Skip to content

業界では珍しい建材店の二代目女性社長
有限会社二瓶建材 代表取締役 湯川則子さん

by staff on 2011/12/10, 土曜日

 カラフル☆ヘルメットや防災グッズ。「何でも間に合う」をモットーに綜合建築資材販売店を経営する『美しすぎる建材屋』湯川則子さん。常に地域と調和する店づくりを目指していらっしゃる、業界では珍しい建材店の二代目女性社長、有限会社二瓶建材 代表取締役 湯川則子さんにお話を伺いました。

湯川則子さん  
お名前 湯川 則子(ゆかわ のりこ)
ご出身 横浜市港北区
年令 サンパチのうさぎ
家族構成 大切な一人息子がおります。
現住所ア 港北区新横浜
ご職業 有限会社二瓶建材 代表取締役
趣味 ゴルフ
「株式会社BBQ」と言われるくらい、バーベキューパーティを開いたり、実は料理も好きなので仲間とホームパーティもよく開きます。
ご性格 元来は非常にのんびりした性格で子供の頃は、父親からよく「のろ子」と呼ばれていました。今はまったく反対でとても素早く動けます。基本的にはとても明るい性格と思います。

有限会社二瓶建材 http://www.nihei-kz.co.jp/

 

横浜生まれの横浜育ち、ずっとこの地で育って暮らしてきたとのことですね。

 小学校は地元の公立に行き、中学・高校と私立捜真女学校に進学しました。小学校3年から二十歳頃まで、日本舞踊(若柳流)を習っていました。
小学校時代は今思えば、一生分くらいの勉強をしていたように思います。商売人の子どもは親にあまりかまってもらえないんです。下に妹と弟がすぐ生まれたこともあって、成績をよくすることで親の注目をひき、自分のポジショニングを作ろうとしていたんだと思います。
おかげで中学入学以降は全く勉強はしなくなり、芸能人や高校野球の追っかけや友人たちとショッピング等、遊んでばかりでした。入部した放送研究部で部長を務めて、とても和気アイアイと友人と過ごしました。当時は今ほど受験などにきびしい校風ではなく、みだしなみには厳しかったですが、のどかでおだやかな学園生活でした。お弁当時間に、おかずの持ち合いをしてバイキングにしてみたり、じゃんけんで負けてマックにハンバーガーを買いに行ったりと、とても楽しい6年間でした。今でもその時の友人たちとはとても仲良くして生涯の友を得たと思います。

そういう体験が、今の湯川さんの人間形成の基本になっているんですね。

 そうかもしれません。その頃の友達とは今もほとんどつながっています。とにかく友達づきあいが長いんです。あの頃と、みんな全然変わらないですよ。容姿はどんどん変わりましたけど(笑)。

その後はどんな進路を選択されたのですか。

 2年間専門学校に行って、広告のレイアウトとかキャッチコピーを考えたりするコースに通いました。実家の商売にも役に立つかもしれない、という気持ちもあってのことでしたが、実際やってみると、才能のなさに気づくことが多かったですね。自分としてはよくできたと思っていても、人から笑われることも多かったです。やはり才能の問題ですね・・・。その頃の友人たちで、才能がある子たちは今でも編集やっていたり、タウン誌とか、ミニコミで活躍していたり、大手広告代理店に職を得ていたり。今振り返ると、あのころが自分としては、低迷期でしたね。高校までのほほんと生きてきてしまったので、いざ就職活動となると、行きたいと思えるところには内定をもらえず、「もうちょっと勉強しておけばよかった」と思いました。自分作りをきちんとしなくては、と二十歳くらいの時に焦りすら覚えました。このころに異なる角度で、自分を捉えなおすよい機会になったと思います。
 結局、知り合いの紹介で、関内の法律事務所の事務の仕事に就きました。住んでる場所が横浜のド田舎でしたから、やはり活気のあるところで「花のOL」をやってみたかったのです。

 私は弁護士の先生の書類の作成や、銀行の業務、裁判所への届け物などの仕事をしておりました。4年半勤めて、少しずつ任せてもらえる業務の幅が広がり楽しかったです。
また、全国の法律事務員さんたちの交流会というのがあり、その年ちょうど横浜で開催されることになって、幹事の一人になりました。横浜の良いところを知ってもらうべく、名所のスライドを作ったり、企画に携わり、大成功でした。その縁でその仲間の方々とサークル「マリンオフィスクラブ」を立ち上げ、当時21歳だったのですが、なぜか初代会長になりました。年齢層も幅広かったですが、勉強会はもちろん、いろいろなところへ旅行に行ったりととても楽しい会でした。もちろんその時の友人とも今もおつき合いしています。

楽しいOL時代を過ごされたのですね。

 ええ、でも父親が会津若松出身ということもあり、封建的で、早く帰ってこないとこっぴどく怒られました。とにかく「挨拶」、「礼儀」、「靴の揃え方」、「食べ方」等に厳しい人でした。

法律事務所をやめ、家業を手伝うことになったきっかけは?

 封建的な家だったので、「一族郎党が総出で商売を行う」ことが当たり前の家庭でした。時代もあったのでしょうが、建材を扱う家業がどんどん忙しくなっていく中、長女が関内で働いているからといって、プラプラ飲み歩いて深夜に帰宅するというのは、両親としても許せなかったようです。早く家業を手伝ってくれ、と言われ続けましたね。そういうこともあって、もう4年半も働いたからそろそろ手伝うか、という感じで辞めました。24歳の春でしたね。

入社してからはどんなお仕事をしていたのですか?

 当時はバブルで建設業界はとてもいい時代だったと思います。建材店と生コン工場を運営していましたので、とても忙しかったです。店を切り盛りしていたのは母で、もっぱら父は現場です。母も営業を兼ねてお客様と出ることも多いので、やはり娘の私が側にいるのは安心だったようで、私と下の妹とで手伝っていました。私はお客様の対応と請求書などを作る業務です。とても忙しかったので、私もフォークリフトに乗ってセメントを積んだりもしましたよ。何度かダンプにぶつけては笑ってごまかしたりしてましたけれど。父や母のアイディアで日曜大工の物も置きだして、「何でも間に合う」を合言葉に一家で頑張りました。商売にはとても厳しい母でした。出産を間近にしてもお産は病気ではない、と働かされました。息子を産んでも、月末は忙しいのでミルクを飲ませながら車で集金などをして回りました。息子が一才の時に保育園に入れて、また本格的に仕事に戻りました。それまでの考えと大きく変わる商売への意欲のわいた時期だった気がします。子供と十分に接してあげれず悩んだ時もありましたが、できる限りの愛情は注いだつもりです。

この業界で、女性が社長を務められているケースは珍しいと思います。どういうきっかけで継ぐことになったのですか?

 母が脳梗塞で倒れ、その後父の病気をきっかけに、平成16年に、正式に経営者を引き継ぐことになりました。母が倒れて以来、資金繰り含め、切り盛りをしてきているという自覚はあったものの、やることは変わらないにしても責任を負ったな、と思いました。会社にいる従業員たちの面倒をみなければとか、業者に対しても責任を感じました。それまでは「社長の娘」という蓑の下で許されてきたことも、自分の中でそういう甘えは消したい、と思い、いろいろな試行錯誤をしました。

 母が脳梗塞で倒れた時、幸いにも命は取り留めましたが、左半身に麻痺が残り、足が不自由になってしまいました。母が動けるうちに社屋を建て替えてあげたいというのが私の夢でした。平成18年に建て替えることができたのですが、お客様にゆっくりしていただけるようなスペースも作りたいということでカウンターを作ったり、カフェを併設したりしました。そうすれば、地域の人にとってもほっとできる場になるし、母の居場所にもなるかな、と思って。

 今では女性であることの強みを考え「美しすぎる建材屋」と勝手に自分でキャッチフレーズをつけて皆様に大笑いされています。

経営者として大切にしていることは?

 座右の銘は「信じる者は救われる」です。出会った人たちとの関係を大切にしながら楽しく関わることが仕事につながっていくと思います。経営していると葛藤する場面はいろいろありますが、笑う門には福来る、の言葉通り、自分が楽しくいることが大事と思っています。

 このあたりの地域は、昔から地縁が強いんです。父母の代からの信頼をベースに誠実に仕事をしていくことが大切だと思っています。「のりちゃん」と父母の代からのお客様にかわいがって頂くと、とてもうれしいです。

今後は、どんな風に事業を進めていきたいですか?

 昨年、実はちょっと体調を崩して、弱気になったことがあったんです。もともと丈夫なわけではないのに、ずっと無理していたのかもしれませんね。ときどき大きな病気をすることもありましたが、昨年、体調がすぐれないことが長く続いて。今までのように、「どんどんあれをやろう、これをやろう」という企画が湧き上がってこなくなって、ピタッと止まった時、すごく焦ったし、精神的にもきつかったです。特に身体が思うように動かないことがもどかしくて、伏せることが多かったです。年齢の節目ですね。

 実は今年の春くらいまでそういう状態におかれていたんです。少し弱きでくじけそうでしたが「よし、あと10年頑張るぞ」とゴールを自分で設定したら少し気が楽になり、逆に励みになりだしました。実際はずっと頑張らざるを得ないのでしょうが、次世代に何を贈るのかという事を考えると、区切ってものを考えるのも一つかと思います。

 信条としては、クールに「区切り」を見据えて、今できることをやっていくだけだと思っています。10年頑張って、その先の展開はそれから考えようという心持です。よく後継者の問題はどこも頭を悩ませていると思いますけど、うちの場合も父が、事業に執着を持っている姿を目の当たりにしてきたので、私はそうはならない、と決めていました。息子が継いでくれたらそれに越したことはありませんが、息子が何を生業とするにも、息子の負担にならないように、息子にとって良い形になるようにしていきたいと思っています。

 最近は経営環境も変化してきていますし、ホームセンターで建材屋のようなところも増えてきています。私達も工事業とか、リフォーム業とか、間口を広げるようにしていて、頼まれたらやる、というスタンスをとっていますね。あとは土地の有効利用も意識して、貸し物件を造り、早い段階から対策を進めてきました。夢がないといえばないのかもしれませんが、現実と向き合うことも大切だと思っています。「何でも間に合う」努力はゆるめずにがんばる所存です。

湯川さんにとって横浜とは?

 お帰りと言ってくれる場所、です。
 二瓶建材のロゴは、仲間の会社にお願いして「楽しい感じ、かわいい感じで」とリクエストしたら、元気の出る黄色のニコちゃんマークのロゴになりました。最近、看板を新しくしたのですが、鳥山町に帰ってきた人が、「帰ってきたな~」とほっとできるようなそんな看板にしたいと思って作りました。地域の方々から、「ほっとする」と褒められると、嬉しいです。

  (画像をクリックして拡大写真をご覧ください)

湯川則子さん

(紹介者:有限会社ニューイング 工藤 文子 文:NPO法人ETIC. 田中多恵)

 

Comments are closed.

ヨコハマNOW 動画

新横浜公園ランニングパークの紹介動画

 

ランニングが大好きで、月に150kmほど走っているというヨコハマNOW編集長の辰巳隆昭が、お気に入りの新横浜公園のランニングコースを紹介します。
(動画をみる)

横浜中華街 市場通りの夕景

 

横浜中華街は碁盤の目のように大小の路地がある。その中でも代表的な市場通りをビデオスナップ。中華街の雰囲気を味わって下さい。
(動画をみる)

Page Top