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書評 「正法眼蔵」の経営力 PHP研究所 村山幸徳(著)

by staff on 2020/6/10, 水曜日
 
タイトル 「正法眼蔵」の経営力
単行本 240ページ
出版社 PHP研究所
ISBN-10 456977928X
ISBN-13 978-4569779287
発売日 2010/6/24
購入 「正法眼蔵」の経営力

10年前の発行なのに次のようなことが語られる。「“世界のフラット化”は他方で“国内格差”を広げる。デフレによる景気の低迷は正社員と派遣の格差を生み、勝ち組と敗け組の企業格差をつくる。列をなすファスト・ファション店の隣には閑散としたデパートがあり、人通りのない駅前商店街と反対に、歩くことすら困難なエキナカショップ。国内いたる所で格差がはっきりしてきた。」それどころではない現状を体験しながら、この本に対峙した。

著者は「維新の改革、戦後の発展をなし遂げた日本の経済人は、みな空のままに生きてきた。日本の財界を築いた筆頭は土佐出身の岩崎弥太郎だろう。土佐は身分制度が明確で、雨天にゲタを履く藩士と、素足のままの郷士というように、はっきり身分が分かれていた。岩崎はその郷士にすらなれない地下浪人として育った。彼は貧乏な生まれゆえ学問で身を立てることを決意する。ここが“空”と言う考えの凄味だろう。生れの身分を受け入れ、それを運命としてあきらめることが“空”ではなく、現状をどのようにも切りひらくエネルギーが“空”なのである。」天真爛漫の変節は岩崎に限ったことではなく、戦後の経済発展の道もまたこれだった、という。石坂泰三、中山素平、土光敏夫、本田宗一郎、井深大、松下幸之助、みな楽観性と柔軟性を持ち、皆さん、エネルギッシュに、どんどん自分を変えて変革期に乗り出していった。これが、あらゆる近代日本人に共通の人間性だったといわれる。

「戦後60年、最近はこうしたバーバリズムの経営者が少なくなったように感ずる。なにかマネーと器のちいさなリストラばかりをめざす経営者が目についてしまう。どうやらそれは“空”の論理や、もっと基本となる大乗仏教を知らないことからくるのかもしれない。」「現代は感動を失いつつある。それは尊敬心と祈りの喪失でもある。感動を失った人間にどのように尊敬を取り戻そう。感動を失って生きがいの喪失になり、それが勤労意欲とやりがいの欠如にふくれあがる。でも、感動と尊敬心を失った人々に、礼拝までもよみがえらせることは難しい。道元はその解決は知恵にあるという。」事例を出されている。

「人間社会の特徴だが、驚きは容易に尊敬に転嫁する。ノーベル賞に輝いた名古屋大学の益川敏英博士は英語がまったく話せない。英語が話せないことで評価が低くなると思いきや、事実はまったく逆で、尊敬される度合いが群を抜いて高かった。またイチローの成績は驚きだ。大リーグでも前人未踏の領域に入ってきた。さらに最近話題になった栗木史多。数年のあいだに世界七大陸の最高峰に単独無酸素で登頂に成功したという。誰もなし得なかった快挙だが、その理由が失恋だったと聞いてさらにたまげた。こうした人々は大衆を驚かせたが、尊敬を集めたことも間違いない。驚きは尊敬を成熟させるのである。自然の畏敬を感じるチャンスが減り、周囲から感動が薄れれば薄れるほど、人への驚きと尊敬が大切になってくる。尊敬すれば、礼拝は付随して起こる。それが道元のいう敬礼だ。」そして続けられる。

「道元が、敬礼するところ礼拝あり、と述べるのは、まさに現代を表している。わたしたちの周囲から壮大な生命の営みと感動の機会が少なくなれば、いっそう偉大な人と出会うチャンスを増やさなければならない。自分のできないことをなし遂げる達人のワザを持つ人との出会いが、驚きと尊敬と礼拝をもたらす万能薬になる。この重要性をいまいちど確認しなければいけないと思う。とくに子供たち、青年たちに尊敬する対象が必要だと思う。」

「形のないものをとらえる」という項がある。気迫や勇気は、人に見えないものが見えてこそ立ち上る。聞こえないものが聞こえてこなければ気迫は立ち上らない。感じられない声が管理職に得られなければ、社員はしたがっていかない。組織の上に立つものは、下がとらえられない微妙なものを把握しなければその資格はない、と言われる。トップの姿勢として、東芝の社長として乗り込んだ土光は、就任した日にカミナリを落とした。“なんだ、こんなものを作って。すぐに壊せ!”社長室にあった大きな風呂だった。社長室に備えられた豪華な風呂場を見て、土光は役員間に漂うことなかれ主義とエリート主義、そして現場から乖離した経営姿勢を見抜いたのである。土光の峻厳な態度を東芝社員は感じとり、すぐに階段を上りはじめる。下は上をすぐにそ理解するのである。してつぎの詩を紹介している。

ガンジーが愛したシェリーの詩
  諸君よ、静かに断固として立ちたまえ、
  生い茂った無言の森のように、
  腕を組み、ジッと凝視してー
  それこそが無敵の戦いの武器、
  そして、それでも暴君たちが挑んでくるなら
  諸君の間に彼らの馬を踏み込ましめよ、
  切りつけ、突き刺し、傷つけ、なぎ倒しー
  彼らのやりたいままにさせておくがいい。
 
  腕を組み、じっと目を見すえて、
  恐れず、驚かず、
  彼らが虐殺をほしいままにするのを見ていたまえー
  彼らの逆上が鎮まるまで。
 
  そのとき、彼らは恥じて帰っていくだろう、
  彼らのもと来た場所へと、
  そうして流された血は
  彼らの頬を恥じらいで赤めるだろう。
 
  起き上がれ、眠りから目覚めたライオンのように、
  打ち負かされることのない数を組んでー
  諸君の鎖を地に振り落すのだ、
  眠っているうちに諸君にふりかかってきた露のようにー
  諸君は多数―彼らは少数。

「ガンジーはときとしてこの詩を口ずさみ、いっときの休みもなく走り続けた。その行動の力が大衆をうごかしたのである。操作主義では人は動かない。トップの生き方が大衆を引き付ける。社員が経営幹部を見て、“そうだ”といわしめる力。それは目標とそれをめざす迫力ではないか。操作主義から“そうだ”主義への転換、それが21世紀に求められる経営の力だと思う。目標という虚空の力を、いま一度学ぶべき時がきている。」

 

「阿含経・相応部に“末利(まり)”という経典がある。釈迦の在世当時、インドにコーサラ国という大国があった。その王をパセーナディという。妃をマリッカーといった。そのマリッカーを主人公とする経典が“末利”である。パセーナディとマリッカーが鐘楼に登り、二人の会話からこの教は始まる。」
末利があきらかにしているのは
 ・自己を愛する人は、他人へ愛を与える
 ・自己へ向けられた愛のごとく、他人へ愛を与える
 ・他人を害する者は、自分自身を害している
 ・他人を罵倒する者は、自分自身を罵倒している
 ・他人に愛の言葉をかけるものは、自分に向けらえた愛の言葉が記憶に残り、自分に愛の言葉をかけている
 ・助けられたものは人を助け、励まされたものは人を励ます
 ・愛を受けた人は、自己の立場と他人の立場を入れ替えて考える大きさをもつ

「この経典の短い文章に、今日の心理学のすべて説き明かされている。人間は自分が与えられたように人に与える。心に存在するマイナスの王たち、寂しい生活、そして弱い自分を隠すために“慢心のコート”をまとう。いま、わたしたちは余分な精神の贅肉をおとさなければいけない。人類に偉大な富と科学技術を与えた西洋文明は、同時に人類が最高という過信と誤解、そして慢心をあたえてしまったのである。」

「自己学習は仏との出会い」という処がある。「わたしの知人で四国のパン屋さんに勤めていた若い女性がいた。英語が話せ人柄もいいので、東京の教育関係の企業に就職させた。その会社は全員が、東大その他の有名大学卒で構成された会社だった。一年したら話がしたいというので会うことにした。やめたいという。“いまの会社は来訪者が帰ったあとで、みなさんその方を評価し合います。だけど、一度も訪ねてくださった方をほめることがありませんでした。いつも悪口ばかり。前にいた会社はそんなことはなかった。みな高卒。だけど協力してパンを焼いて、一日中配達で動き回って、誰でもが、励まし合っていました。こんな悲しい気持ちで毎日をおくるのは、イヤなんです”声がなかった。成長とはこうしたことだろう。学歴があっても、立派な看板を背負っていても、そこにいる人々の成長がなければ感動がない。感動がなければ救いはない。救いがなければ生きがいは生まれない。彼女はそれが悲しかったのである。こうして彼女は戻って行った。いまは生き生きとした声で電話がかかる。仏に出会う生活をしているのだと思う。」著者は次のように語る。「成長とは自分の目の前にいる人と自分に従う人との関係がよくなることをいう。いつも一対一の関係、自分をはさんだ前後の人間関係が良くなることを成長という。」

いろいろ示唆に富んだ展開が出てくる。「コロナ疾風」のなかで、変化がもとめられる時に、この本との出会いが偶然あったことに驚くのだった。

(文:横須賀 健治)

 

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