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しあわせの「コツ」(第33回) 「さよなら」が言えなくて

by staff on 2019/9/10, 火曜日

第33回 「さよなら」が言えなくて

養老孟司 氏

解剖学者養老孟司氏は、若いころ挨拶や雑談が大の苦手でした。講義やプレゼンなどは全く普通にこなせるのに、なぜ挨拶や雑談だけできないのか、自分でも不思議でならなかったそうです。

養老氏は6歳で父親を亡くしています。父親は結核だったようで、子供だった彼は病床に近寄らせてもらえませんでした。ある日、母親が養老氏を父の枕元に呼び寄せました。「お父さまにごあいさつなさい」と母親に言われたのですが、病で衰えた父の姿を見てショックを受けた彼は、一言も話せませんでした。じっと息子の顔を見ていた父親は悲しそうな顔をし、それから数時間後に息を引き取ったのです。

父の死から30年以上経ったある日、電車の中でふとその時の光景を思い出しました。「そういえば、あの時、親父にちゃんと『さよなら』をしなかったなぁ」と思ったとたん、涙があふれて止まらなくなったのです。このことがあってから、不思議なことにあれほど苦手だった挨拶や雑談が、まったく苦にならなくなりました。

父親に「さよなら」をしないまま永遠の別れを迎えてしまった養老氏にとって、「父との最後の対面」という行為は未完のままだったのです。「さよなら」を言うことで完結するはずの行為は、30年間も閉じられることがなく、また「父にさよならを言えなかった」という後悔の念がトラウマとなって、挨拶や雑談ができない人間となったのでした。電車の中で「さよなら」を言えなかったことを思い出したことにより、やっと「父との最後の対面」は完結したのです。
何より本人がたとえ心の中ではあっても、改めて父親に「さよなら」を言ってけじめをつけることができたのです。それ以降、養老氏はあいさつや雑談に何のこだわりもなくなって普通にできるようになったそうです。

このように、ある特定のクセや行動が「未完の行為」のサインである場合があります。分かりにくい事もありますが、ひとたびそれに気づくと、朝日を浴びた霜のように、すぅーっと溶けてなくなります。「あれはどうも苦手」「あの人の顔を見ると何だかむかつく」とか、誰しも多かれ少なかれ抱えている小さなトラブルは、「未完の行為を完結させて!」という深いところからのメッセージかもしれません。

実は私にも「未完の行為」がありました。

それは小学生の頃の話です。雑誌に載っていた運動靴の広告で、カラーバリエーションに「コバルトブルー」というのがありました。文字だけでは分かりません。こんなハイカラな名前の色のクレヨンや色えんぴつはありませんから、皆目見当がつかないのです。「どんな色だろうなぁ」と好奇心は膨らむばかり。そこで印刷の仕事をしていた父に訊くことにしました。私は知っていたのです。父の大きなカバンには、分厚い色見本帳が入っていることを。

私 「ねぇ、コバルトブルーってどんな色?」
父 「そうだなぁ・・・。う~ん、まぁ今度教えてあげるよ」

なんと歯切れの悪い返事でしょう。「さっさとあの色見本帳を開いてくれればいいのに。ケチ!」と心の中で父に毒づいてしまいました。その晩はそのまま何もありませんでした。次の日もそのまた次の日も、父は「コバルトブルー」を見せてくれませんでした。私は失望感と父からないがしろにされている悲しさで一杯になっていきました。そして、もう「コバルトブルー」のことは諦めることのしたのです・・・。

それから何週間か経ったある初夏の明け方のこと、寝室のふすまをガラッと開けて父が何やら興奮した面持ちで言いました。「成美、コバルトブルーだよ!さあ!早く起きて!」と子供のようにはしゃいでいます。私は眠い目をこすりながら、「何よ、こんなに朝早く」とぶつぶつ言いながら父の言いなりに勝手口のガラス戸を開けました。
「ほら、あそこを見てごらん。あの黒っぽい雲の下あたりが『コバルトブルー』だよ」と、父が指さす東の空を眺めました。まだ中天は夜の気配が漂い、濃紺に染まっています。東に差し掛かるあたりに紫と灰色を混ぜたような色の雲が出、そのあたりから徐々にブルーの色がグラデーションで薄くなり、父が指さしたあたりは鮮やかな「コバルトブルー」でした。

「あれがコバルトブルーか」 しばらく私はその美しい色を眺めていました。やがて太陽が昇ってくると、ブルーのグラデーションは徐々に色褪せて、いつしか「コバルトブルー」も朝空の中に溶け込んでいってしまいました。本当にあっという間でした。

「ふ~ん」と、私はまた布団に戻りました。「何よ、今頃になって『コバルトブルー』だって! 忘れたのを急に思い出したんじゃないの? こんな朝早く人を起こさなくてもいいのに!」と布団の中でぶつぶつ言いながらまた眠りにつきました。

時は流れ、結婚して6人の子育てに明け暮れている頃、様々なストレスから夜眠れない日が続きました。ある日、午前3時半ごろ目が覚め、眠れないのでそのままベランダに出て、ボーっと東の空を見ていました。段々白んでくる空を眺めているうちにふとあの日の光景が蘇ってきたのです。

「そういえば、お父さんに明け方に起こされたっけ。今日は『コバルトブルー』が見えるかなぁ」と、東の空を見つめていましたが、残念ながらその日はすぐ空が白んでしまい、「コバルトブルー」は現れませんでした。何だか肩透かしを食ったみたいで、急にどうしても「コバルトブルー」を見たくなってしまいました。
次の日も明け方にベランダで待っていましたが、「コバルトブルー」は現れませんでした。私は意地でも「コバルトブルー」を見ようという気になりました。けれども、曇りや雨の日はもちろん見えませんし、晴れでも「コバルトブルー」が現れない朝もあります。「コバルトブルー」出会うのは、実に至難の業だったのです。

二週間ほどたったころでしょうか、「今日もダメかなぁ」とベランダの手すりに頬杖をついてぼんやり東の空を見つめていました。すると、濃紺一色の空が徐々にブルーのグラデーションに変わり始め、白み始めた下の方と夜の気配を残した部分との狭間に、それは奇麗な「コバルトブルー」が現れたのです!
「あっ!コバルトブルーだ!!」小さく叫んだ私は、その時すべてが手に取るように分かったのです。

父は印刷された色見本の「コバルトブルー」ではなく、自然界の「本物のコバルトブルー」を私に見せたかったのです。そのために朝の一瞬だけ「コバルトブルー」になる空を見せようと思ったのでした。けれども私が体験したように、いつでも「コバルトブルー」の空になる訳ではありません。これぞ「コバルトブルー」という色はそう簡単には見ることができないのです。
父は毎朝、私のために明け方勝手口を開けて東の空を眺めては「コバルトブルー」を探していたのでしょう。そうして、やっと出会った時、父は嬉しさのあまりはしゃいだような声で私を起こしたのでした。そんな父の想いをこれっぽっちも分からなかった私は「ありがとう」も言わずに、「眠いのに起こされた」という不満しか抱かなかったのです。

「お父さん、ごめんなさい。やっと分かったよ!ごねんね、ごめんね、ありがとう!」と、白み始めた空に向かって声をあげて泣いてしまいました。30年以上も父の愛に気づかなかった浅はかな自分が情けなくて涙が止まりませんでした。
泣きじゃくった顔のまま東の空を見上げると、にこにこした父の顔が浮かび、「やっと分かったのかね。相変わらずお前はトンマだなぁ」と言っているような気がしました。

それ以来、私は頑固だった父に対するわだかまりが消え失せ、父の何気ない振舞いを思い出しては、父なりに精一杯愛情表現をし、心から可愛がってくれていたのだと思えるようになりました。養老氏は父親に「さよなら」を言えずにいましたが、私は「ありがとう」が言えずに30年以上経っていたのでした。
この「未完の行為」を完結させた後、本人の中の何かが劇的に変わったのも養老氏と共通しています。

あなたにもありませんか?

言えなかった「さよなら」「ありがとう」「ごめんなさい」。それらは喉に引っかかった小骨のように、いつもチクチクとあなたの心のどこかを突き、あなたと何か(あるいは誰か)との間の滑らかな交流を妨げています。「起承転結」と言いますが、何事もきちんと「結」までいかないと、それから先が開きにくくなるようです。思い当たることがあれば、早めにクリアしてみてはいかがでしょうか? 幸い人の意識は時空を超えるので、遅すぎることはありません。

空も海もコバルトブルー ボラボラ島

筆者紹介

 
本 名 田尻 成美 (たじり しげみ)
略 歴 著述家・株式会社エランビタール代表取締役
著書 「しあわせのコツ」(幻冬舎)
主な訳書「都市革命」(H・ルフェーブル著 晶文社)、
「空間と政治」(H・ルフェーブル著 晶文社)、
「文体論序説」(M・リファテール著 朝日出版社)
比較文化的視点から、日常の出来事をユーモアを交えて考察していきます。
著 書 「しあわせのコツ」(幻冬舎)



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