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「レッドライト」(連載第12回) ホテルニューグランド

by staff on 2012/3/10, 土曜日


「軽井沢ニューグランドロッジ」のレストラン(「ホテルニューグランド」営業企画課提供)

 明治・大正・昭和初期の日本において、西洋式のホテルはひじょうに敷居の高い宿泊施設だった。旅先の宿は民宿か和風旅館が当たり前。そもそもホテルの絶対数そのものが少なかった。ホテルの大衆化が進むのはずっと先のことで、当時の顧客は西欧人か日本人のエリート層に限られていた。

 ホテル業界の黎明期というべき時代。しかし意外なことに、昭和初期は日本のホテル業界最初の黄金時代だった。なぜか。それは日本が帝国主義国家だったからだ。

 日本の中国大陸進出が非難されていたきな臭い国際情勢のなか、政府は日本のイメージ向上を図るため、外国人客の誘致に努めた。その一環として西欧式ホテルの建設が進められたのである。

 横浜が誇るクラッシックホテルといえば、ニューグランド である。開業は昭和2年。開業当初は外国人専用で、支配人もアルフォンソ・デュナン(Alfonso Dunant)というスイス人だった。広く知られるとおり、このホテルは関東大震災からの復興事業として建設されたのだが、同時に上記文脈に沿って「戦前の『ようこそニッポン』」とでもいうべき国策にも寄与した。

 政府は外客誘致のために、鉄道省の外局として「国際観光局」を設置した。1930(昭和5)年のことである。政府の特別融資によって、現在、クラシックホテルと呼ばれている多くのホテルが誕生した。具体的には、上高地帝国ホテル、蒲郡ホテル(現・蒲郡プリンスホテル)、雲仙観光ホテル、川奈ホテルなど15軒で、山口由美・著『消えた宿泊名簿 ホテルが語る戦争の記憶』(新潮社 2009年)によると、ホテル二ューグランドも増改築に伴う特別融資をこのとき受けているという。

 ニューグランドは積極的なチェーン展開に打って出た。

軽井沢ニューグランドロッジ (昭和4年開業)……リゾートホテル
東京ニューグランド (昭和9年開業)……レストラン
富士ニューグランドホテル (昭和11年開業)……リゾートホテル
川崎ニューグランド (昭和15年開業)……レストラン

 「軽井沢ニューグランド」がオープンしたのは、初代支配人であるデュナンが帰国した昭和4年である。当時海外にはマリンリゾート・ホテルが存在していたが、戦前の日本では、リゾートホテルとは山や高原にあるものと相場が決まっていた。横浜に住む西欧人たちは夏になると毎年のように軽井沢や箱根に集団移動した(*註)。その様子は、外国人居留地がそのまま引っ越してきたかのようだったという。この「民族大移動」を見逃す手はない。事実、夏のバカンスシーズンになると横浜の宿泊客は明らかに減少しており、対策を立てなければならなかった。

 「軽井沢ニューグランド」は軽井沢の建設業社・野沢組が所有する雲場池(通称「スワンレイク」)の北側の建物を借り、毎年7月15日から9月10日までの期間限定で営業した。敷地内にはレストラン棟をふくめ、42棟のコテージが点在した。宿泊客はテニスやゴルフ、乗馬、水泳、ボート遊びなどで楽しんだ。週末には映画会やディナーダンス・パーティーが開催された。その様子の一端は、横浜の作家で「日本最初のモダンボーイ」と称された北林透馬の『街の国際娘』(昭和5年)の作中で伺うことが出来る。

 「軽井沢ニューグランド」は正確には「ニューグランドロッジ」という名称だったが、「ニューグランドホテル」と記した記録も少なくない。もっとも宿泊者の多くが外国人だったため、日本語の記録そのものの絶対数が多いとは言えない。戦時中の休業と米軍による接収を経て昭和34年に廃業。ロッジが建っていた場所は、一面コケむした平地になっている。

 今となっては想像しがたいが、ニューグランドは都内に直営レストランを開いている。昭和9(1934)年に、外堀川や数寄屋橋を望むマツダビルの8階にオープンした「東京ニューグランド」である。西欧料理の伝道者的な役割を担っていた料理長のサリー・ワイルの指揮下、バラエティーに富んだメニューを提供した。その多彩さは目を見張るほど。あるときなど217もの一品料理がずらりと並び、さらにメニューの下に「コック長はこのメニュー以外のいかなる料理にてもご用命に応じます」と添え書きされていたという。

 この店では、後のホテルニューグランド総料理長・入江茂忠、同じく後のホテルオークラ総料理長・小野正吉、後のプリンスホテル総料理長・木沢武男といった有名シェフが腕を振るっていた。

 同店はかなりの成功を収めたらしく、気をよくしたニューグランドはその6年後に川崎にもレストランを開業している。

 「東京ニューグランド」はおよそ40年間営業をつづけた。そして石油ショックの影響による国際イベントの中止と収支悪化をうけて、1975年に閉店している。

 「富士ニューグランドホテル」は、昭和11年7月に山中湖畔に開業した。オープンに伴い、国際観光興業が子会社として設立されている。同ホテルは木造3階建て・一部鉄筋コンクリート造りで40の客室を擁した。英国のハーフティンバー様式とスイス・シャレー様式が混ざったこのホテル棟のほかに、「富士ニューグランドロッヂ」と名付けられた35棟のコテージが併設された。興味深いのはニューグランドの代名詞とも言えるフランス料理の他に、東京・銀座に店を構える関西料理の「出井(いずい)」も入居していたことである。このあたりのことを突っ込んで調べたら、なにかおもしろい事実が発見できるかも知れない。

 戦禍の深まりとともに世相は厳しさを増す。「富士ニューグランド」は昭和19年9月に横須賀海軍部隊に賃貸借り上げされ、営業が休止。つづいて翌昭和20年12月28日にGHQ 専用ホテルとなり、立川・横田の両基地と契約して賑わった。 昭和27年6月30日に契約解除となるのだが、現在のように国民にリゾートを楽しむ余裕がなく、また営業期間が夏の3ヶ月間だけに限られていたため財政が極端に悪化。赤字を垂れ流しながらも本社からの補てんで生きながらえていたものの、「ニューグランドロッヂ」は昭和36年4月に花月園に買収され、ホテル本体は昭和50年5月に閉鎖された(閉鎖理由は、防火設備改善に多額の費用がかかるため)。現在はコテージのみが、「山中湖ロッヂ花月園」として営業を続けている。

 野心は行き場を失った。港の価値が相対的に低下していくのより一足早く、ニューグランドは拡大路線から退行路線へと転換していった。それは山手の外国人コミュニティーが縮小していくタイミングと比べても早かった。先に引用した『消えた宿泊名簿』の著者である山口由美は「富士屋ホテル」の創業者を曾祖父に持つ人物で、クラッシックホテルの歴史に造詣が深い。その山口によれば、箱根、日光、軽井沢といったリゾート地から外国人の常連客の姿が見られなくなったのは1970年代に入ってからで、意外なことに戦争の前後を通じて、ずっと同じような夏が続いていたという。しかし「富士ニューグランド」や「軽井沢ニューグランド」が縮小、あるいは廃業したのは、それより10年早い時期だった。

 横浜はしばしば「日本らしい文物がほとんど存在しない街」だと評される。この街は近代化する日本のショーケースであり、表通りに土着の文化があったのでは都合が悪かった。だから横浜の人々は、記念館や資料館を建てて地元出身の文化人を顕彰することを避ける傾向にある。例外と言えるのは、文明開化に貢献した明治期の偉人くらいだろう。その流れは現在も続いている。ホテルというものは、そもそも日本の文化でなかった。長い歴史を経て街の人々が受け入れてきた事実は否定しないが、依然として西洋文化の象徴であることも又否定できない。街の迎賓館とでも言うべきこのホテルが、「鬼畜米英」「八紘一宇」の声高かった戦時中どのように西洋と、あるいは外地と向き合ったかという問題は、非常に興味深いテーマである。

 帝国ホテルや丸ノ内会館、万平ホテル、京都の都ホテルなど、静々たるホテルが軍が南方で獲得した名門ホテル経営のために、アジア諸国に進出している。たとえばシンガポールのラッフルズ・ホテルは日本軍に接収され、陸軍将校の宿泊施設となっていた。軍にはホテルを運営するノウハウがない。したがって内地のホテルが軍から経営の委託を受けて、世界的名門ホテルを廻していたのだった。どさくさ紛れと言ってしまえばそれまでだが、これはある意味でホテルマンたちの夢の実現と言えた。しかしニューグランドが外地へ進出した気配はない。外国人専門のホテルだったため、なにか勝手が違ったのだろうか。あるいは当時会長職にあった野村洋三、もしくは支配人だった光正が安易な外地進出を良しとしなかったからなのか。

 ホテルマンの外地進出は必ずしも道徳的に咎められるものではなかった。万平ホテル前社長である佐藤博美は次のように説明する。
「内地にいても兵隊にとられる時代でしたから、社員たちをホテルマンにさせておける唯一の方法が、南方のホテル進出だったのです。終戦後は、命からがらの帰国となりましたが、それまでの間は、楽しいことも多かったと聞いています。インドネシアを一緒に再訪した杉井や森は言っていましたよ。ジャワが青春だった、とね」(山口由美・著『消えた宿泊名簿 ホテルが語る戦争の記憶』より)

 事実、占領地ホテルの運営に関わらなかった終戦間際のニューグランドには、女性と中高年を中心とした25名程度の従業員しか残っておらず、支配人である光正も徴兵されていたという。

 さらに不思議なのが、戦時中の在浜外国人コミュニティーとニューグランドの関係である。昭和18(1943)年以降、日本に滞在している枢軸国や非対戦各国の外国人たちは、政府が強制疎開地として指定した軽井沢や山中湖周辺に疎開させられている。一般人のみならず、ソ連、フランス、トルコ、スイスなどの大使館も軽井沢に疎開している(ソ連大使館は、後日箱根に移転した)。

 つまり戦時中は外国人のほとんどは母国へ帰国、あるいは強制疎開していたのだから、横浜市内にとどまった外国人は極端に少なかったはずである。外国人専門ホテルだったニューグランドの経営は、都内のホテルに比べてかなり苦しかったのではないだろうか。ニューグランドの社史である「50年史」には、昭和18年を過ぎると英米人は姿を消し、1階にあったバー「シーガーディアン」に顔を見せるのは枢軸国のドイツ人とイタリア人、そして中立国のスイス人くらいだった、と記されている。

 ニューグランド本店は政府機関や軍関係から強制借り上げを受けなかった。とはいえ、明記こそされていないが、軍は大事な顧客となっていたらしい。空襲のあった昭和20(1945)年5月の宿泊客は数える程度だったが、横須賀鎮守府海軍施設部の将校や東芝の徴用工たちが客室を占領していたという。

 よく知られるとおり、戦時中は英米語の使用が忌避された。野球のスター選手であるスタルヒンが「須田博」に改名したほどである。当然ニューグランドにも改名のお達しがあった。しかし大佛次郎ら常連客に考えて貰った名前のうち良さそうなものは、すでに本牧のチャブ屋(欧米人相手の「あいまい宿」)で使われている。あれこれ候補を探しているうちに終戦になった。あくまで結果論ではあるが、ニューグランドは諸外国にも知れ渡った名称をなんとか変えずに済んだのである。

 昭和20年8月にマッカーサーが来訪したときの有様は繰り返し語られてきた。しかしその直前の数年間の様子はかなりあやふやである。戦争中の高級ホテルは「インターナショナルなセイフティーゾーン」として機能し、 国際政治の舞台にもなる。ニューグランドが平時同様、外国人専門のホテルであったとしても、そうでなかったとしても、戦時中の経営を追求していくと語られなかったドラマが明らかになる可能性がある。

 ニューグランドというと港とセットで語られるのが常である。しかしその歴史を見返してみると、それが一面的な認識に過ぎないことが分かる。横浜が港だけの街ではないように、ニューグランドも港町のホテルとして単体で語られるほどスケールのちいさなホテルではなかったのだ。

*註) 夏は軽井沢、冬は箱根といわれ、クリスマスシーズンは箱根に集まる人々が多かった。

(画像をクリックして拡大写真をご覧ください)

スワンレイク湖畔と「軽井沢ニューグランドロッジ」の外観(「ホテルニューグランド」営業企画課提供)

 

「富士ニューグランド」の外観

 

東京ニューグランドからの眺め(「ホテルニューグランド」営業企画課提供)

 

檀原照和 プロフィール

1970年、東京生まれ。埼玉県立松山高校卒業後、法政大学で元横浜市役所企画調整局長の田村明ゼミに入り、まちづくりの概念を学ぶ。その後大野一雄、笠井叡、山田せつ子などにダンスを学び舞台活動に参加。2006年、「ヴードゥー大全」の出版を機に執筆活動を始める。他の著作に「消えた横浜娼婦たち」(2009 年)

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