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セカンドライフ列伝 第2回 伊能忠敬

by staff on 2012/2/10, 金曜日

榎本技術士オフィス/榎本博康

第2回 伊能忠敬

配偶者の死に開放される才能

井上ひさしの「四千万歩の男」

井上ひさしの「四千万歩の男」

 

 さて、セカンドライフ列伝は第1回の紫式部に続いて、今度は正確な日本地図を作成した伊能忠敬(1745~1818)です。彼は造り酒屋である伊能家の婿養子となり、実質的な家長である妻のミチに一切の道楽を禁じられ、徹底的にシゴかれていたという話を聞きました。忠敬はわき目も振らずに事業に精を出し、その成果として傾きかけた伊能家を見事に再興させました。その妻が先に死ぬと、やがて50歳で家督を息子に譲って、自分は天文学を学び、やがて日本全国の海岸線地図を作成するための、長い旅にでます。その動機は子午線1度の距離を正確に計測し、地球の大きさを知ることにあったといいます。

 紫式部の夫が先に死ななかったら、源氏物語を書くことが無かったであろうように、伊能忠敬も妻が先に死ななかったら、到底測量の旅には出られなかったでしょう。これは夫婦というものを考えさせられることでもあります。ただし皆さん、だからと言って離婚を急いではいけません。我々凡人には、離婚後に開花すべき才能は備わっていないのですから。それでは、今回も史実の正確性はそこそこに、私の妄想による忠敬のセカンドライフの観察におつきあいください。

どん底の少年期

 忠敬の子供時代は悲惨でした。当時は「家」が経営の母体ですから、男子が居ない場合には女子に婿養子をとり、家を維持していきます。実は彼の父も婿養子だったのです。ということは、将来「家」を託すに足りる優秀な人材だったのでしょう。

 彼は1745年(延享2年)に、その次男三次郎として誕生したのですが、6歳の時に母みねが亡くなってしまいました。すると父は兄、姉と共に実家に帰されてしまい。彼だけが残されました。やがて生家は叔父さんが継ぐことになり、(むむ、母には男兄弟がいたんだあ、)三次郎も10歳の時に父の元に引き取られました。三次郎は幼いながらも利発な子どもであったので、後継ぎの保険として残されたのでしょうが、幼くあっては権力争いができるわけも無く、掛け捨て保険に終わってしまったのです。つらかったろうなあ。

 このどん底こそ、三次郎が大きく育っていく土壌になったことは疑いがありません。その後の彼は寺の住職に就くなどして勉強をしたとのことです。当時でも日本の教育レベルは世界的な高さにあったと思われます。現在で言えば経営学部卒くらいになっていたのでしょう。数学や医学も学んでいます。この並外れた数学力が後に第二の人生の基盤になりました。

第一の人生、佐原の実業家時代

 18歳(現代の満年齢では17歳)で、現在で言う千葉県佐原市の酒造業、伊能家の婿養子になりました。当時、伊能家は傾きかけていたがゆえに、彼の才能が必要とされたのでしょう。格の高い家の養子となり、家格を合わせての結婚でした。妻のミチは再婚で年上の21歳でした。このミチは実にしっかりとした人で、家業に厳しく、忠敬には一切の道楽を許さなかったそうです。だいたい一般に男と言うものは、ちょっと手を緩めると糸の切れた凧のように、どっかに飛んでいきかねないものですから、ミチはそんなことは十分に承知していて、徹底的に支配したのでしょう。

 でも忠敬夫妻の信頼関係は相当に深かったと思います。夫婦と家の経営という、2つの事業を共有するというのは、相性の良い夫婦でなければできません。サラリーマン家庭の人には到底理解が及ばない生活でしょう。私は忠敬がぐぐっと我慢していたとは思いません。彼は家業に励み、その興隆を楽しんでいたに違いありません。事業領域を拡大し、また36歳で佐原本宿の組名主になっています。地域貢献も多くして、人望が厚かったといいます。佐原は江戸に近いという地の利もあって、相当に商業の盛んな土地であったようです。

 しかし、それから間もなくミチは亡くなります。すでに実績のある忠敬は、父のように実家に帰されることはありません。既に伊能家は忠敬そのものであったわけですから。その後二人の後妻をもらいますが、いずれも早くに死去してしまいました。忠敬はミチの死後、道楽を始めます。その道楽とは天文学でした。彼のビジネスでの物流、金流と共に、当時最先端の学問の情報も、江戸から流れてきていたのでしょう。「THIS IS IT」(これが求めていたそれだ)と、マイケルジャクソンより2百年以上早く言ったとか、言わなかったとか。

第二の人生、天文・測量学者の時代

 忠敬は数えの50歳で、家督を息子の景隆に譲って、自分は江戸で好きな天文学の勉強を本格的に始めました。先生として私淑した幕府天文方高橋至時は当時30歳くらいで、とんでもなく老人の弟子を持ったわけです。今でこそ、定年後に大学で博士号に挑戦する人は珍しくありませんが、当時としては大変なことです。

 その忠敬が地球の大きさを知りたいと、蝦夷地への測量を企画し、寛政12年(1800年)に数えの56歳で実行します。その前年に幕府が東蝦夷を直轄地としたことが背景にあり、幕府から測量の許可を得ています。また地球の大きさの測量には江戸から北への距離が長いほど適しています。日本の地形が関東から北に立ち上がっているのは、何という幸運でしょうか。この測量旅行の事情は井上ひさし氏の小説「四千万歩の男」に詳しく書かれています。小説であるからには面白おかしくするために、史実には無い事件がいろいろと起こりますが、測量旅行自体は史実の日程に忠実だそうです。昼間は測量、夜はその日のデータ整理と天測という毎日の繰り返しであり、大変にハードな旅であったことが描かかれています。

 測量は、車付の箱を曳くと距離が分かる歯車内蔵の量程車は車が滑るので精度が悪く、歩測の精度が良かったとのことです。小説では忠敬は2歩で1間(約1.8メートル)を歩いたとありますが、これは大変で、実際は0.7メートル程度だったようです。方角は磁石を使った小方位盤、緯度は象限儀(しょうげんぎ)という装備で、10名程度の部隊でした。

 ところで、この時の費用は忠敬の自弁です。幕府は許可を呉れただけで、経費は出しませんでした。小説では、家督を譲りうけた息子の景敬が、どうぞお使い下さいと、ポンと出して呉れたというのですから、ここだけはうちの息子にも読ませたい。いい言葉なのでもう一度、「お父さん、どうぞお使い下さい(ポン)」息子。

 後年には、幕府がその価値を評価し、予算もついたので全国の地図が完成しました。第10次測量までの成果は、「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」(合計225枚)と「大日本沿海実測録」(14巻)として1821年にまとめられました。ただし忠敬は1818年に死去していて弟子たちが完成させたわけですが、その死は秘密にされ、成果とともに初めて公表されたと言います。

 忠敬の業績は測量にあることは事実ですが、その動機が地球の大きさの計測にあり、また金星の南中の観測や、日食の予測計算をしたことから、私は天文学者と考えています。

再考、少年期

 ところで、6歳での母の死後、生家で10歳までを過ごしますが、その間は本当に掛け捨て保険君だったのでしょうか。私の妄想はむらむらと沸き立ちます。

 父と姉、兄は実家に帰された中で、彼だけは残されました。そこには母の父、つまり祖父の心があったのではないでしょうか。娘の遺児を手元に置き、四季折々の自然や仕事を体験させ、用水路のなりたちなど人の英知を教え、読み書きそろばんの基本、そして月の満ち欠けや地球が球体であることも話し聞かせたのではないでしょうか。16世紀のマゼランの世界一周航海による地球が球体であることの実証から既に百年以上、それが日本の知識人の常識であってもおかしくはありません。忠敬は母の面影を一番星に見ながら、人の世のはかなさとともに、宇宙のなりたちの深遠さに目覚めていったのでしょうか。幼き忠敬は祖父にインキュベートされつつある、ベンチャーキャピタルの秘蔵っ子、天文学の幼きアントレプレーナーであったと、私は夢想するのです。

(2012.1.31 榎本博康)

榎本博康(えのもとひろやす) プロフィール

榎本博康(えのもとひろやす)
榎本博康氏による2歩で1間(1.8m)の実験

榎本博康氏による
2歩で1間(1.8m)の実験

 

榎本技術士オフィス所長、日本技術士会会員、NPO法人ITプロ技術者機構副会長

日立の電力事業本部系企業に設計、研究として30年少々勤務し、2002年から技術士事務所を横浜に開設して今日に至る。技術系では事故解析や技術評価等に従事する一方で、長年の東京都中小企業振興公社での業務経験を活かした企業支援を実施。著作は「あの会社はどうして伸びた、今から始めるIT経営」(経済産業調査会)等がある。趣味の一つはマラソンであり、その知見を活かした「走り読み文学探訪」という小説類をランニングの視点から描いたエッセイ集を上梓。所属学協会多数。

 

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