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書評 「3・11その日を忘れない。(歴史上の大津波、未来への道しるべ)」 島影社 飯沼勇義著

by staff on 2012/4/10, 火曜日
 

 「歴史に学べば、避けられたはずの悲劇 東日本大震災は人災以外の何ものでもない」
 おどろくべきことが書かれている。冒頭から刺激的だ。「今回の津波で仙台市宮城野区蒲生地区にあった我家を失ってしまった。津波研究家の私が津波で被災するというのは、実はこの地に居を構える際予想した出来事であった。」飯沼氏はずっと予測し講演も行い、対策も提案されていたのである。私はこの本を震災に関連するフォーラムに参加したあとの、仙台駅構内で手にした。

 2000年間の仙台平野の歴史津波の一覧表を提示される。その間なんと12回の津波があったと一つ一つを検証される。その事実から出された提案がある。だれも見向きもしなったというものである。

提案1 各地域の集落の中央部に避難することのできる鉄筋コンクリート三階以上のビルを建設すること。
提案2 海岸防潮林のチェックは完全でしょうか・・・?
提案3 仙台平野を流れる中小河川の河口よりの海には、さまざまな津波防災上の見直しを徹底する。
提案4 仙台湾岸の太平洋岸すべての海岸線に、津波防災上の諸施設の設置とその取付が必要になってきます。
提案5 少なくとも河口から内陸へ5~6kmまでの河川流域の堤防には立ち上がり1m程の壁の建造が要請されます。

 「大震災を経験した今、私たちが何千年も同じことを繰り返し、そしてすぐに忘却してしまうという悲しむべき事実におきづきでしょう。」歴史的な津波研究の紹介が出来る氏だからこその提案だったのだ。しかしながら現実に津波がおこった。その日何がおこったかを体験として章を立てて書かれる。

 「周辺の人に津波がくるからすぐに逃げなさいと大声で叫ぶのだが、みなぼんやりしている。強い地震で散乱した家財を片付けている人、余震でうっかり動くとかえって危ないと思った人もいるらしい。しかたなく私は車で高台にある友人の家を目指した。遮断機の下りた踏切も強硬突破せざるを得なかった。」そして次のように報告される。

 「二晩、高台にある友人の家に世話になった。その後、避難所にむかうことになるが、仙台市が指定した避難所ではなく、最も安全だと思われた宮城野区の高砂市民センターに向った。」ここで二ヶ月以上暮らすことになるが、臨時の避難所だという理由で、食糧、毛布等は正規の避難所の後だと言われ、館長は随分と奮闘された。「1200名の命は私が守る」と避難してきた人々にマイクで伝えた。彼は必死で応援物資の調達にあたった。そこは命を大切にしてくれる日本一の避難所だった。「同じ被災者なのに差別とか優先順位があっていいのか」

 次の言葉に茫然とし、耳を傾けなければ行けないと感じている長いが引用する。「私達の生き方がいま、根本的に問われている。私達が自分たちの意識を根源から変えることが今求められている。この限界を背負った惑星の中で生きているという自覚を持たない限り、王侯貴族のような生活を何十億もの人間がすることなど不可能であるとはっきり自覚する必要があるのだ。しかし、それは貧しい生活をするということでは全くない。贅沢三昧ではなく、自然に対しできるかぎりつましく、負担をかけないような繊細な感受性と、配慮に満ちた精神性をもつ必要性に迫られているのだ。どう考えても、それ以外に人類が選択できる道はないのである。」

 飯沼さんは、東北はまったく新たに最出発するだろうという。その精神を導くものは東北の詩人宮沢賢治の理想ではないかと。そして今もとめられているいのは、私達もまた、宮沢賢治のようにつましく、真摯に、ひたむきに、大地に頭をたれ、天の川の輝きに目をやり、一輪の花に無限の世界を想い、一匹の鳥にも愛を注ぐ、そういう生き方をするということではないだろうか、と語る。研究成果が生かされなかったことよりも、力になれなかった無念さが溢れている。ただこの震災に立ち向かう若い人たちに目を見張り、絶対に乗り切って行けるものを感じておられる。

(文:横須賀 健治)

 

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