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創業100年の今、次の100年を目指して。
都市拡業株式会社 代表取締役社長 田尻惠保さん

by staff on 2011/5/10, 火曜日

 都市拡業株式会社は、2011年3月30日に横浜商工会議所から「創業100年会員企業」として顕彰されました。今年度顕彰を受けたのは、都市拡業と有隣堂(書籍販売)と鈴鹿商店(鉄鋼製品卸)の3社でした。三代目の田尻惠保社長に100年企業としてのこれまでの歩みと、これからの100年についての展望を伺いました。

田尻惠保さん  
名前 田尻惠保(たじりやすお「康男」を35歳の時に戸籍から改める)
出身 横浜市南区三春台
年齢 昭和22年(1947年)12月1日生、63歳
家族構成 妻と息子3人・娘3人
現在のお住まい 横浜市南区三春台
雅号 楽天遊地
趣味 透明の水の自然の中にいること、エネルギーの高い場を探す旅、シュノーケリング、温泉、武道鑑賞、読書
性格 逆境になるほど燃えるタイプ 融通無碍 素直 順応性が高い
HP http://www.toshikogyo.com/

創業100年の歩みをお話いただきたいと思います

 はい、私の曽祖父の時代からお話いたします。
 創業者である田尻儀八の父、私の曾祖父、儀作は肥後(熊本県)の金峰山の麓で宮大工を営んでいました。明治20年頃に平安時代より続いた神社の大改修を、ある村から請け負いましたが、その村で十分な予算の工面が付かず、大損害を被ることになりました。仕事そのものは後世に高い評価を受けた仕事でしたが、曾祖父は下職への支払いに窮したため田畑を売払い、子供たちはみな、新たな開墾地へと移住したそうです。

 その結果の困窮の生活の中、次男である祖父の儀八は故郷の熊本を飛び出し、日本郵船に入社し欧州航路で様々の国をめぐりました。結婚を機に陸(おか)に上がりました。横浜港に入る時に、いつも海から見てとても気に

 
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創業百年会員企業顕彰

入った場所があったそうです。それが、現在の都市拡業株式会社の社屋のある南区三春台(旧中区太田町西仲耕地)の丘陵です。ここは当時、海に近くて高い建物もなく船から直接にこの場所がよく見えたそうです。現在の社屋の真上の地には太田道潅の別邸もあり風水的にもいい土地だったのでしょうね。

 創業は明治42年(1909年)で、元町5丁目(現在中区元町5丁目)ではしけ船業を開業、その後三春台に移転し、「田尻組」として、し尿の汲取事業を始めました。当時、汲取事業は一大利権で、横浜では浅野総一郎、東京では五島家、堤家の独占事業でした。横浜ではその後、多くの業者による組合の事業となり、祖父はこの頃に、この業に参入したようです。

 祖父は昭和15年(1940年)に死亡し、大東亜戦争がはじまります。二代目である父は近衛麻布三連隊に編入となり、中支で終戦を迎えました。焼土となりすべてを失った塗炭の苦しみの中から初代の事業を復興し、昭和25年(1950年)に横浜興業株式会社を設立、海路でし尿を三浦半島の松輪へと移送し、三浦大根の肥料とするリサイクルの先がけのような事業を行っていました。

 その後、田尻海運株式会社として、はしけ船、バージー船、内航タンカー船等の海運の事業を分社化しましたが、横浜港のコンテナ化そして、内航タンカーの座礁事故、海運不況と続く痛手のなかで、海からはすべて撤退することになりました。

 昭和40年代には浄化槽の管理・清掃と給排水設備工事業に事業の軸足は移り、現在の都市拡業株式会社へと続いてきております。ちなみに当社の設立は昭和32年(1957年)です。

 初代も二代目も時代に応じて新しい事業を創造した創業者であったといえますが、ルーツのひとつに水環境の事業の流れがあったと思います。

 
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田尻さんは当初は三代目になるお気持ちはなかったと伺いましたが・・・

 私はこの地で生まれて、太田小学校、老松中学校、平沼高校を卒業しました。私はいわゆる全共闘世代です。一橋大学に入って、学生運動の洗礼を受けました。あの頃の学生は我がこととして天下国家を論じていました。今の学生から見たら信じられないかもしれませんが・・・。南博先生のゼミで「人間の社会性に関する基礎理論」に取り組み、そのまま大学院の修士課程、博士課程に進みました。主にフランス現象学の哲学、特に「身体論」を研究していました。

 その頃我が社は海運事業がダメになって、経営的にも大変な時期を迎えたことは感じていましたが、自分が経営者になるとは思ってもみませんでした。

 それが変わったのは・・ある年の暮れでした。父の三浦半島の松輪での事業を陸運で協力してくれていた社長の息子さんが、わが社で働いておりました。この方が忘年会の帰りにいきなり訪ねてきて、話を聞いてほしいというのです。

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 「やすおさん、俺はこんなことを言う立場ではないかもしれないが、今、あなたが会社にこないと、会社はつぶれてしまう。俺の目の黒いうちは絶対にそんなのは見たくないんだ、俺のわがままな頼みかもしれないが、会社に来てほしい」と涙ながらに訴えるのです。私は心の奥底から揺さぶられるような衝撃をうけました。それで、正月休み会社に行って、いろいろと調べたり、父から話を聞いたりしてがく然としました。このままでは、彼の言うように、本当に会社はつぶれてしまうと分かりました。と同時に、時間軸の中で置かれている自分の立場と役割、社会的な責務のようなものをはっきりと自覚させられました。

 天職は英語でcallingといいますが、私の場合、先祖からのcallingがあって父の会社に入社したのだと、今振り返るとつくづく感じます。昭和59年(1984年)1月の入社が1ヶ月でも遅れれば、わが社は虫食い状態となり、内紛的な四分五裂をへて解体され、人手に渡っていただろうという瀬戸際での決断でした。

全く畑違いの分野に転身なさったわけですね・・・

 全くそのとおりです。大変な思いをしましたが、人間的な成長を考えればバランスが取れて良かったのだと、通るべき道だったのだと思います。入社してからは、まさに、日々戦いの連続の疾風怒涛の中を駆け抜けてきたというのが実感です。営業的にも逆境の日々でした。事業の大きな割合を占めていた浄化槽の関連事業は下水道普及のため、年20%前後の売上げの減少でした。ただただ、業を継続する事、雇用を守ることに必死の日々でした。もちろん全く経験のない仕事を覚えるというハンディーの克服も課題となっていましたから、3年位は365日、毎日夜中の12時まで働いていました。

 それから、5年後の平成元年(1989年)に代表取締役に就任しました。社長になってから私は御先祖からこの会社を預かっている、ご先祖に雇われている社長だ、という漠とした感覚がいつもありました。去年100周年を迎えるころから、この漠としたものは明確に意識化され、自分は中継ぎの役割をしっかり果せるようにと、日々を過ごしています。

 そもそもが、人は置かれた立場、役割をどの程度果たしているかで評価されるのだと思います。こうした評価軸での点数はどのくらいかが、その人の実の身の丈だと思います。ですから、オーナー社長が0点で新入社員は100点ということも当然ありうるわけです。この見方で会社を経営することが大切だと考えています。

 こうした意味で会社は教育機関でもあると思います。つまり、すべての社員が、自分の与えられた役割を修行の場として磨き、さらに成長してゆく場としても会社はあるのだということなのです。このあり方の中で、生きがいを得られ、心の底からのモチベーションの高まりを感じられるのだと思います。

そうしたお考えが会社の理念となっているのですか?

 それも一つですが、法人として会社が存在する社会的な価値があり、存続を許されて事業を継続できるのは、「売り手よし・買い手よし・世間よし」の実践ができてこそだと思います。近江商法と言われているこの「三方良し」の実践をするにはどうしたらいいのかと、いつも考えています。ですから、わが社の経営理念は「水環境修復の事業をとおして、お客様・世間様・私どもの三方がともに栄え、進化します」なのです。我が社のルーツに根差して、時代変化に対応した事業展開を図ると自ずとこうなります。

田尻さん個人として水環境事業に取り組まれる思いはどこから来るのでしょうか・・・

 
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都市拡業株式会社の企業理念

 私は環境問題に昔から関心があり、とりわけ幼い頃から慣れ親しんだ大岡川の汚染に胸を痛めていました。そしてこの川の汚れた水をなんとかできないかと考えていました。三代目として事業承継を考えるときに、大自然から借りている水をきれいにして自然の循環に戻していくこと、水循環の修復で社会に貢献することを自分の事業使命にしようと決心したのです。「生きる意味」や「企業の果たす役割」という問いへの自分なりの答えのつもりでもありました。

 こうした流れから、水環境修復の技術として水改質装置「ザ・バイオウォーター」の事業を始めました。「ザ・バイオウォーター」の水の改質技術をベースに創業100周年を記念して、三つの新製品を開発しました。

 ペットボトルなどの容器内で水を改質する超小型の器具「エランビタール」、金属加工作業の悪臭等の作業環境を改善するための水溶性切削油改質装置「アクアヴェリテ」、頑固な尿石や悪臭を天然由来成分とバイオの技術で除去する尿石除去剤「BWアースクリーン」です。いずれも今後の発展が楽しみな商品ですが、特に「エランビタール」は、「かながわビジネスオーディション2011」にも入選させていただきました。

 これらの事業が次世代へと引き継がれてゆくことでご先祖、祖父、父、も納得してくれると思います。

 
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ザ・バイオウォーター
エランビタール

お子様たちが会社で着々と育っていると聞いていますが・・・

 6人の子供たちのうち、今は2人が我が社で働いています。一度も会社にとは言いませんでしたが2人とも自分の意思で入ってきました。次男が入社早々に排水槽の清掃の仕事をした折に、「人の目にふれないが、なくてはならない、社会の下支えの、この仕事に誇りを感じた。この仕事ができてうれしい」と家内に話したと聞きました。これを聞いたとき、私は我が社はあと100年続いていけると確信しました。

大震災に際して何か考えていらっしゃることがあるそうですね

 我が社は横浜の市営住宅の35%、市営地下鉄駅の100%の上下水道の管理といったライフラインの仕事もしていますので大震災後は夜中の出動などが続いていました。3月11日から2週間くらいは、多くの人が不安な気持ちに取りつかれていました。このころ朝礼で日々話したことは、「このような時だからこそ、あわてず、騒がず、粛々と日々の仕事に取り組みこなしていこう」ということでした。

 危機的な状況はひとまず回避され、今後は長丁場となる復興がテーマです。大震災の被災者に義捐金がなかなか配布されないことを聞くにつけ、透明性の高い義捐金の送り方はないか、義捐金を全額そして確実にスピーディーに、応援したい県そして市町村に確実に届ける方法はないかと考えました。

 その解決策の一つとして「ふるさと納税」を提案しています。これは来年の税金の一部を前払いするという方法です。この方法では、納める税金の納付先とその使い道を自分で指定できる、つまり納める税金を自分なりに目的税化できるということなのです。社員の「ふるさと納税」を会社で代行する方法がないか、現在、弊社の税理士さんと相談中です。

田尻さんにとって横浜は何ですか

 私は生まれも育ちも、そして三代目のハマッ子です。仕事も横浜市発注の仕事をかなりさせていただいております。横浜と私を分けて対象化することがしづらいほどに、私の中で横浜は自分と一体化しています。そういう意味では横浜は、好き嫌いを超えた,身体のような存在です。

 
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都市拡業株式会社HP
田尻社長のブログ「THE BIOWATER BLOG」

 会社を継承してからずっと「自分は御先祖から会社を預かっている、その自分に与えられた役割は何か」を自問自答してきたという田尻さんの言葉には、先代、先々代から続く事業を今後さらに継続・発展させようという意気込みが感じられました。「私は逆境だと燃えるんです。」と仰る力強さは、まさに今の日本に求められているスピリットでもあるなと感じました。

 

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