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2011年5月 「架け橋」

by staff on 2011/5/10, 火曜日

 アメリカのノンプロフィットコミュニティサイトにCaring Bridge(お見舞いの架け橋)というのがあることを知ったのは、米国人の友人の1人が不治の病に倒れた数年前のことだった。本人の家族がページを立ち上げて本人の知り合いの電子メール宛てにパスワードが送られてくる。サイトにアクセスした。知らない多くの人たちや知っている人たちが皆、病気と闘う彼に励ましの一言を寄せていた。病気と闘う本人の最近の写真も掲載されている。寄付からなりたっているこのコミュニティサイトは、誰かが、困難な病気と闘うことになった際に、家族や知人が立ちあげ、知人や友人、親戚や関係者などに広く知らせるものだ。国土が広く民族や宗教などが複雑に錯綜している米国社会では、状況に関する情報が一元化できるこのようなサービスが有効のようだ。遠方にいて心配している家族や親族、それに親しい友人たちも、正しい情報が受信でき、心の触れ合う人たちの間のみで励ます情報が共有できるメリットは大きい。最近別の友人が、かなり深刻な病でCaring Bridgeのサイトを立ち上げた。お見舞いの言葉を送りながら、今回は良い結果となることを祈っている。

 昭和の日に、偶々、英国のウィリアム王子の結婚式がロンドンで行われた。震災で日本からは皇太子夫妻の出席はならなかったが、全世界で20億人が見たようだ。これは、イギリス連邦が、新世界の大陸国家であるアメリカ合衆国とカナダはもちろん、寺島実郎氏によれば「ユニオンジャックの矢」と呼ばれるロンドン・ドバイ・バンガロール・シンガポール・シドニーをほぼ直線でつなぐ英国の言語、文化、法制度を共有する架け橋が現在に生きていることもあり、巨大な歴史的文化遺産を有していることと無縁ではなかろう。イギリス連邦は、スポーツの祭典であるコモンウェルスゲームズを4年に一度開催し、奇数年には英連邦首脳会議を開催している。20世紀初頭に世界の4割を占めた海洋国家の英国の社会遺産は健在で、総本家が安泰であることは、時代と共に独立していった54ヵ国にとっても心理的、経済的に嬉しいことに違いない。歴史の連続性の強みを感じざるを得ない。

 米国発の金融危機の影響と北アフリカの政治的不安に悩む英国としては、王室がダイアナ元妃の悲劇を乗り越える意味でも、ウィリアムの結婚という祝い事は、英国の伝統の継承を披露できる慶事であるとともに、イギリス連邦としての共通項を再確認する機会ともなった。日本では、被災地を訪問する天皇と皇后の姿に、国難の際の象徴天皇の意義を感じざるを得ない。このような時に統合の象徴として国民への架け橋として積極的に行動する姿から励みを感じている人は多いだろう。このゴールデンウィークから日本も再出発に向けて大きく動き始めようとしている。昭和の日に、英国から届いた慶事も、国民の心理にプラスに影響し、旅行や消費にも意欲が出始めている。私は400年ほど前に漂流して豊後水道に漂着したウィリアム・アダムズが、三浦按針と改名し、徳川家康の造船技師兼外交顧問となり、国の舵取りに重要な役割を果たした時のことを想起し、昭和の日というタイミングに、ふと英国からの架け橋を感じるものである。我々は、英国からの慶事を喜びつつ、長い歴史の中での現在という伝統と経験の深みを大切にして、思慮深く平和を希求する国家として、また誇り高き国民として、世界の諸問題に対して果たすべき大きな役割と責任、そしてそれを行える喜びを忘れてはならないと思う。

 今年は、また日独友好150周年であり、様々なイベントが昨年から今年にかけて開かれている。たとえば茨城県取手市は市制四十周年記念事業として取手の合唱団が、訪独交流演奏を行ったことを、知人が参加して書いた報告から知った。十数年の付き合いのあるバーデンバーデンとルートヴィッヒスハーフェンでの演奏会ではハイドンのオラトリオ四季全曲を演奏し、交流会では、「ふるさと」、「もみじ」、「花」など西洋音楽を吸収して生まれた明治日本の歌曲を披露し、野バラ、ローレライ、乾杯、第九の合唱部分などを一緒に歌った交歓の様子が語られている。演奏会の後の旅行では、第二次大戦の際、東京大空襲の二日前に焼夷弾による爆撃で三万五千人の犠牲者を出した伝統の街ドレスデンの復興の話もある。瓦礫の中から取り出したレンガや石などを根気よく集めて元の位置にはめ込み、残りを新しい資材で補う方法により、レンガのモザイク模様の古い建物が多く、市内は最新式の路面電車であるライトレールが数多く走り、郊外には風力や太陽光発電が地面に多く見られる現代ドイツの風景や、美しい伊万里焼をモデルに1710年に製法が確立したマイセン磁器の様子が語られている。商業と音楽の街ライプチッヒには、メンデルスゾーンが創設し滝廉太郎が留学したヨーロッパ最古の音楽院や、バッハが長く音楽責任者を勤めた聖トーマス教会が或ることを知る。特にメンデルスゾーンが「17世紀のこの人物こそ偉大であったのだ。」とバッハを再評価したことが今日のバッハの評価に通ずるとのガイドの説明のくだりが印象に残る。この街は、シューマン、ゲーテや、ニーチェの活躍した場所でもある。このように豊かな文化を受け継ぐ旧東ドイツの統合は、国民の7割がこれを評価している。ユーロに通貨統合も実現し、酸性雨の被害から黒い森を再生させる世代契約の考えをもち、環境と成長について真剣に向き合うドイツ。この国から新たに学ぶべきことは多く、150周年を迎えた本年、ドイツとの架け橋を改めて大切にしていきたい。チャンネルをひねると3月10日号に書いた白い犬の携帯電話のCMの音楽、バッハのカンタータ140番の1曲目の最初のメロディが戻ってきている。この音楽、実に素晴らしい。

 1968年にノーベル文学賞を受賞した川端康成は「美しい日本の私」という受賞演説をした。同行したのは、川端夫人と養子と「雪国」などを英訳したエドワード・サイデンステッカー、コロンビア大学教授で、ストックホルムでギリギリに書いた川端の演説原稿も徹夜しながら英訳したようだ。川端康成は、自分がここにいるのは先生のお陰であるとして賞金の半分を譲ろうとしたらしい。(サイデンさんと呼ばれた本人はこれは断ったが嬉しかったと述べている。)1921年コロラド生まれで、江戸っ子の如くに好き嫌いの物言いがはっきりし、下町を愛したサイデンさんは、谷崎潤一郎の「細雪」や紫式部の「源氏物語」など多くの文学を英訳した。2006年にコロンビア大学教授職を引退し、85歳で、湯島に永住を決めた。しかし翌年、不忍池を散策中に転倒し帰らぬ人となった。

 サイデンさんと共にコロンビア大学で日本文学を教えてきた1922年生れ、88歳のドナルド・キーン、コロンビア大学名誉教授は、長年東京とニューヨークを半々の生活であったが、今年1月に東京で入院したころから、コロンビアの引退講義の後、この春より、日本に永住することを考えていたという。そして今次震災の後、芭蕉の奥の細道の研究や旅をし東北大学で講義をし、また中尊寺の美しさに感動していたキーン氏は、東北の人たちのことに思いをはせ、これまでの日本人への恩返しに日本国籍取得と永住を発表した。ニューヨーク、ブルックリン出身のキーン氏は貿易商の息子として生まれ9歳の時ヨーロッパを旅行する。フランス語などに興味をもつが両親は離婚し、貧しい母子家庭に育った。しかし優秀な彼は、奨学金を得て飛び級し、16歳でコロンビア大学文学部に入学、18歳のときに安いからという理由で買ったアーサー・ウェイリー訳の「源氏物語」に魅了され、日本文学を専攻するようになる。サイデンさんとは米海軍日本語学校当時からの友人どうしである。キーン氏は戦争のさなか、亡くなった日本兵士の日記を訳した際に、日記の最後に英語で両親にこれを届けてほしい旨の記載があるのを発見、机に隠したが没収されてしまったと述べている。また、人種差別や戦争を嫌い、一つ目の原爆で日本が降参することが明らかだったと思われたのに、トルーマンが二つめの原爆投下を「嬉々として」発表したと聞いてショックを受け、長崎への投下を正当化できる理由は考えられなかったと述懐している。

 軍隊から復員したキーン氏は日本研究で生きて行くことを決めた。コロンビア大学に戻り角田柳作教授のもと修士号、博士号を取ったキーン氏はハーバード大学で、ロシア出身で東京帝大を卒業した日本学者の草分けで、夏目漱石の門下でもあったセルゲイ・エリセーエフにも学び、同窓のライシャワーなどと知己を得ている。その後、ケンブリッジ大学では、日本文学を志すきっかけとなった「源氏物語」の英訳者で中国語の「論語」や「西遊記」も訳していた孤高の天才学者アーサー・ウェイリーと親交を結んだほかラッセルとも交友している。その後京大への2年の留学の際、日本人の生涯の友人たちと出会い、1955年からコロンビア大学で教え始め、半世紀を数えている。なお、当初師弟関係にあった川端との往復書簡集も発表されている三島由紀夫と親しかったキーン氏は、川端の実力と受賞は喜びながらも、事前の感触と異なりこれを三島に与えなかったスウェーデンアカデミーの決断は不可思議と考え、結果的に二人の命を縮める結果となったかもしれないと悲しんでいる。

 キーン氏は、2006年1月から毎週土曜日に読売新聞に自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」に秘話満載の連載をはじめ、これが本となり、名前を変えて「ドナルド・キーン自伝」となっている。今回の日本帰化発表と相まって日本文化と海外研究者たちとの交流の歴史などが新たな視点から再発見されることにより、日本の中世から現代への文化史がまた違った側面から浮き彫りにされることの意義は大きい。

 80年代後半、私は東京からニューヨークに赴任した。住んだのはニュージャージー州郊外だったが、引っ越してすぐ、町内会の世話役の方から紹介された近所の日本女性のご主人が日本文学を研究していたユーゴスラビア系アメリカ人で2世の方であった。この人はコロンビア大学で修士課程から博士課程へと研究を進め、両教授の薫陶を受けていた。私は、寅さんの映画をダウンタウンで一緒に見たりもして、交流するたびに文化的刺激を受けた。彼は、キーン教授を通じてか、司馬遼太郎の知遇も得ており、司馬氏が出版した「アメリカ素描」にも案内役として登場していた。私は日米欧の文化について、ビジネスとは別の観点から考えることも多くこのことを今回思い出した。博士号を取得後、この人はカリフォルニアの某大学で日本語とアジア研究の教授として精力的に教鞭を執っている。

 「日本国民と共に何かをしたい。日本は震災後、さらに立派な国になると信じる。明るい気持ちで日本へ移る。」と語るキーン氏は、当面は正岡子規の評伝を中心に研究と執筆を行うようだ。そして今、米寿を過ぎたこの広い叡智と人類愛にあふれる巨人が、世代と大洋を越えた新世紀の架け橋となって、我々に大いなる展望への刺激を与えてくれようとしている。我々としては、新興国の人々が猛勉強している今日、世界に平和的に貢献する日本の力をいや増すためにも、長期にわたる日本の歴史や文化を踏まえつつ、今後のあるべき人類の未来像についても改めて猛勉強し、諸外国の人々と知恵を出し合っていく必要があると思う。

 

小田切英治郎 プロフィール

昭和30年5月、北九州生まれ。牡牛座、A型。横浜と横須賀育ち、県立横須賀高校から一橋大学で国際法を学ぶ。米国駐在を含めた金融機関勤務、中堅企業やベンチャー経験の後、文化や経営、社会や歴史を中心とする翻訳や執筆に従事。米国のビジネス論文、大手企業の週刊文化発信、米国の社会改革の論文等の和訳等に従事。ラッセル、ドラッカー、ガルブレイスに目を通し、中島みゆきに耳を傾けると、城達也の声や、淀川長治の顔が浮かんできた。21世紀の地球は、地上の星が満天の星と対等に挨拶できるような星になってほしい。三権+メディア+金融の五権の分立を基本として、ペンは剣よりも金塊よりも歯切れよく、人は大海に向かって船出し、笑顔で戻ってくるのだ。

 

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