再び、山元町(宮城県)へ!
今回のともの現場は第二回目の宮城県山元町訪問と山元町のボランティアTシャツに「ヨコハマNOW」編集長のデザインが採用されたこと、そして横浜市中区山元町二丁目商栄会の鬼島さんへのインタビューと盛りだくさんの内容です。
3.11からもうすぐ4カ月が経とうとしています。
横浜に住む私たちは節電を強いられる生活ですが日常の中では大震災のことが話題になることも少なくなってきました。4月の宮城県山元町訪問時に廃墟となった坂元駅前でお知り合いになった成田さんからは時々現地の情報がFAXで送られてきていました。5月14日付けの新聞には、山元町では県発注分のほかに町独自で仮設住宅を建設することになったという記事が掲載されています。6月になったら仙台市若林区にある父母の墓参りに行こうと夫と話していた矢先のことでした。
横浜市中区山元町二丁目商栄会の鬼島さんから連絡がありました。
6月12日(日)に4月と同じように商店街で支援物資を受付ます。そして6月19日(日)に支援物資と義援金を持って再度宮城県山元町に行く予定です。
「またやってくださるのですか。」
「ええ、継続的支援が必要だと思いますから。」
そんな言葉に私は思わず落涙しそうになりました。
前回だってとても大変だったのに、また手弁当で支援物資集めをやって夜を徹して東北自動車道を飛ばして現地に届けてくださるというのです。
横浜中区山元町の皆様の心意気に、私も微力ながら協力したいと「ヨコハマNOW」に横浜市中区山元町から宮城県山元町へ 第二弾!
—ヨコハマから支援物資を送ろう—というメッセージを掲載しました。
そして前回、支援物資集めを呼び掛けてくれた友人たちのメールマガジンにも同様に掲載してもらいました。
ところが・・・
第一弾では宅配便のドライバーにあきれられるほど届いた段ボールが今回は全く届かないのです。私の発信力に問題があるのか、それとも衣類以外は難しいのか、結局わずか数箱しか支援物資は届きませんでした。
6月12日(日)の支援物資を集める日。私も商店街に見に行きました。やはり4月のときと違って人もまばらで、これはどうなることだろうと心配してしまいました。やはり前回の三分の一程度の分量だったということでした。
「時間がたって意識が薄れてくると支援も難しくなってしまいますね。」
と鬼島さんからのメールにもありましたが、本当に日本人は冷めやすい民族なのだとちょっとがっかりもしていました。
さらに鬼島さんは今回の山元町訪問のために、「うちわ」を100本程度用意して、山元小学校の6年生の皆さんと山元町二丁目の子ども会のお子さんにメッセージの書込みをお願いしていました。その一部の写真です。心のこもったメッセージでしょう。暑い夏をこの「うちわ」で乗り切ってほしいという気持ちが込められています。
そして宮城県山元町で必要な物資を調べる過程に、私は宮城県山元町の災害ボランティアセンターでボランティアTシャツのデザインを募集していることを知ったのです。早速「ヨコハマNOW」編集長の辰巳に、「山元町のイメージでデザインしてよ」とお願いして、応募締切ギリギリにTシャツのデザイン画像を完成させてコンテストに応募しました。応募したときの背中のメッセージは「ありがとう」だったのです。現在は「心をひとつに」になっています。 |
私は6月18日(土)に仙台に向かう前日のことです。
宮城県山元町の災害ボランティアセンターから連絡がありました。
「応募されたTシャツのデザインが、山元町のボランティアTシャツに決定しました」というものだったのです。それにはびっくり。。。さらに驚いたことに、「仙台放送の番組で取り上げられることになっているので25日のオンエアまでにTシャツが完成していなければならないのです。」と言われたのです。「ウソでしょう・・一週間でTシャツが出来るわけがないですよ。」と思わず電話口で言ってしまった私でした。
弊社のお客様で、日本のTシャツの元祖でもある久米繊維工業株式会社の久米社長にお願いすればなんとかなるかもと思って、久米社長に事情を書いたメールをお送りしました。なんとびっくりを通り越して凄い!!久米社長は19日(日)に仙台に来られることになっていて、「そのような事情なら、私も山元町に行きましょう」ということになりました。あまりの展開に言葉もない状況です。
そして夫と私は6月18日(土)の早朝、仙台を目指して出発しました。
仙台市若林区に住む80歳代の叔母夫婦はとても元気で、「半壊」と認定された自宅の被災状況を説明してくれました。叔母の「うちは大丈夫だから他の方々を支援してあげて。」という言葉がなかったら、私の山元町訪問はなかったよと話したら、「できることを無理せず継続することが大切だよ」とかえって元気づけられました。父母のお墓は、墓石が30度回転しているくらいで倒れてはいませんでした。ただ灯篭型の別の叔母のお墓は三分割に倒壊していました。あの墓石がこんな風にバラバラになるくらい凄い地震だったのだと改めて地震の強さを認識させられました。
宮城県村田町の親戚を回ってお墓参りをして、その晩の宿である白石市の鎌先温泉に到着したのはもう周りが暗くなっている頃でした。そこでも思わぬ出会いがありました。
私が露天風呂にはいっていたときのことです。後から入ってきた二人組の女性に「あんだ・・どこから来たの?」と聞かれました。「横浜です。」と答えると「うちらは石巻からショートステイでここに来ているんだ。」「石巻の避難所はひどい状況だよ。」を話しているうちに、仙台市で購入した山元町向けの支援物資(殺虫剤や蚊取り線香など)と知人から託された新品の夏物衣類をすべて石巻の方々に渡すことになったのです。
6月19日(日)の早朝、私たちは山元町役場に向かいました。
山元町役場は4月に訪れたときとは全く状況が異なっていました。 |
横浜市中区山元町二丁目商栄会の方々は、すでに到着していました。ところが宮城県山元町の役場の方の姿が見えません。連絡がとれなくて私たちはずっと待たされていました。町の役職の方が姿を現したのは30分後のことでした。前回の訪問時には町長・総務課長と会見したことからするとちょっと拍子抜けでしたが、支援物資と義援金はきちんと受け取っていただきました。手書きの「うちわ」も由来を説明してお渡しすることができました。後で伺ったところでは、総務課長は過労体を壊してで休職されているそうです。いかに激務だったかですね。 |
商栄会の方々と役場前で写真撮影をして現地で解散しました。商栄会の方々は土曜日、お仕事が終わった深夜に出発し、明け方仮眠をして早朝に山元町に着いたそうです。山元町の被災地は瓦礫の整理も終わって、かなり復興作業が進んでいる状況だということでした。 |
支援物資を届けた後、私は隣の社会福祉協議会を訪ねました。担当の佐藤さんとTシャツのデザインについて話しているところに、仙台からレンタカーで久米社長が到着しました。久米社長からは「スケジュール的には厳しいが、25日のテレビ放映にまにあうように何とか頑張りましょう。」という心強いお言葉をいただきました。 仙台放送の番組は「あらあらかしこ」という土曜日の10時40分から生放送の情報番組です。ディレクターの黒澤氏からTシャツのデザインについての取材を受けました。オンエアされたビデオを見てみると、柄にもなく緊張していて目が泳いでいる私で恥ずかしい限りですが、「山元町がイチゴとリンゴの産地であること、そして人々があたたかいことをデザインしたかったのです。」と格好いいことを話しています。 |
限られた時間でしたが、成田さんのお宅にも行ってきました。 |
久米社長は山元町を案内されて、「東北の湘南」と言われた山元町の自然の素晴らしさにすっかり魅了されたようでした。そして同時に津波によって失われた多くの命と風光明美な海岸地帯にも思いを馳せていました。
久米社長の山元町訪問の「つぶやき」は、下記でご覧になれます。
http://twilog.org/nobukume/date-110619
6月19日(日)は、高速1000円の最終日。予想通り東北自動車道の渋滞に巻き込まれた私たちは日付が変わる深夜にようやく自宅にたどり着きました。
6月25日(土)仙台放送の「あらあらかしこ」で山元町ボランティアTシャツプロジェクトは放映されました。放映時間は5分程度。私のインタビューも少しだけ写っていました。
山元町災害ボランティアセンター(ボランティアTシャツが販売されました)
http://msv3151.c-bosai.jp/group.php?gid=10117
横浜市中区山元町二丁目商栄会の鬼島さんにインタビューしました。
3月に宮城県山元町支援を打診されたときにどう思われましたか。大震災が起きたときにあまりの被害のひどさにどうしようかと思っていたので、宮城県山元町のことを伺ったときに、一点集中で支援したいと商栄会は全会一致で支援を決定しました。山元町には、1丁目、2丁目、3・4・5丁目の三つの町内会があります。それぞれの町内会長に相談したところ、皆様協力してくださることになりました。私たちは当初から、これは長期戦だから継続して支援していこうと決めていました。 |
4月の支援物資は募集は大変でしたか。
商栄会で支援物資を集めることを町内会では回覧板を回して広報してくれました。神奈川新聞に掲載されたこともあって、近隣の方々だけでなく金沢区や戸塚区などからも支援物資を持って来て下さいました。全部で200名以上の方から支援物資をお預かりしました。義援金も40万円ほどになりました。
支援物資収集の当日は、私たちも「山元町二丁目」のTシャツで頑張りました。
東日本大震災<宮城県亘理郡山元町>応援 (山元町二丁目商栄会)
http://e-yama2-mall.com/sien_110417.html
東日本大震災:同じ名前の被災地の山元町に支援、
日用品など提供呼び掛け/横浜(神奈川新聞)
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1104080007/
4月に初めて山元町を訪問したときの印象はどうでしたか。商栄会の仲間たち10名で伺いました。津波の被害はこんなに凄いものかとあの光景を見て言葉も出なかったです。山元町の方に津波から児童を守ったということで有名になっている中浜小学校を案内されたのですが、こんな被害の中でよく全員生還したと思いました。山元町では町長さんはじめ多くの職員の方々とお会いすることができました。役場の中にあるFMラジオ「りんごラジオ」にも出演させていただきました。 りんごラジオ(宮城県山元町) 東日本大震災:物資携え宮城訪問、 |
継続的な支援活動を続けられました・・
商栄会の各店舗には義援金箱を置いています。またフリーマーケットを実施して売上金を義援金にしました。5月にも山元町に義援金を送りました。
山元小学校でもお話されたとか・・
山元小学校六年生の児童会では宮城県山元町支援で自分たちは何をできるかを話し合ったそうです。5月に私が呼ばれて説明会を開きました。現地での写真を含めて話したところ児童たちは被害のひどさにショックを受けていました。現在、横浜市の山元小学校では自分たちが縫った雑巾を送ろうという計画が進められているそうです。
6月に第二回目の支援物資を募集されましたね。
4月のときと同様に準備をして山元町だけでなく、近隣の町内会にも掲示板やホームページなどで協力をしていただきました。また4月と同様に神奈川新聞にも掲載していただけました。
来て下さった方は前回のときよりは少なくて130名ぐらいでしょうか。支援のムードが薄れてきたことや支援物資の種類が限定されていたことなども原因かもしれませんね。
手書きの「うちわ」は鬼島さんが発案されたとか・・・
そうですね。
山元小学校の生徒さんが「被災地のために何かしたい」と考えているというお話をお伺いしていたことと、避難所や仮設住宅は暑いでしょうからと山元小学校にお話をお持ちしたところ、快く引き受けてくださいました。
商栄会の会員は私も含めてほとんど山元小学校の卒業生ですし・・・。
普段から行事のたびに小学校を訪れていて、交流があるのです。また、山元町2丁目の子供たちも親御さんと一緒にメッセージを書いてくれました。
鬼島さんは携帯ストラップも作られたそうですね。「絆」という文字を描いた木のストラップを作りました。30本お届けしたら、りんごラジオさんから手書きのお礼状を頂きました。 津波被害の同名「山元町」を支援、 6月の山元町訪問はいかがでしたか。今回はご近所の日東農産種苗株式会社様でトラックを出してくれました。 |
中区役所の職員の方も含めて10名で行きました。山元町は瓦礫の整理も終わって、大分落ち着いてきた感じを受けました。
今回も無事、支援物資をお届けすることができて良かったです。
6月18日の深夜に横浜を出て戻ってきたのが19日の15時頃ですから、確かに強行軍ですね。
今後の支援についてはどのように計画されていますか。
商栄会では主要店舗の店頭に義援金箱を設置して引き続き募金活動を行っていきます。
また毎月第三日曜日に開催している「朝市」でも募金を呼び掛けます。7月30日には「東日本大震災チャリティー縁日」を開催し、そこでお預かりする義援金と収益の一部を被災地の山元町へ送金させていただく予定です。
縁日は、近隣の子供会や消防団の方々にも手伝ってもらって支援の輪を広げていきたいと考えています。これからもまた山元町を訪問できればと思います。
これからは宮城県山元町の特産品、「いちご」は今年は難しいかもしれませんが「りんご」などをこちらで販売できたらいいですね。
鬼島さんは山元町を紹介するチラシも作っていらしたそうですね。
はい、ここで生まれて育っていますからね。愛着はあります。
市電の終着駅だった頃は山元町商店街はとても栄えていました。市電がなくなっても各店舗はそれなりに努力して今の商店街を築いてきたのです。私は 祖父がやっていた履物屋を継ぎました。会社勤めをやめて商売を始めたのでいろいろと大変でしたが・・・。10年前に山元町を紹介する「瓦版」を自分で作って配布しました。
とても素敵な「瓦版」ですね。これから「ヨコハマNOW」で紹介させていただいてよろしいでしょうか。
はい、なくなってしまった店舗もありますが、今でも頑張っている店舗もあるので是非紹介して下さい。
一度だけでも大変な支援物資集めを継続して行っていただけるとの横浜中区山元町の皆様の心意気に、横浜下町の人情の厚さを感じました。一方的に支援するというのではなく、お互いに交流できたらという気持ちも温かいです。「ヨコハマNOW」では、これからも横浜市中区山元町の支援活動をサポートしていきます。
また、鬼島さんが作成された「瓦版」を毎月紹介して、横浜市中区山元町を皆様に知っていただきたいと考えています。
横浜市中区山元町2丁目商栄会
http://e-yama2-mall.com/
横浜市中区山元町3・4・5丁目町内会
http://d.hatena.ne.jp/y-345/
(横浜でも警察官の方などが被災地に行かれているそうで、極力交通を円滑に とのことです)
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