だと分かったきっかけは?

「100号記念イベント」当日、私はプロデューザー兼司会だったので、忙しく動きまわっていました。そのときひどく息切れがして、これはきっと血圧が高くなってどこかに悪いところがあるからだろう・・・お医者さんに行かなくちゃと思ったのです。

2018年10月16日に近くの病院に行って、心臓のレントゲンをとってもらったところ、肺に3cmの影が見つかって、これはおそらく「がん」だから、専門病院で診てもらってくださいと言われたのです。

Q:「がんかも?」を言われたときはどんな気持ちでしたか?

何で私が・・・という気持ちですね。
まったく予想外の出来事で言葉になりませんでした。

我ながら驚いているのですが、そのときから、客観的に自分のことを捉えるもう一人の「自分」が生れたようです。もう一人の「自分」は、泣き叫ぶこともなくいつも冷静に自分の状況を把握しようとしています。

Q:がんの診断から手術までの45日間はどのように過ごされましたか?

診断から手術まではベルトコンベアーに乗っているように、検査のスケジュールをこなしていました。どのような「がん」なのか、様々な検査を行いました。入院前には、肺活量を増やすためのトレーニングや上半身の筋力をつける体操を行いました。

「がん」については周囲に患者さんもいて、自分なりに理解していたつもりですが実際自分が「がん患者」になると、「患者」でないを分からない様々な選択を迫られるのです。

「がん」になったのは事実だし、治療をしなければならないのだから、立ち止まってはいられません。泣いていても始まらないのだから、現実を受け止めて前向きに取り組まないといけないと考えています。

呼吸の練習機器

棒体操

Q:高野さんの明るさと強さはどこから生まれるのでしょうか?

人間は誰かのためだと頑張れるんだな・・・と感じています。自分だけだったら、厳しい「抗がん剤治療」を選択しなかったもしれません。

でも私には右半身にマヒのある夫や施設に入っている母がいます。その人たちを残していけないという気持ちが、どんなことにも立ち向かうぞ・・という想いを湧き起こしてくれるのです。

これからも「がん」と前向きに闘っていきますよ!!

手記 「肺癌に喝!」

本日(12月13日)に退院してきましたぁ~

12月4日に入院、12月6日に手術、午前9時30頃に手術室に入り、10時に開始、それから4時間にわたる大手術でした。右肺の上葉と中葉の一部、下葉を少しだけ取りました。
病名は『肺癌』女性に多い線ガンです。

 手術着を着て

 

肺癌に喝!『傷の痛み』その1~

私の場合は、傷の痛みが分からなくなるほど、右肩から二の腕に強い痛みが続きました。(手術は約4時間、腕を上げた状態で行われる)

先生:傷は痛みますか?

私: 傷の痛みは分かりませんが、肩と腕の痛みが脱臼した時のように我慢できません。

先生:脱臼したことがあるのですか?

私: いえ、たとえ話です。

先生:・・・・

痛みを表現するのって難しいのかなぁ?

 

肺癌に喝!『ドレーン』を抜く

病室に回診に来られた担当の医師が、私の息が浅いことに気づきました。 フゥフゥハァハァ・・・とマラソンランナーのような息をしている私に、「深呼吸をしてみましょう!」と言うのですが、息を大きく吸おうとすると胸が痛くて出来ません。

医師:ドレンかなぁ ちょっと咳きをして見て。ドレンを抜きましょう! はい、横を向いて息を楽にして。

私: ちょっと待って、今ですか? ここでですか? うぉぉぉぉぉ~

医師:痛かったですか?

私: ウウッ(痛くて声になりません) (激痛が治まるのを待って)ドレンで空いた穴はどうなるのですか?

看護婦: 今はぎゅっと押さえてテープを貼っておきますが自然に肉が上ってきて塞がります。

医師: 深呼吸できますか?

私: ええ、少し楽になりました・・・・

この日もまだ鼻の酸素の管は取れません、ベッドで休んでいるときは壁面の酸素ゲージから、歩行の時は酸素ボンベを転がしながら。。。
医師から「なるべくベッドから出て歩きなさい」と言われましたが。。。歩くことがこんなに大変だとは、、、、、

 

肺癌に喝!『傷の痛み』その2~

手術終了後はICUに入ります。どんなに痛くても「痰を出してくださいね」と言われます。痰を出すには咳きをしなければなりません。
痛みを堪えながらコホコホコホッと咳きをします。それで痰が出たら良いのですが、空振りで終わってしまうと、もう一度コホコホコホッツとしなければなりません。

のどが渇くと痰は出辛くなります。術後すぐは水を飲むことはできません。水を口に含み口の中を転がすようにして吐き出します。水を吐き出すには頭を少し上げるか、体をよじるかしなければなりません。それがまた一苦労です。電動ベッドの頭を上げるボタンを押そうにも右肩と腕が痛い私は一人ではできません。

体は管だらけです。点滴の管、静脈注射用の管が手の甲に刺さっています。指先には体の酸素量を測るものが付いています。
尿は尿管から袋に集められ、ドレンと呼ばれるちょっと太めの管が胸の脇から、胸水を容器に集めています。そして背中に入った管は痛み止め(硬膜外麻酔)薬の入った容器と繋がっています。痛みが強い時は看護婦さんに言うと追加で体内に入れてもらえます。その時は必ず血圧を測られ、麻酔薬の残量のチェックがあります。そして、鼻には酸素チューブが入っていて・・・
ちょっと動くと管と管がひっかかり、ナースコールのブザーが自動的に鳴ってしまいました。

痛みを堪えて咳きをし、痰を出して・・・息は苦しく、まるでマラソンを走った後のようにハァハァと浅くせわしく続き、口の中が渇き、水を口に含み、吐き出し・・・こうして眠れない一夜が明けていきました。

翌朝、水を飲んで良いと許可がでると、うがいができるようになりました。痰を出すのに成功する回数が増え、看護婦さんに「上手に出ましたね」って褒められました。
手術の翌日は昼食を食べることができました(おかゆ)でしたが・・・12月5日の夕食後から77日の昼まで口から食べ物を入れていないので「生きている」って実感しましたね!
そしてICUから病棟のナースセンターに一番近い部屋に車イスで移されました。夕飯から常食です。食べようにも箸を持つ手の肩と二の腕の痛みは増すばかりです。手が上りません。

この日はアイススケートのショートプログラムの日、だめもとで看護婦さんにお願いするとテレビが見られるようにしてくれました。喜んだのもつかの間、宇野君の番になった時、体温と血圧のチェックがありそこだけ観ることができませんでした 「なんと不運なことでしょう!」(苦笑)

 

肺癌に喝! 便意

手術の終了から翌日はICUで過ごし、朝に飲水の開始、昼より食事の開始となりました。最初の食事は全粥でしたが、その後、病棟のナースセンターに近いお部屋に移されてからは常食になりました。そこで1日経過観察を受けて、やっと自分の部屋に戻ることができました。(保険が出るので個室に入りました)

食事を取るようになると、看護婦さんから排便の有無を聞かれるようになります。3日出ないと下剤ということになります。

2日が経過した頃、待ちに待った「便意」が訪れ、ベッドから起き上がってトイレに行こうと思うのですが。。。ベッドから起き上がるのが想像を絶する苦しみなのです!

右の肩から二の腕は痛くて動かすことができません。傷の痛みもあります。腹筋を使うために体に力を入れようとすると傷が痛くてできません。

まず、電動ベッドで上半身を起こし体をくの字にします。ベッドの左側に左足を下ろし、痛い右手はお腹の上に持ってきます。
頭を左側に寄せて、左の手すりの上に乗せ、左手の力と首の力を使って、足りない分は引力を使ってベッドから落ちるように体を捻りながらベッドから立ち上がります。

痛みを堪えて、息を上げながら、やっとのことでベッドから立ち上がって、さぁトイレへって言いたいのですが。。。。

あまりの痛さに『便意が消えてしまった』という悲しい結末が!

下剤を拒むのにも理由があります。下剤を使ったら、便意が起きてからトイレに行くまでの時間が間に合わないかもしれません。 お陰様で2日半目に成功!この喜びは忘れらないものとなりましたぁ~~~

 

肺癌に喝! リハビリ

常食はほぼ『完食』なので点滴は無用となりました。点滴が外れると尿の管が取れました。残されたのは酸素の管だけとなりました。
この頃から始まるのがリハビリです。ベッドでの生活が続いて運動能力が低下しているのを改善するため、運動しても酸素が上手に取れているかがチェックされます。
リハビリの担当者から本日のプログラムを見せられます。

運動能力の維持改善
歩行訓練・足の運動
性の維持と向上

と書いた紙を見せられ、私は下からパット見たので『性の維持と向上』って何をするのかしら? と、とんでもない誤解を胸に、足首に1kgの重りを付けて歩いたり、足を上げたり、スクワットをしたり、担当者に付き添われて歩いたり・・・とプログラムを消化し、3行目の「性の維持と向上」に入ったとたん『はい、終了』ですと言われ・・・

私:(三行目を指差し)これはなんですか?

担当者:足の運動性の維持と向上で、今やったことです。

私:そっ、そうなんだ(笑いたくても傷がいたくて笑えません、奥歯をかみ締めて笑いを堪えていると)

担当者:何かおかしなことがありましたか?

文章の改行にはご注意を!

 

肺癌に喝! 一方通行

右の肺を2/3程摘出した痛みと手術中右手を4時間近く上げていたことから生じた痛みで、右肩から右の二の腕を動かすことができません。

術後2日目からはなるべく歩くようにと言われ、ベッドを出ている時間が増えますが、ベッドに上ること、ベッドから降りることがとても大変なのです。

ベッドから降りるのは電動ベッドを起こし、体をくの字にして、右手をお腹の上にのせ、首と左手の力を使って左側に降ります。ベッドに上る時は右手が痛いので、右手をかばい、左手でベッドの手すりを持って右側から上ります。

ということは、室内靴はいつもベッドの右側に脱いであって、左側に降りるとき靴はないことになります。

そこで、家から履いてきた靴をベッドの左側に置き、用意万全「これなら大丈夫」と。

大丈夫だったのは初回だけ、結局、右側で脱いで上るので、ベッドの右に靴が2足並んだだけ。

素足で床を歩くのは嫌なので、床にペーパータオルを飛び石のように置き、左側に降りてもペーパータオルの上を歩いて右側に行き室内靴を履いて『歩く』ことにしました。

と、ここまでのことで少し疲れた私はベッドに上ってウトウト・・・目が覚めると・・・寝ていた間に清掃員が入って、床に散乱したペーパータオルを「お片づけ」してしまい。

目覚めた私は、ベッドの左側に降りて素足のままベッドの右側まで移動し、室内靴を履きました。

 

肺癌に喝! ながら動作禁止

術後5日目、退院して普通の生活に戻る準備に入りました。問題は酸素ボンベからの開放です。いつまでもボンベを持ち歩く訳にはまいりません。

まず、部屋では酸素ボンベを使わないで、室外に出るときだけ酸素ボンベを引きずって歩くことになりました。リハビリやレントゲン検査に行くとき、院内のコンビニにお買い物に行くときもボンベ付きです。

翌日は看護婦さん同伴で室外をボンベなしで歩く訓練になりました。体内酸素濃度計を指先に付けて歩きます。

酸素濃度を95%以上に保たなければ不合格となります。

開始は97%でしたが、突如、80%台になり、看護婦さんから「止まるように」と言われて・・・

看護婦: おしゃべりしながら歩かないでください。

私: 歩いている時に話をしたくなったら?

看護婦: 立ち止まって話しをしてください。

私: ながらはダメですか?

看護婦: この酸素濃度ではダメです。食べながら、飲みながらのおしゃべりもダメですよ」

私: は~~~い。

という訳で、おしゃべりの自粛を意識して、酸素ボンベから開放され、退院の日が近づいてきました。

 

肺癌に喝! メニュー

手術の翌日におかゆで始まり、すぐに常食になりました。食事はAとBで内容を選ぶことができ、朝食もパンが食べたい人は希望できるシステムでした。

病院食は「まず~~い」という先入観がありましたが、美味しいものもありました。ビーフシチューやクリームシチュー、サバの味噌煮は美味しかったです。

変に凝った味付けのものは「?」と思いました。例えばサトイモの「ピーナツソース和え」が出たときは「イモの煮っ転がし」で良いのになんて残念に思いました。

「ふりかけ」が時々付くのに「懐かしさ」を覚えました。「たまごふりかけ」や「おかかふりかけ」は子供達のお弁当を作っていたころに良く利用しましたから・・・

入院前に「入院したら美味しいものが食べられない」と好きなものを食べ歩いたこと、入院してからは全て「完食」を目指したことで、体重が2kgも増えてしまいました。
摘出した上葉、中葉と下葉の一部を合わせた重さは何gだったのかしら? その分くらい体重が減るかと思ったのですが。。。これで退院してから美味しいものを食べたら、またまた太ってしまいますね~~気をつけないといけません。

 

肺癌に喝!『傷の痛み』その3~

手術中の体勢による右肩と右腕の痛みは、少しずつ動かすことで緩和していき、術後4日目には左手を添えることで『手を上げる』ことができるようになりました。
手術後5日目の朝起きてすぐ感じたことは「右肩と手が痛くない」ということ、昨日までの痛みがまるで嘘のように消えていました。

喜んだのはつかの間・・・右脇の下の傷口の痛みと、右肋骨の痛み、そして、手術中に左を下にしていたことから生じたと思われる左わき腹から腰への痛みを脳が認識して・・・
脳って不思議ですね?! 10数センチもある傷の痛みを感じないで(自分で傷が見れないのでどこを切ったのか分からなかったのに)手術後5日も経って『痛み』を体感しているのですから・・・

きっと、肩も腕もまだ痛いのかもしれません? 脳が一番痛い場所を認識するから、傷口が1番になり、他の痛みは和らいだのでしょうか? さてさて、痛みから解放されたと思いきや、この傷口の痛みで『ふりだし』に戻った感じで~す!

 

肺癌に喝! ヘルプマーク

手術で右の肺の上葉と中葉の一部と下葉をほんの少し摘出しましたが、外見は以前のままの『元気なおばさん』。けれど、公共交通を使った長距離の移動では、つり革につかまり立ちよりも席に座れたら助かります。そんな私のためにあるような公共サービスを見つけました。

それが、ヘルプマーク

横浜市では最寄の『高齢・障害支援課』で配布されているとのこと! 24日に大井町まで出かけるので、西区役所に取りに行くことにしました!

※ヘルプマークとは
義足や人工関節を使用している方、内部障害や難病の方、または妊娠初期の方など、外見から分からなくても援助や配慮を必要としている方々が、周囲の方に配慮を必要としていることを知らせることで、援助を得やすくなるよう、東京都が作成したマークです。神奈川県でも平成29年3月からこのマークを導入し、東京都と連携して普及に取り組んでいます。
http://www.pref.kanagawa.jp/docs/yv4….

 

肺癌に喝! 退院後の初検診

今日、12月21日は退院後の検診日でした。 手術で摘出した肺の病理検査の結果が出るということでしたので、ドキドキしながら病院に行きましたが、まだ結果が出ておらず、28日に再度行くことになりました。

それでも、本日の検診の結果でバスタブに入って良いことになりました。正月の温泉旅行もOKとのこと。。。熱川温泉に行きま~す!

大浴場で、脇の下から背中にかけて10数センチの傷のある私が温泉につかっているところを想像すると・・・他のお客さまにご迷惑かしらねぇ?

 

2019年1月4日

除夜の鐘を聴き、新しい年を迎え、思うことは『生きること』。
右マヒの夫を残しては先に逝くことはできませんから・・・

思うのです、人は誰かのためならどんな辛いことにも『耐えられる』のではないかと・・・愛する家族のためならば、頑張れるのではないかと・・・1月8日に今後の治療の予定がでます。
免疫力と自然治癒力 VS 抗がん剤治療・・・私は、1日でも長く『生きること』、リスクの高い抗がん剤治療を選ぶつもりです!

<取材を終えて>

久しぶりにお会いした高野さんは手術前に短く切った髪も伸びて「抗がん剤治療」中とは思えないほどお元気そうでした。

泣き叫んでも「がん」が良くなるわけではないから、現実を受け止めて冷静に立ち向かっていきたいと仰る高野さんを拝見して、人生の様々な苦難を乗り越えてきた女性の強さとたくましさを感じました。

高野さんは4月から「ヨコハマNOW」に復帰する予定です。

(インタビュー:渡邊 桃伯子)

 

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ヨコハマNOW 動画

新横浜公園ランニングパークの紹介動画

 

ランニングが大好きで、月に150kmほど走っているというヨコハマNOW編集長の辰巳隆昭が、お気に入りの新横浜公園のランニングコースを紹介します。
(動画をみる)

横浜中華街 市場通りの夕景

 

横浜中華街は碁盤の目のように大小の路地がある。その中でも代表的な市場通りをビデオスナップ。中華街の雰囲気を味わって下さい。
(動画をみる)

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