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指揮者 増田宏昭さん

by staff on 2020/2/10, 月曜日

本牧、市営バス『三の谷』のすぐ前にある『HELLO! CAFE』でクラッシック音楽のミニ・コンサートがあると聞き、昨年(2019年)の12月8日にお店を訪ねました。「歌の宝石箱」と題されたコンサートで、増田さんの演奏と、伴奏によるソプラノ歌手の歌がまるで宝石箱を覗いているかのようで楽しかったです。中でも特に輝いていたのが増田さんのトークでした。歌の魅力を倍増し、聴衆を楽しくしてくれるトークの持ち主、今回のゲストは指揮者増田宏昭さんです。

増田宏昭さん
増田宏昭さん
 
お名前 増田 宏昭(ますだ ひろあき)
お生まれ 1952年
お住まい 横浜市中区矢口台
ドイツ/コブレンツ市
ご家族 奥様/増田敬子(ソプラノ)
お仕事 指揮者
(合)MIO音楽事務所代表
音楽芸術協会

 

初めて指揮をしたのは幼稚園

初めて指揮をしたのはキリスト系の幼稚園の発表会でのことでした。舞台の上に合唱する園児がそれぞれに楽器を持って5列に並んでいました。その中央に立って、それぞれ異なった列に音を出す合図を送るのです。みんなの視線を浴びて、得意満面でしたね。
指揮棒を振った後は『いなばの白うさぎ』のお遊戯で、私は白の半ズボンに白のタイツをはいた『白うさぎ』になりました。そのころから目立つことが大好きでした。

左:手を振るお気に入りの写真/右:ピアノの練習風景

お遊戯『いなばの白うさぎ』
中央で長い耳の被り物をしてしゃがんでいるのが私

オルガン、ヴァイオリン、そしてピアノ

私の父は若い頃、尺八の免許皆伝でNHKで吹いていたそうです。尺八の和楽譜を洋楽譜に直していたそうです。伯父は歌手になりたくてレッスンに通っていたといいます。そんな訳で家にはオルガンがありました。いわゆる芸事一家だったようです。誰から習うということも無く、私はオルガンで音遊びをしていました。自然とオルガンが弾けるようになっていました。手の届くところに『音楽』がありました。

私には兄がおりまして、父は兄にヴァイオリンを習わせ人前に出ることに慣れさせようと考えました。「一緒におまえもどうだ?」ということで当時3才だった私もヴァイオリンを習うことになりました。私は兄と違って積極的にいつでもどこでも「ギーコ・ギーコ」とヴァイオリンを弾くものですから周りはたまりません。騒音公害でしたね。

さて この時代、小学校には各教室にオルガンがありました。授業が終わって「お帰り」の挨拶をした後にオルガンで歌を歌うのが日課でした。私の担任はオルガンを弾くのが苦手で、私はヴァイオリンを習っていて音符が読めたので、私が弾くことになりました。「増田君が弾かないなら歌わない」と言う生徒もいて、それがまた快感でした。親から「オルガンを弾くのならピアノを習いなさい」と言われて始めたのが5才の時です。ヴァイオリンとピアノの両方を習うのは大変でした。「それならヴァイオリンで調子の狂った音を出すよりも調律してあるピアノをやりなさい」と父が決め、ピアノを本格的に習い始めました。

スポーツ万能だった少年時代

父が務めるKDDの社宅に住んでいました。社宅には子供が沢山いましたから、日曜日は朝早くから仲間を集め、草野球をやりました。私は小学校の野球大会ではピッチャーで4番バッターでした。

当時、小学校の廊下に卓球台がありました。休み時間や放課後に自由に使うことが出来ました。放課後、あんまり夢中になりすぎて「早く帰りなさい」と何度も注意を受けました。時間を忘れるほど卓球が好きで、中学では『卓球部』に入部しました。

ほかにもサッカー、テニス、バドミントンと球技が特に得意でした。水泳は苦手でした。成績は顔を水につけて壁を足でけるだけの11級でした。(後に苦手の水泳でさえ高校では選手に選ばれたことがありました。) 将来、音楽家になるなんて思ってもいませんでした。
スポーツ選手を夢見ていたのかもしれません。

卓球の選手に選ばれた時

幸せな出会い

私は東京の五反田で生まれました。幼児期は溝ノ口で育ち、西落合には小学4年の1学期までいて、2学期からは杉並区の天沼というところに住んでいました。父の会社の社宅で暮らしていましたが、小学6年の時に横浜の平戸に家を建て引っ越すことになりました。

小学4年までは中村保子先生、田中園子先生にピアノを習いました。引越し先にも先生は来てくださりレッスンを続けることができましたが、ご結婚されたこと、私が横浜に移ったことで先生を探さなくてはならなくなりました。横浜在住の作曲家 安藤久義先生に習うことになりました。この方も素晴らしい先生なのですが、「もう、僕が君に教えることはない」と半年ばかりレッスンを受けた後に、市橋徹雄先生(当時武蔵野音楽大学助教授)、田村宏先生(芸大教授)に師事することになりました。その後芸大に進み水谷達夫教授の元でピアノのテクニックだけではなく、音楽に対する姿勢とか、情熱とか、人生観なども学ぶことができました。
私が幸せだと思うことにこうした素晴らしい「師」との出会いです。

中学から湘南高校へ

中学校時代の思い出と言えば、理科の先生に「シューベルトの『冬の旅』を全曲歌いたいから伴奏を頼むね」と言われて、放課後、音楽室で練習したことです。全24曲の歌曲集です。全曲弾くには1時間以上かかります。5曲目の『菩提樹』は音楽の授業で習った方もいらっしゃるのではありませんか? 全24曲を弾き終えたときの達成感を今でも覚えています。

同じ中学校の文化祭でピアノの演奏と司会をした時のこと、ヴェルディの『椿姫』の曲「そは彼(か)の人か」を「カはソの人か」と紹介してしまったことも思い出の一つです。「そは彼の人」の意味が分かっていなかったのですね。

失敗談は沢山あります。高校受験の日に校庭で庭弄りをしていた人に「おじさん、教室はどこですか?」と聞きましたが何とそのおじさんは校長先生でした。
この校長先生の方針が『若いときは体を鍛えろ』ということで、スポーツ万能だった私に校風がピッタリでした。しかし、時も時、芸大のピアノ科を受験しようとしていましたから、好きな卓球もラケットはペングリップではなくシェイクハンドにしました。

高校2年生の時にはスキー教室に参加しました。薄暗くなった夕暮れのゲレンデを一人で滑走し雪のコブで転倒し腰を痛めて、高校3年生になる1ヶ月を入院生活で過ごしました。私の人生で最大の失敗となりました。今でもギックリ腰になり易く、時より腰が痛くなります。

芸大へ 目指せ芸術家

腰を痛めての1ヶ月の入院、その後のリハビリなどで、芸大の受験準備が間に合わなくなりました。滑り止めに選んだ大学には受かっていたのですが『東京芸術大学』を再度受けることにしました。準備の1年間は田村宏先生のもとで受験の用意をしました。

受験の課題を集中して勉強することができ、ピアノ科に合格し、芸大では水谷達夫教授に師事しました。
水谷教授のレッスンは個人レッスンではなく先生のもとで勉強している先輩たちの前でレッスンを受けます。レッスンでは、新入生への洗礼も受けました。
「増田君、弾いてごらん。」と言われると、先輩方の視線が集まるのを感じました。「新入りの増田はどんな弾き方、解釈をするのだろう」と好奇の視線の中、ピアノの前に座り弾き始めると、教授の苦笑と教室のざわめきで演奏は中断し、「なんで?」と驚く私の様子に先生は爆笑され「君は扉をノックせずに人の家に入るのかね、音楽は音を出す前の準備が必要だ。」と笑われました。

演奏するときは弾き始めがとても大切だということ、つまり会場の空気感を知り「さぁ弾きますよ」と聴衆の感性の扉をノックする最初の音がとても大事だということを学ぶことができました。
厳しい水谷教授ではありましたが、「君をピアニストにするのでなく、芸術家にするよ」と言われたことを今でも覚えています。

ピアノの演奏風景

卒業式の日に水谷教授に門下生が花や記念品をプレゼントする中、私は車にマッサージ器を積んでマッサージをプレゼントするといる暴挙に出て先生を苦笑させました。運ぶときに先生の家の門を壊しました。

『コレペティトュア』をドイツ ミュンヘンで学ぶ

芸大ピアノ科4年生の時試験の成績が良かったので、同校のオーケストラで演奏する機会がありました。その時、指揮をされた遠藤雅古教授に認められ、大学院の指揮研究科を勧められて、卒業後は4年間、指揮研究科のピアニスト兼助手として勤めました。指揮をするには全パートの楽譜が読め、全ての音が頭の中で再現できなければなりません。
ピアノのパートを演奏しながら、他のパートを気に掛けていることで「私も指揮ができる」と思いました。当時指揮科の教授だった金子登先生の門を叩きました。指揮者増田宏昭の誕生です。
同指揮科にいらした遠藤雅古助教授は文化庁派遣芸術家在外研修員としてミュンヘンに派遣された経験から、経験談を語られることがありました。来日していた世界的に有名な指揮者ヴォルフガング・サヴァリッシュ氏(ドイツ/ミュンヘン)が二期会のオペラの指揮を務めていた関係で、彼は私をミュンヒェンに招いて下さいました。この時『コレペティトュア』という仕事を目の当たりにしました。
オペラの練習では、オーケストラをバックに練習するわけにはいかないので、ピアノで伴奏をします。『コレペティトュア』とは歌い手に音程や発声、発音、アンサンブル、曲をどう作り上げていくかを指導する仕事のことです。

その頃は残念ながら日本には良き指導者がおらず、私は文化庁の海外派遣員として、ドイツのミュンヘンで勉強できることになりました。その為のドイツ語の勉強は、代々木駅近くの語学学校「ハイデルベルグ」で1年半ほど受けました。

ミュンヘンでは、ザヴァリッシュ氏の下でオペラの指導をしている代表格リヒャルト・トリムボルン氏に学ぶことができました。トリムボルン氏は、歴史 特に宗教史に詳しく、伴奏しながら身振り手振りで稽古をつけ、曲の歴史背景を語り、歌手がどんな気持ちでそのパートを歌うのかを分かり易く教えていく・・・オペラの影の力持ちと呼べる存在でした。『コレペティトュア』の第一人者と呼ばれる彼から学べる幸運を得ました。

『コレペティトュア』の勉強は、曲目の勉強はもちろん、ストーリーの内容から文化、歴史的な背景、衣装、舞台(大道具・小道具)照明など全てを理解しなければなりません。言葉のフレーズも大切で、フレーズで切るところに息つぎを指導しなければなりません。その為のドイツ語の勉強も疎かにはできません。勉強することは多種多様で大変ですがとても面白いと思いました。

ドイツ語も上達していきましたけれど、一方ミュンヘンなまりには苦労させられました。それでも、まずは人間関係だと・・・笑顔と音楽は世界共通語ですから・・・積極的にドイツ人の中に入っていきました。友人にも恵まれました。ミュンヘンに滞在していたカルロス・クライバー氏とイタリア人のジュゼッペ・パターネ氏とも懇意にしてもらいました。そこで学んだのは指揮者としてのカリスマ性、音楽をいかに指揮で表現するか、そしてドイツとイタリアのオペラのレパートリーです。

オーケストラ ジャパン・クラシカ、Beethoven 交響曲第3番エロイカ

コブレンツ市立歌劇場指揮者に就任

ドイツは世界1の歌劇場大国です。公的なもの、自前のア ンサンブルを持った劇場を含めると100近い数の劇場が大都市だけでなく、地方の小さな都市にも点在していることに驚きを隠せません。

劇場で働くには劇場のオーディションを受けなければならず、私は80余の劇場に履歴書を送りました。ちょうど空きがあったのはバレエ団を持つ劇場で、稽古場での基礎レッスンをピアノの伴奏で手伝い、演目が決まれば、各場面、登場するバレリーナの演技に曲の細部を調整し、舞台練習、そして本番と・・・私のデビューはプロコフィエフのバレエ「ロメオとジュリエット」の指揮でした。

バレエを指揮することは毎回違います。わき起こる拍手の嵐が過ぎ去るのを待ち、絶妙なタイミングで演奏を再開します。間は魔だといわれますが「間」の取りかたも経験で身に着けました。また、カーニバルの季節になると道化師が劇場に進入してきて舞台に上がりショートコントを始めます。そんな時は、コントに合わせて即興で効果音を入れ、笑いや歓声が上がると指揮棒を回して「もっと笑え」と観客を煽たり、突如として起こるハプニングやアクシデントを楽しむようにしていました。

演奏の波動、バレリーナたちの波動、そして観客の波動の心地よいハーモニーが生み出せれば公演は大成功なのです。

イタリアのバーリ市立オーケストラ、Beethoven 交響曲第5番運命

こうして、1985年からコブレンツ市立歌劇場指揮者、1987年には同劇場の首席指揮者、1989年には同劇場の音楽監督代理を経て、コブレンツ市より名誉市民賞を頂くことになりました。受賞したその月にコブレンツを去ることは辛いことでしたが、1993年、ザールブリュッケン州立歌劇場の首席指揮者に就任、1998年には同劇場の日本公演に随行し「さまよえるオランダ人」を演奏しました。

その後ノルト・ハウゼン歌劇場とLOHオーケストラ・ゾンダーズハウゼンの両音楽監督を務め、日本に凱旋公演となったワグナーの歌劇「アイーダ」の全曲演奏、マーラーの交響曲第5番はとても高い評価が得られました。

指揮活動はイタリア(ミラノ、バーリ)、中国(北京、上海、青島、合肥)、台湾(台北、台中)と広がり高評価を得ることができました。

指揮者○○○○ XXXXXオーケストラ とプログラムに書かれるように、クラシックでは指揮者の解釈が重要です。楽譜の再現芸術がクラシックと言われますが、再現するにあたっての微妙な解釈の違いが個性的だと面白がられるのです。ベートーヴェンの『運命』のジャジャジャジャ〜〜ンと運命がドアをノックする音だといわれるところも、指揮者によってはせわしくなったり、悠長となったりします。

オーケストラの練習は精神と肉体労働です。そして本番では全パートを引っ張っていくカリスマ性が求められる仕事だと思います。

クラッシック音楽を身近にするために

現在、日本とドイツを行ったり来たりしています。国内では2009年に新国立劇場で「夕鶴」を指揮した他、二期会オペラ、首都オペラ等で指揮をしています。数多くの賞をいただきました。

日本に帰国して感じたことは、クラシック音楽を堅苦しいと音楽だと思っている人が多いことです。学校の音楽の授業でクラシック音楽が嫌いになった人がいると聞いています。

本当にクラシック音楽が苦手ですか? アイススケートの伴奏には多くのクラシック音楽が演技時間に合わせて編曲され使われています。その旋律を美しいと感じる人は多く、曲名の検索回数が増えたり、『スケーターが選んだ名曲集』なるCDが売れたりしています。
日々、TVからCMで使われるクラシック音楽が流れていることも事実です。
昭和歌謡を代表するザ・ピーナッツが歌った「恋のフーガ」の原曲はロッシーニの「セビリアの理髪師」の序曲、「情熱の花」はベートーヴェンの「エリーゼの為に」だと言われています。平原綾香さんはホルストの「惑星」の第4曲「木星 快楽をもたらす者」を原曲とした「ジュピター」で一躍スターとなりました。
アルビノーニの「アダージョ」は世界中で歌われる人気のある曲です。
オペラの題材がミュージカルになっているものも沢山あります。POPS、シャンソンやJAZZとクラシック音楽にインスパイアされ生まれた曲は数限りなくあります。
クラシックは決して堅苦しい音楽ではないのです。

オーケストラ ジャパン・クラシカ練習風景
中央:ソリストとして世界的なピアニスト ペーター・レーゼル氏

私が思うに、要因の一つが、クラシックの敷居を高くしているのはコンサートに係わる経費が高いことです。費用を賄うには大劇場で大勢の人を入れなければなりません。興行主も赤字は困りますから超有名な演奏家や歌手を呼びます。その経費がチケットに加算され高額にならざるを得ません。

ドイツでは地方都市にも小劇場が点在していますが、日本では大都市には大中小のホールがありますが、地方都市となると劇場形式の施設は少なく、公民館や体育館が肩代わりをするような状況です。隣近所の人たちが普段着でくる50人〜100人程度のホールが少ないと思います。少ないホールを発表会や講演会などに使うので、抽選になることもあります。プロに成り立ての若い歌手が名前を覚えてもらいたくても演奏や歌を披露する場所がないのが現実なのです。

そこで身近な施設で普段着のコンサートを開くことを考えました。毎月第2日曜日に本牧の『Hello Cafe』で日曜日コンサート『歌の宝石箱』を企画・制作しました。ご近所の人たちがフラッと来られる環境で、耳慣れたクラッシクの名曲や日本の叙情歌などを毎回いろいろなゲストを迎えて行っています。14:30開演のティータイムコンサートです。この様な場所は若い演奏者が聴衆一人一人に音楽を送ることが出来、又聴衆は身近に演奏者を体験できます。

みなさんの身近な場所でコンサートをやりませんか?

身近な場所で普段着のコンサートを開きたいという思いは、企画・制作会社を創ることに繋がりました。現在(合)MIO音楽事務所の代表としてその様な企画制作を務めています。

ソプラノ・メゾソプラノ・テノール・バリトンの4人とピアノが1台あればドイツの小劇場ではオペラの公演ができます。舞台装置や照明や衣装などに拘らばければ、その分チケットは安くなり観客も有名な大劇場とは違って普段着で何回も足を伸ばすことができます。日本で同じことができないかと模索中です。

日本の叙情歌、童謡もその曲のもつストーリーが分かれば、もっと身近に感じることができます。たとえば「しゃぼん玉」という童謡は幼い娘を亡くした悲しみを歌った曲です。「屋根まで飛んで壊れて消えた」のは大人になることもなく亡くなってしまった娘への哀愁の気持ちです。

「あかとんぼ」は両親が離別し祖父の家で育てられた子供の頃を思い出す歌です。母の背中におわれて(おんぶされて)赤とんぼを見たのはいつの日だっただろうと懐古しています。15でお嫁に行ったねぇや(子守の女の子)が面倒をみてくれていたのでしょう。ねぇやに母の面影を重ねています。別れは寂しくつらいものです。

こんな曲に纏わるお話をしながら日本の名曲もご紹介したいです。身近に小コンサートができる場所がありましたら是非ご紹介ください。宜しくお願いいたします。

【増田宏昭にとって横浜とは】
青年の頃 大桟橋から外国へ行く事を夢見た場所
今は逆にドイツ生活で得た事を持ち帰ってくる場所

(文:高野慈子 写真提供:増田宏昭)

 

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ヨコハマNOW 動画

新横浜公園ランニングパークの紹介動画

 

ランニングが大好きで、月に150kmほど走っているというヨコハマNOW編集長の辰巳隆昭が、お気に入りの新横浜公園のランニングコースを紹介します。
(動画をみる)

横浜中華街 市場通りの夕景

 

横浜中華街は碁盤の目のように大小の路地がある。その中でも代表的な市場通りをビデオスナップ。中華街の雰囲気を味わって下さい。
(動画をみる)

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