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セカンドライフ列伝 第3回 榎本武揚

by staff on 2012/3/10, 土曜日

榎本技術士オフィス/榎本博康

第3回 榎本武揚

地球をポケットに持ち歩いたボイラーキッド

榎本武揚像

榎本武揚像
(東京都墨田区堤通 梅若公園内)
筆者撮影(2012.2)

 

 今回は至高のセカンドライフを送った榎本武揚(1836~1908年)です。

 長崎の海軍伝習所とオランダのハーグ留学で工学、国際法、語学を学び帰国した年が慶応3年(1867年)で大政奉還の時でした。その後の一連の戊辰戦争の終結となる函館戦争に至る過程で、函館の五稜郭を拠点に蝦夷共和国を樹立し、諸外国の承認も一部とりつける外交手腕を発揮しました。

 しかし戦いに敗れ(1868年)、自刃しようとする所を捨て身の側近に止められ、また敵将の黒田清隆にその才能と人物を惜しまれて死を免れ、東京で幽閉された後に赦免(1872年)されたのです。

 さっそく政府に登用され、北海道開拓使を始めとして、駐露特命全権公使として樺太・千島交換条約(明治8年(1875年)、日本は樺太を放棄し、千島18島を得る)の締結に成功しました。

その後内閣制度が整うと、逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任したのです。

 学術面では東京農業大学の設立し、また日本化学会、電気学会、気象学会等の設立にかかわり、初代会長として学術の振興に努めました。凡人にはその片方、いや1項目だけでも難しいのに。

争えぬ血筋

 武揚の父、箱田良助(1790~1860) は今で言う広島県福山の庄屋の次男であり、伊能忠敬の第七次測量(1809~1811)から参加しているのです。そして忠敬の死(1818年)後の大日本沿海輿地全図などの完成(1821年)に大いに貢献があったようです。そしてこの輝かしいキャリアと資金で榎本家の婿養子となり、榎本円兵衛武規と名乗ったわけです。(ちゃんとセカンドライフ列伝の第2話とつながっている。)

 武揚はこのバリバリ理系の家の次男として生まれましたが、幼名は釜次郎でした。(ちなみに兄は鍋太郎。)これはすごい名前です。要するに「ボイラーキッド」なのです。釜→缶→罐→ボイラーです。実際に彼は長じてオランダで熱力学や汽罐学(つまりボイラーですよ)、航海術を学び、蒸気船駆動の中核となる技術を押さえることになるのです。当時のボイラーは最先端技術であり、現在に生まれていれば、「あいぱっど次郎」とかでしょうか?これ、いやだなあ。

第一の人生、幕府のテクノクラート

 さて、まずは昌平坂学問所で儒学を学ぶのですが、ここでは余り成績がよろしくありませんでした。総合成績が丙だったとのことで、要するに卒業はしたが中央官庁系の就職は無理だね、というものだったようです。一方ジョン万次郎について英語の勉強をしているので、勉強が嫌いだったわけではないのでしょう。そして19歳で樺太探検に参加するのですが、この調査はクリミア戦争が終結した後のロシアが、またまた東方への膨張を図っていたことに対応しているという説があります。そして20歳で長崎の海軍伝習所の2期生として学ぶのですが、ここで一気に才能が開花しました。理系科目に抜群のセンスを発揮したのです。(1年上に勝海舟がいました。)そして選ばれて26歳から4年間をオランダのハーグに留学します。彼のミッションは幕府が発注した軍艦「開陽」の建設に立会い、それに乗船して帰国することにありました。ここでは工学科目ばかりでなく、国際法も学んだことが、後の彼の活躍の大きな基盤になっています。また観戦武官という制度を利用して、デンマークとプロシア・オーストリアの戦場視察を行い、当時の最新の戦争とはどのようなものかを学んでいるとのことです。

 しかし帰国の年に大政奉還があり、榎本武揚は幕臣としての彼の度量が試される真っ只中に飛び込むこととなりました。世の中が大政奉還だけですんなり収まるわけもなく、鳥羽伏見の戦いとなり、その最中に徳川慶喜は艦長の武揚に無断で「開陽」を使って江戸に帰ってしまいました。残された武揚は、大阪城が薩長軍によって火が放たれる直前に、城中の御用金18万両余りを持ち出したのですが、これこそが蝦夷共和国設立の資金であったわけです。

 さて、彼は海軍の軍人であったと理解することもできると思いますが、私は彼の本質は優秀な技術者にあると思い、小見出しをテクノクラート、すなわち「高級技術官僚」としました。明治維新後の日本が、驚くほどのスピードで近代化を達成していますが、それは幕府も留学生達を送って相当の準備をしていたからとも言われています。哲学、経済学などの西周(にしあまね)のような文系組も武揚と共にハーグで勉強をして、新国家の建設に貢献しました。

第二の人生、何でも解決仕事人大臣

 「忠臣は二君に仕えず」という言葉があります。福沢諭吉はその「瘠我慢の説」で勝海舟と榎本武揚をこの視点から非難しています。武揚に対しては、函館戦争での「忠勇は天晴れな振る舞い」と持ち上げながら、また幽閉中に武揚赦免の嘆願運動も活発に行った一方で、でも明治政府に協力するのではなくて、もっとやせ我慢、つまり反抗の精神は無いのか、と問いただしたものです。この「説」には両名からの反論も掲載されていますが、武揚は「そのうちに愚見を申し上げましょう。」とだけで取りあいませんでした。

 武揚が考えていたのは国家、国益です。自分からは決して大臣にしろとかは言わなかったそうです。ただ、頼まれればできる限り頑張る、でも成果は吹聴しない、旧体制側だった人間の能力、胆力を示すことで、五稜郭で死んだ土方歳三や多くの僚友達の無念に応えるという思いだったのではないでしょうか。さらに彼の命を助けた黒田清隆(第2代内閣総理大臣)は薩長の両勢力の軋轢の中で、武揚を緩衝剤として便利に使ったという事情もあるようです。初代伊藤博文内閣に旧幕臣からただ一人の入閣でした。

 冒頭にあげた「樺太・千島交換条約」、これは19歳で樺太探検をし、また地政学的な視点から世界を見、さらに国際法のセンスを身に着けている武揚にしかできない交渉であったようです。過大にふっかけておいて、落としどころに収めるような駆け引きも用いたとのこと。千島列島を取る方が、太平洋を庭と考えれば、日本にとって有益との判断でした。

 それから明治15年(1881年)に清国特命全権公使になりますが、これは現在の韓国ソウルでの争いに起因して日本と清国の関係が悪化した情勢を踏まえて、両国の関係修復が役目でした。清国側の交渉者は李鴻章であり、武揚は胸襟を開いて話し合える信頼関係を築いたのです。そして明治18年の天津条約で、朝鮮半島から日清両国の軍隊が撤退することなどで、日清間の当面の緊張は解かれたのです。(その後、日清戦争は明治27に起きます。)

 外務大臣も、大臣の椅子のたらいまわしで回ってきたものではありません。明治24年(1891年)に起きた大津事件の後始末です。これは日本を訪問中のロシア帝国ニコライ皇太子(後のニコライ2世)が滋賀県大津で警備にあたっていた警察官に斬りつけられて負傷した、暗殺未遂事件です。これで外務大臣と内務大臣の首が飛んでしまい、その後任と言ってもみんな尻込みして、そんな貧乏くじ大臣をやりたがりません。じゃあ、ロシアと貧乏くじと言えば榎本しかいない、となったわけです。武揚の頑張りもあって迅速な処理がされ、ロシア側から賠償請求もありませんでした。駐露特命全権公使時代の人脈も有効だったのでしょう。

 何よりもロシアは武揚を信用していたとの説があります。駐露公使を離任する時に、シベリヤ旅行をしているのですが、これをロシアが許可した理由は何かということです。一説には武揚が国際的な視点での判断力を持っているから、どんどんと見せておいた方が、将来の日本が間違った判断をしないだろう、という意味での信用だというのです。

 さて、日露戦争は明治38年(1905年)に起きます。物事は単純ではありませんが、武揚の清国とロシア帝国との外交交渉が少しでも両国との開戦の時期を遅らせ、緊張緩和に役立ったとすれば、発足したばかりの明治政府の足腰が強化される時間が得られたことになります。日本の独立を維持するための時間稼ぎができたのです。実は榎本海軍はまだ素人レベルだったのです。咸臨丸の太平洋横断や、開陽のハーグからの帰国航海は、実質的に欧米人の指揮下でのものであり、日本人はまだ自力では国際的な外洋航海ができていなかったのです。開陽丸は木製3本マスト補助蒸気機関付きで2,900排水トンの船でした。いよいよ意を決して函館に向かう時に、天候の判断ができず台風でマストを折り、最後は函館湾で座礁してしまいました。いろいろな意味で諸外国列強との実力差を知る武揚は、並々ならぬ思いで外交交渉に心血を注いだのでしょう。

 明治27年(1894年)に農商務大臣となるのですが、これは足尾鉱毒事件という大きな懸案があったからです。当時としては画期的なことに、私的ではあるが現地を訪れ、これは私企業対付近住民の問題ではなく、国家が対応すべき公害であるとの認識を得て、抜本的な対策への先鞭をつけ、自身は引責辞任をしたと言われています。

 さて最近は、現代に武揚が居ればなあと思ってしまうような政治課題が山積みです。あなただったら、どの大臣をやってほしいですか。

ポケットの中の地球

蝦夷共和国の位置づけ

蝦夷共和国の位置づけ

 

  武揚は地球的な、地政学的な視野があったことは間違いありません。しかも武力征服ではなく、経済圏の構築を日本の安全保障とする考えがあったものと思います。彼が外務大臣時代に始めたメキシコ移民計画は、後に榎本移民と呼ばれますが、環太平洋国家という理念の実現であり、侵略でもなく、出稼ぎ移民でもなく、移民先の国家の発展を図りながら、日本との外交的な、商業的な、そして文化的な信頼関係を築くことで、国家日本の将来にわたる発展と安全保障を確保しようとしたものと理解しています。(実は移民自体は成功とは言い難いのですが、心に滲みる実話が幾つもあります。)

 蝦夷共和国は、榎本海軍が北方に追いやられて、遁走の末にたどり着いた袋小路ではありません。武揚には、蝦夷共和国が十分に国際的な国家の一員としてやっていける可能性が見えていたのでした。それは彼がオランダに留学して得た発想でしょう。太陽の動きが樺太と同じような北の地で、こんなに豊かな国が築かれていると。その頃の函館は日本の果てだったかもしれませんが、当時は米国の捕鯨船の格好の寄港地でもあり、世界の通商という視点からは十分にハブの要所であったわけです。

 幼い武揚は、父の地球儀を飽かずに回して好きな所で止めては、見入っていたことでしょう。そして19歳で樺太に行った彼は、緯度というものを体感しました。それからというものは、武揚のポケットにはいつも地球が入っていたと、私は思うのです。
(注:筆者は武揚とは別の家系です。)

参考文献
1.榎本隆充、高成田亨編:近代日本の万能人 榎本武揚、藤原書店、2008
2.上野久:メキシコ榎本移民、中央公論社、1994
3.佐々木譲:武揚伝(上、下)、中央公論新社、2001

(2012.2.29 榎本博康)

榎本博康(えのもとひろやす) プロフィール

榎本博康(えのもとひろやす)  

榎本技術士オフィス所長、日本技術士会会員、NPO法人ITプロ技術者機構副会長

日立の電力事業本部系企業に設計、研究として30年少々勤務し、2002年から技術士事務所を横浜に開設して今日に至る。技術系では事故解析や技術評価等に従事する一方で、長年の東京都中小企業振興公社での業務経験を活かした企業支援を実施。著作は「あの会社はどうして伸びた、今から始めるIT経営」(経済産業調査会)等がある。趣味の一つはマラソンであり、その知見を活かした「走り読み文学探訪」という小説類をランニングの視点から描いたエッセイ集を上梓。所属学協会多数。

 

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