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第一回 『ノーエ節』 庶民のしたたかさと時代感覚

by staff on 2010/5/10, 月曜日

関東学院発祥の地

 2010年4月下旬、桜の花が散り緑の葉が目にまぶしい季節に、横浜山手町にある元町公園に面した斉藤さんのご自宅に伺いました。斉藤さんのご自宅は関東学院の前身である横浜バプテスト神学校発祥の地にあり、昨年(2009年)関東学院創立125周年を記念して顕彰記念板が設置されています。斉藤さんが敷地の一部を設置場所に提供されたと伺って、「地域と共に歩む」活動をされている斉藤さんならではと感心いたしました。

 斉藤さんは横浜で生まれ育って、お父様が創立した横浜乾物株式会社の経営に携わってこられました。その傍らで横浜の歴史を長年研究されて、郷土史に関する講演や寄稿も数多くされています。またボランティアガイドの草分け「横浜シティガイド協会」の設立当初からのメンバーでもあり、横浜検定2級・鎌倉検定の資格もお持ちでいらっしゃいます。

歌でつづる横浜150年の世相史

 私も何度か斉藤さんの講演を伺ったことがありますが特に「歌でつづる横浜150年の世相史」は素晴らしく、ヨコハマNOWの開設にあたって、「横浜」の生活史をご紹介するには、これしかないと思い、ご多忙な斉藤さんに無理なお願いをしてご登場いただくことになりました。

  関東学院創立125周年記念板
創立125周年記念板。画像をクリックして拡大写真をご覧ください
 
斉藤秋造さん
斉藤秋造さん

 「歌は世につれ、世は歌につれ」と言いいますが、歌はその時代の世相を実によく映し出しています。これから横浜にまつわる流行歌を取り上げていただいて、その曲の時代背景を斉藤さんにお話ししていただきます。

 斉藤さんが作成された 『歌でつづる横浜の世相史』

日本最初の流行歌

 「横浜をテーマにした流行歌は500以上あると言われているんです。」と、優しい口調で斉藤さんは話し始めました。

 「その一番初めが『ノーエ節』なんです。『ノーエ節』は日本の流行歌のルーツでもあるのですよ。」

 斉藤さんにご用意いただいた純正 『ノーエ節』 のテープを聞かされて、私は思わず「エッ!これ学生時代に替え歌で歌っていましたよ」と叫んでしまいました。

『ノーエ節』 文久年間
(代官山節または野毛山節ともいわれる)

1. 代官山からノーエ
代官山からノーエ
代官サイサイ
山から異人館をみれば
ラシャメンと二人でノーエ
ラシャメンと二人でノーエ
ラシャメンサイサイ
抱えて 赤いズボン
  2. 代官山からノーエ
代官山からノーエ
代官サイサイ
山から蒸気船をみれば
太い煙突ノーエ
黒い煙りがノーエ
黒いサイサイ
煙りが 横に出てる
  3. 秋の演習はノーエ
秋の演習はノーエ
秋のサイサイ
演習は白黒二軍
白黒二軍はノーエ
白黒二軍はノーエ
白黒 サイサイ
二軍は 演習が終わる
4. 野毛の山からノーエ
野毛の山からノーエ
野毛のサイサイ
山から異人館を見れば
鉄砲かついでノーエ
鉄砲かついでノーエ
お鉄砲 サイサイ
かついで 小隊進め
  5. オッピキ ヒャラリコ ノーエ
オッピキ ヒャラリコ ノーエ
オッピキ サイサイ
ヒャラリコ 小隊進め
チーチー ガタガッテ ノーエ
チーチー ガタガッテ ノーエ
チーチーガ サイサイ
ガタガッテ 小隊進め

「そうなんです。この曲は日本各地に広がり、替え歌として今でも多くの方々に口ずさまれているんです。」
「この曲はどのようにして生まれたのですか。」

 『ノーエ節』 は、横浜直後の文久年間(1860年代)に庶民の間で自然発生的に生まれた歌です。横浜の野毛山(代官山)から眺めた外国人居留地の様子を風刺を込めて歌っています。

 ※横浜市西区のホームページで野毛山節の一部を聞くことができます。

ヨコハマドリームと生麦事件

 横浜は開港前は100戸足らずの半農半漁の寒村であったと言われています。

 1853年に、ペリーが浦賀に来航してから、海外列強の圧力に屈し、徳川幕府は1859年に横浜をはじめとして五か所を開港しましました。
わずか数カ月の突貫工事で、波止場や税関(運上所)が造られ、幕府は手回し良く遊郭まで用意したのです。運上所は今の神奈川県庁のところ、遊郭は横浜公園のところです。

 安政6年6月2日(1859年7月1日)の開港当日には早くもオランダ商船が一隻入港したと記録されています。

 そこから「ヨコハマドリーム」が始まりました。
海外から商人がやってくる、日本各地からも商人が集まってきて、横浜はあっと間に貿易港になりました。外国人はまず日本の生糸に目をつけたようです。品質も良く、価格も他国と比べて安いので、開港半年も過ぎたあたりから取引が急増していきます。

 そんな中起きたのが「生麦事件」です。開港3年目の文久2年(1862年)の夏のことです。東海道神奈川宿を馬で行く4人連れのイギリス人が生麦村に差しかかった時、薩摩藩の総勢400人の大名行列に出くわしたのです。東海道と行っても、道幅はせいぜい4~5mしかない、あぜ道に降りて行列をやり過ごすと言う交通ルールを知らない外国人です。行く手を阻まれた形となった薩摩藩士から「無礼者!」と太刀が振りかざされ、リチャードソンという若者が落馬し絶命しました。他の3人も負傷を負いながら、居留地に逃げ帰りました。

 横浜付近での外国人殺傷事件は、攘夷派の浪人たちによりたびたび起きていたのですが、この「生麦事件」がとどめを刺しました。

 首謀者すらあげられない徳川幕府の態度に業を煮やしてイギリスとフランスは、居留民保護と居留地防衛を名目で軍隊を派遣しました。弱体化していた幕府はこれを認めざるをえなかったのです。

 「生麦事件」の翌年、1863年(文久3年)にまずフランス海兵隊が、山手186番に駐屯を開始しました。現在の「フランス山」です。イギリス軍は1964年(文久4年)になって本格的な駐屯を開始しました。こちらは山手115番から山手116番、現在のイギリス館のあたりから岩崎博物館にかけての場所です。ここは「トワンテ山」と呼ばれていますが、駐屯したイギリス軍の第20連隊の「トゥエンティ」の発音に由来しているそうです。

 幕末から明治初期にかけて「港の見える丘公園」は、フランスとイギリスの軍事拠点だったのです。駐屯軍はその後、1875年(明治8年)に二カ国同時撤退するまで12年間、山手に留まっていました。両軍は明治維新の混乱の中、横浜市中警備だけでなく下関遠征など、さまざまな軍事行動を起こしています。

時代を面白おかしく歌う

 日本の流行歌のルーツといわれる 『ノーエ節』 が生まれたのは、ちょうどこの頃文久年間です。作者不詳のこの歌は、開港間もない居留地の様子を、横浜一の高台野毛山から眺めた様子を歌っています。庶民は華やかな居留地の様子を好奇心いっぱいに目を凝らして見ていたのです。

 居留地で目につき、庶民にとって興味の的と言えばまずはラシャメン。居留地の外国人の相手になった日本女性のことです。「港港に女あり」は時代や洋の東西を問わずどこでも同じでした。

 一番目の歌詞に出てくる赤いズボンはイギリス人でしょう。
イギリスは赤い軍服、フランスは青い軍服でしたから・・・。日本人女性と楽しそうに歩いているイギリス人をやっかみ半分で歌ったのです。

 『ノーエ節』 の二番は、沖に停泊中の蒸気船です。
蒸気船は、湾内や無風の時だけ蒸気の力で水車のようなスクリューを回して、外洋に出れば自然の風を受けて帆船になります。さしずめ今注目のハイブリッド船というところでしょうか。きっと庶民には驚異の乗り物に見えたのでしょう。

 歌詞には軍隊が行進をしている様子も歌われています。
行進することで軍事訓練と周囲への威嚇を兼ねていたのだと思いますが、庶民はそれに負けていませんでした。恐ろしいはずの駐屯兵の演習も、庶民の手にかかっては滑稽に見えていたのでしょうね。

 『ノーエ節』 には、幕府は頼りにならず自分たちで生き抜いていかなければならない状況でも、それを面白おかしく揶揄して歌にしてしまう庶民のしたたかさと気概が感じられます。
『ノーエ節』 のちょっと斜に構えた見方というのは、ハマッコの気質に通じるものがあるかもしれません。

ノーエって何?

 「なぜノーエなのかですって。いいことを聞いてくれました。」

 『ノーエ節』 の 「ノーエ」 は英語のNOとYESが詰まったものだと言われています。
ノーイエスが、ノーエス、ノーエに聞こえたのでしょう。初めて聞く英語を表現して 『ノーエ節』 という歌の名称になったのだと思います。
現代の私たちが本から覚えるカタカナ英語より、開港直後の横浜の人たちのほうがずっと生の英語に近いところにいたことになりますね。私たちよりもはるかに国際人だったのではないでしょうか。

日本事始めは山手から

外国人墓地に隣接する元町公園

外国人墓地に隣接する元町公園

 
 『ノーエ節』 についての斉藤さんのお話はつきません。

 横浜山手に外国人住宅が建てられたことにより、様々な西洋文化が持ち込まれました。
この地域から始まった、日本事始めは50を超えていると言われます。例えば新聞・馬車・ビール醸造・テニス・競馬・牛乳等などです。そして外国人の御用達として元町に、パン屋やクリーニング屋が開店されたのです。

 
 「今でも山手町には4000人の住人のうち15%(600人)は外国人なのですよ。」

 エリスマン邸のすぐそばにある、まさに外国人居留地であった斉藤さんのお宅で伺うお話は、時代の空気も一緒に味わえる横浜の歴史物語でした。

パロディの原点

 歌いやすいメロディーのせいか『ノーエ節』は、あっという間に全国に広がり、様々な替え歌になって現代まで唄い継がれています。私の出身大学でもそうでしたが替え歌のほとんどは風刺がきいている歌詞のようです。パロディ原点も 『ノーエ節』 にはあるのですね。

 『ノーエ節』 は、幕末から明治維新にかけての混乱と西洋文化の流入、そして庶民の生活感覚を感じとれる、横浜にとっても日本にとっても忘れてはならない大切な一曲なのだと思います。

これからいよいよ明治時代に入ります。
次回を御期待下さい。

参考サイト

 

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新横浜公園ランニングパークの紹介動画

 

ランニングが大好きで、月に150kmほど走っているというヨコハマNOW編集長の辰巳隆昭が、お気に入りの新横浜公園のランニングコースを紹介します。
(動画をみる)

横浜中華街 市場通りの夕景

 

横浜中華街は碁盤の目のように大小の路地がある。その中でも代表的な市場通りをビデオスナップ。中華街の雰囲気を味わって下さい。
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