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「レッドライト」(連載第10回) 刺青から学ぶ封印された外交

by staff on 2012/1/10, 火曜日

彫千代の写真(長崎大学付属図書館所蔵)
 

 ミナトといえば船乗り。船乗りといえば、二の腕に入れた刺青である。横浜港は日本で一番大きなミナトだ。そういった意味で、横浜は日本で一番刺青が似合う街だった。

 ミナトと刺青が分かちがたく結びついていたのは、そう遠い昔のことではない。三島由紀夫から自決の十日前に入墨を依頼されたことでも知られる横浜の彫り師・彫錦こと故・大和田光明氏は「ミナトで積み荷の点検を行う検数員には、刺青を入れた人が多かった」と述懐している(山田一広・著『刺青師(ほりし)一代 大和田光明とその世界』神奈川新聞社 1989年)。

 ミナトと船乗りと刺青の三位一体。それは開港とともに始まった。欧米の水夫や水兵たちには、立ち寄ったミナトで土産代わりの刺青をしていく習慣があった。航海の無事を祈り、ラッキー・アイテムを彫り込むこともあれば、ピンナップ・ガールや異国の意匠を刻むこともあった。

 当然、横浜に立ち寄った外国人たちのなかには、伝統的な和彫りのタトゥーを入れていく者も少なくなかった。開国当時、日本の刺青は世界最高の水準に達していた。他国の彫り師には真似の出来ない「ぼかし」の技法、龍や虎、鯉といったオリエンタルな図称、絵柄に隠された意味合いや物語性などが受けたのだろう。招かれて欧米に渡った彫師も何人かいたそうだ。

 そうした時代、西洋で「刺青界の皇帝」と呼ばれた日本人がいた。元町を仕事場にした彫千代である。
 彫千代は謎の多い人物だ。西洋では日本を代表する彫り手だと考えられていたが、国内ではまったくと言って良いほど名が売れていなかった。したがって資料は皆無である。わずかに有島生馬(横浜出身の画家・作家。有島武郎の弟、里見 弴の兄)の小説「彫千代」( 『婦人世界』大正13年1月~5月、8月~10月に連載)や洋画家の藤田嗣治(*註1)が譲り受けた彫千代の見本原画27枚などによって、かろうじてその輪郭がつかめるだけである。

 実像がさだまらない男が「皇帝」と称され、伝説化したのはなぜか。それはイギリスのアルバート・ヴィクター王子とジョージ王子に刺青を施したのが、彫千代だとされたからである。

 当時欧州の王室や貴族の間では刺青が流行っており、外交で来日した際、肌に絵図を入れていく事も珍しくなかった。とくに英国の王室では、日本に来たら刺青を彫るのがある種の決まりのようになっていたという。

 海外で喧伝された彫千代の伝説は、つぎのようなものだった。

 

  1. イギリスのアルバート・ヴィクター王子とジョージ王子に刺青を施した
  2. ロシア皇太子ニコライ2世やギリシャ皇子・ゲルギオス をはじめ、欧州の王室関係者に刺青を施した
  3. ニューヨークの富豪マックス・バンデルに招聘され、数年間滞在してセレブたちに刺青を彫った(彼の離日は1896(明治29)年12月26日付「毎日新聞」や27日付「中国民報」で報じられた)。

 上記三つの伝説は自然史と超常現象の専門家ガンビア・ボルトン(Gambier Bolton) が「ストランド・マガジン」 というシャーロック・ホームズ・シリーズが35年間連載されたことで知られる雑誌に書いた「人間の肌に描かれた絵」という記事(1897年4月号)に由来している。

 彫千代と欧州王室の刺青について研究した小山騰(のぼる)氏によると、残念ながら伝説はすべて誤っているそうである。英国やロシアの皇太子たちが日本で刺青を入れたのは事実であるが、それは別人の仕事だった。ニューヨークの富豪からの勧誘は完全に否定できないものの、彫千代は一生涯日本から離れなかったのだ。

 ボルトンは1893年頃、実際に横浜の彫千代のスタジオに赴き、自身の肌に彫り物を入れて貰ったという。にもかかわらず彼の記事は正確ではなかった。

 おそらく彫千代が英文の日本旅行ガイドブックにうった広告(このページ下段の写真)に尾ひれがつき、「日本で刺青をいれた王室関係者は全員彫千代に入れて貰ったに違いない。ならば、きっと日本で最高の彫り手だろう」ということになり、名声が一人歩きをしてしまったようなのである。

 当時の日本は「野蛮」の名の下に刺青を禁止したが(明治5年/1872年)が、それでも名人と呼ばれる職人たちがいた。明治10~15年頃は、まず彫岩に筋彫りをして貰い、ぼかしの名人である達磨金にぼかしを入れて貰い、最後は唐草権太に朱を入れて貰うのが最上と言われた。その後、彫岩や彫兼といった匠たちが出現。後を追うように、日本の歴史上最高の名人だと考えられる彫宇之(本名は亀井宇之助。明治35年から大正時代にかけて活躍 *註2)が登場した。しかし彼らは海外ではまったくの無名だった。

 海外で名を馳せたのは、彫千代ただ一人だった。その理由として以下のようなことが考えられる。

  • この時代の彫り師としては珍しく、英語を話すことが出来た
  • 写真や絵はがきの販売を手がけるなど新時代に対応する柔軟さを持ち合わせていた
  • 藍色、朱、茶色というそれまでの和彫りの世界にはなかった色彩を持ち込んだ
  • カリグラフィーの意匠など外国人ウケする絵柄にも積極的に取り組んだ

 彫千代の功績として重要なのは、扱う色彩の幅を拡げたことだった。従来の和彫りは、わずか数色の色彩しか用いていなかったのである。しかし肝心の絵柄の方は必ずしも一流とは言えず、日本人よりも西欧人に受けそうなタイプだった。とはいえ、アルファベットを図案化した絵柄をデザインするなど、江戸時代に生まれながら和彫りの枠に収まらない異能の人物だったことは間違いない。

 前述の通り、彫千代に関して分かっていることは断片的だが、おおよそ以下のようなことが明らかになっている。
 本名を宮崎匡(ただし)といい、幕末にあたる1859(安政6)年に静岡市水落町で生まれている。実家は士族で次男坊だったが、19歳のとき失踪し、31歳の時立ち戻りの届けが出されている。実家に現れたとき、彫千代はすでに一端の彫り師だった。

 彼が彫り師を志した理由や、修行中のエピソードに関する記録は皆無である。ガンビア・ボルトンの記事によると、師は名人・彫宇之の兄弟弟子・彫安で、彫千代は師匠の身体に刺青を彫ったという。彫千代本人が顧客に配っていたビジネスカードによると、若い頃絵画教育をうけたらしく、デザインや技術に関しては和彫りの基礎を押さえつつ、独自に研鑽を積んだようだ。

 いつから彫り師として仕事をはじめたのかは分からないが、遅くとも1885年(26歳のとき)には外国人相手の施術を行っていたらしい。
 彼は仕事場だった「アーサー&ボンズ・ファイン・アート・ギャラリー」のオーナーであるホーレス・フランク・アーサーの妾・渡辺ふみと結婚。アーサーとふみの娘・しづの他に二人の子供をもうけた。しかし1900(明治33)年3月17日、満40歳のとき北海道で札幌の娼妓と心中している(有島生馬の小説では日露戦争中、旅順で戦死したことになっている)。その経緯も不詳である。彫千代には彫清という弟子がいたが、彼もまた1904年頃死亡しているという。

 書物によると、彫千代は写真を撮るのが好きで、自転車を乗り回したり、友人と共同でビリヤード場を経営するなど、かなり開化趣味に富んだ人物だったそうだ。

 彫千代らが触媒となり、日本の刺青の技は英国に伝えられた。英国社交界では19世紀後半刺青が流行している。明治政府は刺青を禁止したが、その刺青を「文明国」である欧州の王侯貴族が競ってもとめたという逆説は皮肉である。

 火付け役となったのはエドワード7世で、20歳の時(1862年)、エルサレムの刺青師フランシス・ソウワンに入れて貰ったのが最初だった。20年後、二人の息子(長男アルバート・ヴィクターと次男ジョージ王子)も同じくソウワンからエルサレムの十字架を彫って貰っている。その後、1870年に英国最初の刺青師デイヴィッド・パーディが英国内に初めてタトゥーパーラーをオープン。上流階級を顧客に取り込んで繁盛した。明治時代には五人の王子が来日しているが、そのうち少なくとも四人は日本で刺青を入れているという。

 このブームを背景にイギリスの四大彫り師(サザランド・マクドナルド、トム・ライレー、アルフレッド・サウス、ジョージ・バーチェット)と日本の刺青師が名声を欲しいままにしていたが、アメリカのサミュエル・オライリーがタトゥーマシンを発明したことをきっかけに流れが変わっていく。オライリーの弟子の一人が有名なチャーリー・ワーグナー(1890年代から第二次大戦後まで活躍)で、タトゥーマシンを改良し、1904年に特許を取得した。機械が普及するにつれ、刺青の中心はアメリカへと移っていった。日本やイギリスがタトゥーの先進国だったのは第一次大戦のあたりまでで、その後は国籍よりも「個々の職人の腕次第」という状況になっていくのである。

 1910年代半ばから1930年代にかけて流行したアールデコはジャポニズムの流行から派生した側面があるといわれるが、彫千代らが英国に広めた和彫りも一役買っていたかもしれない。

註1)藤田は手ずから指輪や時計の刺青を彫り「入墨嗣治」と自称していた。

註2)元内閣総理大臣・小泉純一郎の祖父・小泉又次郎は逓信大臣を歴任した政治家だったが、全身に見事な刺青があり「いれずみ大臣」と
  よばれた。この刺青を彫り上げたのが、彫宇之である。

(画像をクリックして拡大写真をご覧ください)

昭和初期から10年代にかけてバンドホテルやグランドホテル(原文ママ)などで販売されていたポストカード類。横浜が海の玄関口であったことから、このようなカード類が海外から持ち込まれ、一方外国人たちは逆に日本の刺青風俗の写真を蒐集していった(西区の「文身歴史資料館」にて展示しているものを撮影)

 

水町通りと海岸通り12番地に店を構えていた「アーサー&ボンズ・ファイン・アート・ギャラリー」の広告。タトゥースタジオが併設されており、彫千代はここで働いていた。のちに独立して自身の仕事場を構えている。
下段文面の和訳:
彫千代……アルバート・ヴィクター王子およびジョージ王子両殿下のご贔屓を受けた高名な刺青師。芸術的な刺青作品によって世界中にその名を知らしめていますが、我々の専属なのです。刺青のデザインや見本は施術室で御覧頂けます。

 

彫よしの見本画

 

彫よしの見本画

主要参考書籍)
小山騰・著「日本の刺青と英国王室」(藤原書店 2010年)

 

檀原照和 プロフィール

1970年、東京生まれ。埼玉県立松山高校卒業後、法政大学で元横浜市役所企画調整局長の田村明ゼミに入り、まちづくりの概念を学ぶ。その後大野一雄、笠井叡、山田せつ子などにダンスを学び舞台活動に参加。2006年、「ヴードゥー大全」の出版を機に執筆活動を始める。他の著作に「消えた横浜娼婦たち」(2009 年)

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