「今は恩返しの時期」 株式会社エコローグ 代表取締役 太田憲秀さん
太田憲秀さん |
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太田さんは昭和20年(1945年)のお生まれですが
ルーツはどこにあるのでしょうか。
両親は名古屋市に住んでいたときに空襲にあって母の実家(愛知県中島郡平和村)に疎開しました。私はそこで生まれて育ちました。
父が母の実家の跡取りになり、農業をやることになりました。父はアイデアマンで、左官屋用の刷毛やホウキを自ら作って製造販売もしていました。製造機械も自分で作ってしまうほど器用な人でした。柔道四段の腕前で強かったですし、近所の方々には書道を教えたり、帳簿作成してあげたりと、本当になんでもできて面倒見がいい人でした。母はまめな人で、私たち4人兄弟の着るモノ、シャツやズボンは母の手作りでした。
私が世話好きなのはそんな両親からのDNAが大きいでしょうね。
太田さんはどんな少年時代でしたか。
村相撲ではいつも一番でしたね。サッカー、野球などをするスポーツ少年でした。自分で言うのも・・ですが、努力家でしたよ。学校の成績は徐々に良くなりました。
中学校時代、英語の先生が熱心な方で、クラスメートと一緒に毎日学習ノートを提出していました。それで、名門校と言われていた愛知県立津島高校に入学しました。共学で女子生徒もいて楽しい学生生活でした。
父を見ていたからでしょうか。高校では柔道部に入り日々練習に明け暮れていました。朝・昼・放課後と一日に3回練習です。柔道部は結構強くて、最高成績は県大会でベスト8です。このときのチームメイトとは、私が幹事役で、数学の先生だった恩師も一緒に毎年旅行会をやっています。
柔道部の仲間たち
身体を動かすだけでなく、柔道部の先輩の影響でオーディオにも興味を持ちました。自分でステレオを組み立てて、クラシックを聴いていました。
英語が得意だったから英文科に進まれたのですか。
将来はデザイナーになりたいと考えていました。幼少の頃から絵を描くのが得意でした。両親からは好きなことをやっていいよ・・と言われていたので美術大学を目指しました。私のために家を増築してアトリエ作ってくれたりと、応援してくれました。ところがうまくいかなくて、南山大学文学部英文科に入学しました。
学生時代は、自宅のアトリエで近所の子供たちに絵を教えたりしていました。今、写真撮影やチラシ制作をやっているのは、昔とった杵柄なのだと思いますよ。
大沢商会に入社されたのですよね。
英文科卒業者は英語の先生になる人が多かったのですが、自分は商社に入りたいと考えていました。1890年(明治23年)創業で一部上場企業だった大沢商会に入社しました。1968年(昭和43年)のことです。
最初からスポーツ用品部配属されました。テニス・ゴルフ・スキー関連商品を海外から輸入して、百貨店や専門店に卸販売する部署でした。時代も良かったのでしょう、営業成績は良かったですね。ゴルフ用品との関わりが深くて、海外の仕入先もたびたび訪問していました。自らもゴルフにのめり込んで、スコアも結構いいところまでいっていました。スポーツ用品部には通算で19年間在籍しました。
ベン・ホーガン氏と一緒に記念撮影。
ベン・ホーガン(Ben Hogan、1912年8月13日 – 1997年7月25日)は、アメリカ合衆国テキサス州ダブリン出身の
プロゴルファー
中学校の恩師の紹介で同郷の女性と結婚して、三人の子宝に恵まれていました。
そんなとき、1984年2月、カメラ事業の失敗で会社更生法が適用されました。業績が良くないことは知っていましたが、それほどまでとは思わっていませんでした。スポーツ用品は業績が悪くなかったので、再建の柱となりました。私は自分が手掛けた部署だったので、皆と一緒に頑張って会社を再建しようという気持ちでした。西武セゾングループの堤清二氏が管財人となり、西武百貨店の常務だった江頭啓輔氏が社長となりました。江頭氏はトップセールスで海外の高級雑貨の代理店契約を結んで会社再建に奔走しました。
私も名古屋支店長として会社再建に携わりました。三年間単身赴任でした。地元で実家もあり、友達も多く、お得意先にも可愛がっていただき、凄く充実していました。その時、支店創設50周年や会社創立100周年を迎えるタイミングになり、支店再興の追い風にしました。1990年に取締役、1996年に常務取締役営業本部長になりました。江頭氏の指揮の下、海外ブランドの市場開拓をしていたのがいい思い出です。
業績を回復していった1997年に管財人の堤清二氏と江頭氏の路線対立があり、江頭氏が退陣することになりました。私も江頭氏に殉じて29年間在籍した大沢商会を退職しました。
大沢商会退職後はどうされましたか。
2001年に株式会社ゴルファーズガーデンを設立して、「One to One ゴルフレッスン」というシステムを開発しました。ゴルフの練習風景の動画を送ってもらってスイングを解析する仕組みです。インターネットを使った画期的なビジネスだったと思いますが、ちょっと早すぎたかもしれませんね。なかなかうまくいきませんでした。
その後、浄水器メーカーの社長などを経て、2013年に株式会社エコローグを設立しました。この会社では、住宅建材(国産無垢板)、住設機器(浄水器)の卸販売を行っています。工務店さんが主要顧客になります。
大沢商会時代は競争心が強くて誰にも負けたくない猛烈サラリーマンですが、自分で起業して苦労を重ねたせいか、中小企業の経営者たちと付き合うようになって、変わりましたね。人の面倒をよく見るようになってきました。
私はタイプライターが得意だったこともあり、WordとExcelは大沢商会時代から率先して使っていましたし、パソコンに精通していました。それで、ITが不得手な経営者たちの相談役として、写真の画僧処理や書類作成などを代行するようになりました。ブログ制作なども手伝っています。
10年ほど前、異業種交流団体(倫理法人会)との出会いがあり、そこでの活動を通して中小企業経営者のサポートを行っています。困まり事があると、私に連絡してくる方がどんどん多くなってきました。また横浜市金沢区にある杉田ゴルフ場のジュニアゴルフスクールをボランティアで手伝うようになって、地域との接触が深まった時期でもありました。
ゴルフのジュニアスクールにて。
ちょうどその頃からでしょうか。私の人生は、恩返しの時期に入ったと思うようになりました。両親はじめ、生きてきて多くの人たちにお世話になってきたことを、周囲の方々に少しでも返していけたらと考えています。
いつも明るくお元気ですが・・・
毎日4時に起きて、9時までデスクワークをしてそれから外出します。外出時には必ずカメラを持参してお気に入りの風景を撮影するようにしています。「発見しよう」という気持ちがあると人生楽しくなりますよ。
これからも現役として、地元金沢区の中小企業経営者のためにお役に立つことをしていこうと画策しています。
自分史(推定90年)を作成していますので、ご覧ください。(笑)
90年の根拠は、父が91歳、母が87歳まで元気で生きていたので、自分も大丈夫だろうと勝手に解釈しているからです。
自分史
私の元気の素は「ゴルフ」だと思いますね。土曜日・日曜日・祭日は杉田ゴルフ場で希望者にゴルフレッスンをしていますし、私自身もクラブを握って自ら練習しています。
ゴルフ練習場にて
45年以上愛用のゴルフクラブ
太田さんにとっての横浜は・・・
私にとって横浜は、「再び、青春!」ですね。
私は35歳から横浜市民なので「第二の故郷」と言えるでしょう。金沢区の六浦に社宅があって、そこに住んでいたのですが45歳で役員になったときに出てくださいと言われて、金沢区能見台に引っ越しました。今も能見台在住です。
会社員時代は、東京勤務だったので地域との関わりはほとんどありませんでした。最初のきっかけは、ジュニアゴルフスクールに関わったことですか。子供たちを通して、ゴルフコンペのお世話などで父母との交流が始まり、横浜での知人が増えていきました。
今や「横浜人」だと自負しています。
まだまだ横浜のために頑張りますよ。
<取材を終えて>
太田さんは70代にして元気溌剌、いつも明るく笑顔で私たちに接して下さいます。
今回のインタビューで、一流商社が会社更生法の適用になり、その後再建の一躍を担うという激動のサラリーマン生活から起業して中小企業の経営者のサポーターとなるまでの道のりを伺いました。これまで決して平坦ではなかったと思います。そんな苦労も多彩なご趣味すべて自分の糧として生きていらっしゃる太田さんに乾杯です。
(インタビュー:渡邊 桃伯子)
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