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「レッドライト」 (連載第2回)

by staff on 2011/5/10, 火曜日


写真)富津埋立記念館で展示されている「富津潜り」の様子

 東京湾を挟んだ対岸に、潮干狩りで有名な富津という町がある。アサリやバカ貝、白ミルなどの産地としても知られる。この町に横浜から伝わった珍しい「伝統漁法」があるという。宇宙服もどきの重甲冑(かっちゅう)潜水服を着た「富津潜り」とよばれる漁だ。船上の送気用コンプレッサーからのびたフーカーホースを頼りに、深さ5メートルから20メートルほどの海底に潜水。アサリや白ミルを獲る。
 一般に「潜水器漁」とよばれるこの漁法を伝えたのが、開港間もない横浜において、日本で初めて民間による器械式潜水事業を起こした増田万吉という人物だ。増田はジャーディン・ハドソン商会のボーイから身を起こし、日本で最初に潜水技術を習得。1867年に潜水ヘルメットを被って外国艦「ハラシイ号」の船底修理を行っている。

 9年後の1875年、増田は浦賀でヘルメット潜水によるアワビの試験漁獲を敢行。翌年、館山に近い千葉県安房郡根本村(現・南房総市)へその技術を伝えた。この新しい文化は評判を呼び、わずか1~2年で日本各地に広まった。横浜伝来でありながら、ハマっ子のあずかり知らぬ場所で新しい文化が伝えられていたのが面白い。

 話を富津に戻そう。 『富津水産捕採史』によれば、素潜り漁自体はずいぶん昔から行われていたという。潜水器漁が導入されたのは明治13年らしいが、資料に乏しい。一方、一足早く潜水術が伝えられた安房郡のアワビ獲り漁師たちは増田の手引きでオーストラリアの真珠会社と契約を結び、集団で移民していった。そのせいかかなり早い段階で、東京湾東岸の潜水器漁は富津の独壇場になっていたという。

 腕を買われた富津の「潜り(ダイバー)」たちは、北海道、横須賀、愛知、三重、有明海へと、大勢で出稼ぎに向かい稼ぎまくった。長時間潜り続けられる潜水器漁が広まった結果、地元・富津港の水揚げも飛躍的に向上。加工業者はもちろん、町全体が潤いをみせた。

 富津埋立記念館(富津市新井浜932-3)に古い潜水器具が展示されている。説明書きによると、ヘルメットと潜水靴は東京の東亜潜水株式会社が制作したものだが、これは明治時代に横浜のハドソン商会が輸入したもののコピーだという。また「潜りさん」が海中で浮上しないようにヘルメットの突起にかけた錘は、大正時代に横浜潜水衣具株式会社で製作されているとのことである。

 この潜水技術が横浜から伝わったという話はひろく知られているらしく、私が話を伺った漁師の斉藤岩吉さん(大正10年生) は、気安く漁の話をしてくれた。
 「潜水器漁が横浜から伝わったのはまちがいないよ。昔は『潜り』が船の上にいる相方にロープをつかって合図をしてね。引く回数によって『網を上げろ』とか『降ろせ』とか知らせるわけ。今は水中電話があるけど、俺は使ったことがないね。怖いのは職業病というのか、潜水病になる人もいてね。一般のダイバーのように耳に来るんじゃなくて、胸が痛んだり神経がやられたりする。いまもつづけている漁師は少なくないけど、昔ほど獲物が捕れなくなって、開店休業状態みたいになってるところもある」

 ところで潜水器具が横浜から内房に伝わったのは、どういういきさつによるのだろうか?
 かつて東京湾にはたくさんのフェリーが行き交っていたという。現在は久里浜~金谷間しか運行していないが、横浜からも高島埠頭から木更津行きのフェリーが航行していた。この航路がはじまった昭和41年よりさらに前には、横浜~富津間の生活航路もあったそうだ(*場所は良く分からないが、館山近郊への航路もあったらしい。増田万吉が安房郡へ潜水技術を伝えたのは、この航路が関係しているものと思われる)。

 木更津はそこそこ大きな町だが、富津はローカルな漁村である。なぜ横浜との定期航路があったのだろう? 興味を覚えた私は、この航路について調べ始めた。
 ところが横浜市役所の海運課、関東運輸局旅客課、パイロットボートの詰め所、さらには横浜水上警察で訊いても何も分からなかった。ここ10年~20年の記録しか保管していないため、古い時代の話は何も分からないというのだ。困った私は本牧原在住の漁師で古い時代の話に詳しいという茅野義一さん(83歳)に訊いてみた。
 茅野さんによると、本牧や根岸の人々は富津の人々と昔から関わりがあったのだという。渡し船は京浜汽船という会社のいわゆるポンポン船で「明治丸」と「京浜丸」の二隻が航行し、戦前から昭和28年くらいまで堀川(中村川下流域)の、現在の石川町駅の辺りに乗り場があったそうだ。まだ根岸線は開通しておらず、ドンキホーテ(当時はバンドホテル)の向かい側に密集している釣り船屋の集落もなかった。その後、山下埠頭が出来ると、現在の釣り船屋集落のあたりに乗り場が移動。さらに後年、山下公園内の、現在氷川丸の係留場所になっている場所付近(正確にはもうすこし堀川の河口寄り)に乗り場が移って、最終的には昭和30年代前半頃、廃航にされたそうだ。

 この話を裏付けるように、ドンキホーテの前で営業している「山本釣船店」の女将さんは「富津との間に生活航路が存在していた頃は、千葉から釣りのエサが運ばれていましたよ。米とか野菜とかも売りに来てました」と教えてくれた。

 この航路について記した文章はないか、と捜してみたところ、かつて『新青年』などで活躍した作家の北林透馬の作品に若干の記述があった。(以下、引用は北林透馬が昭和31年に発表した推理小説『恐怖のヨコハマ』収録の短編「美人屋敷の秘密」より)

 「富津の生まれだと聞いたが、富津なら新山下橋から出るポンポン蒸気に乗れば、一時間足らずで行ける筈だ。わけはない。—と気が附いた真木は、その翌日、朝十時に出るポンポン蒸気、つまり発動汽船の明治丸に乗って、大いに張り切って富津に乗り込んだ」
 「その晩は附近の青堀温泉までのして、一晩泊って、いろいろ聞いて廻ッたんだが、昔から此附近(*引用者註:富津)では横浜へ女中奉公に出るものが多く、それだけにおとよさんやおきよさんでは数がありすぎて返って見当が附きにくいと云うわけである。
 がッかりして翌朝早く八時の明治丸ーーー此船はみんな同じ名前の明治丸なんだがーーーで横浜へ帰ってきたが、往きの時と違ってこれはひどく混んでいた。みんな大きな荷物を持っている。千葉県の生産品を持って横浜へ行き、横浜の製品を買って千葉へ帰る。一種の行商人だが、多少の統制品や禁制品を運ぶ者もないではないから、乗船の時も下船の時も検査はなかなか厳重である」

 大桟橋に着岸する外航船が異国と日本を結びつけ、関内や山手のエリートたちが水平線の彼方に目を奪われていたそのすぐ傍らで、山下町の小さな桟橋は房総半島から来た連絡船の発着でにぎわっていた。漁民たちは内房を「向こう地」とよび、一衣帯水の付き合いをしていた。
 富津からの出稼ぎ者や行商人はかなり大勢いて、働きに来たまま住み着いたり、嫁入りすることもあった。戦後、横浜の街が食料難に喘いでいたとき、ヤミ米を持ってきたのも「向こう地」の人たちだった。
 横浜からの帰りしな、ポンポン船はミナトで買ってきた品々で溢れていた。おそらく潜水具も生活航路で運ばれてきたのではないだろうか?

 本牧の漁民は、いまでも東京湾の中央部にあたる「中ノ瀬」で捕った魚を富津の漁港に卸すことがあるという。内房との絆は健在だ。東京湾には我々の知らない海の道がある。
 横浜の物語は横浜の中だけでは完結し得ない。 神奈川県外にありながら、横浜と強い結びつきを持つ地域……富津や、横浜に飲み水を提供している山梨県の道志村のことを忘れてはならない。外界との繋がりを抜きにしたら、世界を見誤ってしまう。

<補記>
 我が国に潜水ヘルメットとドレスが輸入されたのは、開国と同じ1859年。その4年後、札幌の五稜郭工事に潜水ヘルメットが使用されている。
 横浜で潜水器が使用された最も古い記録は、英国艦の船底修理で1866年。その翌年、増田万吉が潜水ヘルメットによる「ハラシイ号」の船底修理を行っている。

<参考>

<お願い>
「山下町と館山近郊を結んでいたという京浜汽船の航路」についてご存じの方がいらっしゃいましたら、ヨコハマNOW事務局まで御連絡いただけば幸いです。よろしくお願いいたします。

檀原照和 プロフィール

1970年、東京生まれ。埼玉県立松山高校卒業後、法政大学で元横浜市役所企画調整局長の田村明ゼミに入り、まちづくりの概念を学ぶ。その後大野一雄、笠井叡、山田せつ子などにダンスを学び舞台活動に参加。2006年、「ヴードゥー大全」の出版を機に執筆活動を始める。他の著作に「消えた横浜娼婦たち」(2009 年)

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