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セカンドライフ列伝 第4回 アルチュール・ランボー

by staff on 2012/5/10, 木曜日

榎本技術士オフィス/榎本博康

第4回 アルチュール・ランボー

「酔いどれ船」に導かれた人生

 時に天才は歴史の進行に必要ですが、そのそばに居る人たちは振り回されて大変な苦労をする覚悟が必要でしょう。(蛇足ながら、この逆はほとんどの場合正しくはありません。)フランスの詩人、アルチュール・ランボー(1854.10.20~1891.11.10)は正にそのような天才ですが、早熟な彼は16歳で「酔いどれ船」を引っ提げてパリの詩壇にデビューし、20歳までに総ての詩作を終えて、以降はアフリカで武器商人としてのビジネスに賭け、そして37歳という若さでこの世を去ってしまいました。彼の詩人としての作品は、唯一自分で編纂した「ある地獄の季節」の他は、遺稿から編纂された「イリュミナシオン」、「詩篇」、その他の断片と少数であるにも関わらず、その後の芸術思潮に絶大な影響を及ぼしています。

 彼のがむしゃらで短い人生は、その前後で全く異なっているため、それが多くの議論を呼び、多くの研究者の興味を惹き、そして各論者がそれぞれの解釈を試みてきました。このような状態こそ、私の勝手な妄想で綴るセカンドライフ列伝に格好の題材であります。一応の史実には則りますが、どこまでが本当かは保証しかねます。なお詩作を論じることは手に余るので、触れないようにしています。

成績優秀な少年

 1852年にフレデリック・ランボー陸軍大尉は、任地近くのフランス北東部のシャルルヴィルで、近在のロッシュから出てきたヴィタリーを見初め、結婚しました。翌年に長男のフレデリック(父と同名)が誕生、しかし大尉は任地を転々として帰宅する度に子供をもうけるという具合で、1854年にアルチュール(今回の主役)、57年に妹(しかしすぐに死亡)、58年に妹ヴィタリー、60年に妹イザベルが生まれるが、この年に決定的に別居し、父不在のまま、教育熱心で厳格な母のもとで成長することとなりました。

 彼はロサ学院に入学し、65年春にシャルルヴィル高等中学校に転校しますが、模範的な優等生で数々の賞を得たとのことです。

第一の人生~家出常習者から詩人へ

 ランボー15歳の1870年の1月にジョルジュ・イバンサール(21歳)が修辞学級教師として赴任し、一種の友情で結ばれます。そしてこの前年頃から詩の投稿を始め、幾つか掲載され、そしてぐれ始めるのです。男の子というものは、どうしてもそのような時期が必要なのですが、彼の行動力はけた外れでした。8月の末ごろに家出をしてパリに向かうものの、無賃乗車で逮捕という無鉄砲さでした。その間にナポレオンⅢ世はプロシアに敗戦し、フランスは第三共和制が布告されます。

 とても彼の全部の家出は書ききれませんが、1871年2月に汽車で再びパリに行き、金がないのでゴミ箱をあさる困窮の果てに、3月には250kmを徒歩で帰宅します。この3月18日にパリコミューンの成立が宣言されます。プロシアに屈服した政府への反抗と、労働条件の改善などを目指すものですが、ランボーはこの運動に共鳴し、参加しようとしたようです。しかしパリでは5月21日から「血の週間」での弾圧があり、多くのコミューン参加者が射殺、処刑、流刑にされたのです。彼が生活資金を持っていなことが幸いしました。しかもこの5月に今日では「見者の書」と呼ばれる2通の書簡を、教師のイバンサールと、若手詩人のドメニーに出しており、そこで自らの詩作のありかたを論じているので、ランボー研究の重要な資料となっています。イバンサールには、「あなたは新しい詩作については私の教師ではないから、この手紙に添削をするな。」という意味の高飛車な言い方をしています。このくらいの生徒がいると先生は幸せなのですが、なかなか。またこの頃の詩作ノートは友人に託されて、現在の我々に伝わっています。

 彼は「高踏派」の詩に感化され、ヴェルレーヌ(あの「秋風のヴィオロンの~」とか、「巷に雨の降るごとく~」で有名な)にコンタクトをとりたいと思いつつ、躊躇する日々が続いていたのですが、ついに9月に彼の詩を何篇か同封した手紙を出しました。すぐにヴェルレーヌはパリに来るようにと提案し、彼は「酔いどれ船」を携えて上京します。すぐに高踏派の夕食会でそれを朗誦し、絶賛されました。この時、ランボー16歳、ヴェルレーヌは27歳ながらかなり禿かかっていた。

 しかしヴェルレーヌと同性愛の仲となり、またランボーの乱暴な言動はパリ詩壇での孤立をまねいていました。そこで72年の9月にふたりでロンドンに住むのですが、その生活資金は親がかりのヴェルレーヌにさらにぶら下がるという不安定なものでした。この後、ヴェルレーヌは妻のマチルドとランボーの間で揺れ、何度も別れては共同生活を復活させるという、軟弱な態度を続けるのでした。だいたい、奥様方は亭主にできた女には対抗できますが、男色には自らの女を持ってしては対抗できません。もう訴えてやるとの修羅場で、財産分離請求など熾烈になりました。

 そして73年の7月10日、ヴェルレーヌは拳銃を買い、散々に酔っぱらった挙句にランボーを撃って左手に負傷させたのでした。ヴェルレーヌは逮捕され、懲役2年の刑に。
ランボーは8月にロッシュに帰り、「地獄の季節」を完成させて、ベルギーのブリュッセル(パリより近い)の印刷所に前金(母が出してくれた)を渡して500部を注文しました。しかし残りの金が払えずに見本刷りだけを手に入れて、友人たちに配ります。(残りは1901年にそのままの梱包で発見される。)

 1874年3月にパリに行き、今度は詩人ヌーヴォーとロンドンに行き、「イリミュナシオン」の清書を終えます。ヌーヴォーが帰国すると生活力の無いランボーはたちまちに困窮し、母にシャルルヴィルに連れ戻してもらいました。放浪力100点、生活力0点で、20歳になりました。

 そして1875年の3月に、刑期を早く終えたヴェルレーヌとシュトットガルト(ドイツ)で再開し、「イリュミナシオン」の原稿を託します。それはノートの切れ端など、いろいろな紙に書かれた束だったとのことです。

混乱の端境期

 1876年5月にブリュッセルで募兵業者にだまされてオランダの植民地部隊に入隊し、船でインドネシアに送られます。すると彼は現地で脱走して、偽名でスコットランド船に雇われて、アイルランド経由で帰国します。無銭旅行かつ家出常習犯の真骨頂でしょうか。翌年は自分がひっかかった募兵係の仕事をしたり、サーカスの従業員をしたりでしたが、秋には念願のアレクサンドリア(エジプト)行の船に乗ったものの、残念ながら病気で故郷に戻ってきました。78年は10月に徒歩でスイスを横切り、イタリアのジェノバから船でキプロスに行き、石切り場の現場監督として働きます。初めて比較的長期の仕事ができました。時に24歳。現代の母なら、やっと息子がフリーター生活から脱出したと泣いて喜ぶ場面ですが、彼の母は神の如く冷徹にフランスから見守るだけだったでしょう。しかし翌年の5月に腸チフスに罹り、フランスに帰ります。またも残念。

 フランスやイギリスで仕事に就けない彼は、ヨーローッパ人の少ない外国では働き場があることが、この足踏みの5年程度の中ではっきりしてきたのでしょう。それからは、彼が「ある地獄の季節」や「イリュミナシオン」で描いた遠い外国の幻影の中に、実際に飛び込んで行くことになります。彼の詩は、自らの死までの軌跡をあらかじめ描きつくしていたと見ることもできます。

 

第二の人生、ハラルの武器商人

 1880年には再びキプロスでイギリス総督の官邸建設の作業班長をするのですが、6月にはもう辞表を出してアフリカに出発します。実は労働者殺害により、居られなくなったとの説があります。紅海の港アデン(アラビア半島側のイエメン)に着きますが、アデンの市街は海に半島状にせり出した死火山のクレーターを利用した天然の要塞都市です。そこでバルデー商会の代理店として雇われ、東アフリカのアビシニア(現在のエチオピア)の内陸の町、ハラルの支店に配属されました。そこは5つの門を持つ城塞都市であり、当時でも4万人弱、現在は12万人が住む要地です。ランボーの暮らした家は、ランボー・ハウスと呼ばれて現存しているそうです。

 海岸から砂漠を通って、20日の苦しい道のりで12月に着任するのですが、1881年初めにはさっそく梅毒に罹ります。また待遇の不満で辞表を出すのですが、アデンに戻ってバルデー商会でしばらく働き、83年3月に2年契約で、今度は支店長として昇給してハラルに着任します。ところがアビシニアの政情が悪化し、84年3月に支店を閉めてアデンに退避し、この時期ハラルから連れてきたすらりとしたアビシニア女性と暮らすのでした。私としては親戚でもないのに、ほっとしております。一時の凪のような生活だったのでしょうか。要するに、かのクレオパトラも上ナイル出身、つまりアビシニア美人の系譜と言われており、世界の美人の産地ということになっております。真贋のほどを確かめにぜひ行きたいものです。(うんちくの部~クレオパトラのプトレマイオス朝はマケドニア人(ギリシャ北部)としての純潔を保っていたのですが、実際にはアフリカの混血にもなっていたとのこと。ランボーの彼女は色白であって、彼はフランス語を教えようとしていたとか。)

 さて「酔いどれ船」に乗り続けて旅をするランボーは、85年にバルデー商会を辞めて武器輸出でひと財産を作ると決め、ショア(エチオピア南部地域)の貿易商ラパチョと契約をしました。武器を当時有力であった、メネリク王に売るために、ショアまで運ぶ仕事です。フランス政府の武器輸出禁止令にもかかわらず、86年にランボーは例外的許可を得ます。ところがパートナーのラパチョが病気で死亡し、代わりにソレイユと組むものの、彼も急死してしまいました。10月にランボーはひとりで2万4千丁の小銃と、6万個の弾薬を満載した隊商を率いて海岸の町タジューラ(ジプチ)を出発する体制を整えます。100頭のラクダを率いる大キャラバンで、広大な砂漠や危険な部族の地域を通過して高地に至る、2か月に及ぶ大旅行でした。87年2月に荷を届けるが、足元を見られて安値を強要され、さらに死んだラパチュの負債の返済を迫られます。代金は手形で支払われ、マサウアー(紅海沿岸の現在のエリトニア国の市、当時はイタリアが実効支配。1991年に独立)で手こずりながらやっと換金ができました。家族への手紙には、「僕の髪の毛は完全に灰色です。」と書きました。彼は若くして老いを感じ始めていたのです。

 88年は懲りずに再びショアまで武器の隊商を送ろうとするのですが、今度は許可が出ません。フランス人、ティアンの出資でハラルに貿易代理店を設けて赴任します。織物や日常雑貨、装飾品などを扱いましたが、4千個のシチュー鍋が売れずに彼を苦しめました。生活習慣が違うからです。89年にヨハネス皇帝が戦闘で負傷して死亡すると、ショアの王メネリク(ソロモン王朝系)がアビシニア皇帝となりました。彼の願望は成就したのです。そして続く第一次アビシニア戦争で、イタリアの侵略に対するアビシニアの独立を確保しました。ランボーの運んだ火器がこのアフリカ最古の独立国、1270年以来の帝政を守るのに一役も二役も買ったのでしょう。相当に残酷な戦争だったようです。

旅の終わりに

 1891年の初めに、ランボーの右足に激痛が走りました。3月には歩くこともできなくなり、治療のためにアデン行きを決めます。担架に乗せられて、300kmもの道程をゼイラー(ソマリア)まで下りて行き、船でアデンに行って診察をうけました。膝のガンでした。5月にフランスに向かいます。マルセイユのコンセプシオン病院で診察を受け、右足を切断しました。そしてロシュに帰ります。しかしランボーの旅への想いは絶ち難く、アデンを目指してマルセイユに戻り、病状の悪化で再びコンセプシオン病院に入院するのでした。この間、ずっと妹のイザベルが付き添っていました。次のアデン行の船に乗せてくれるように懇願した翌日、11月10日に37歳で永眠しました。

中原中也としての再生

 ランボーの生涯を追っていくと、その言動に圧倒され、凡人は疲れ果ててしまうでしょう。詩作については、「酔いどれ船」を頂点とする新しい韻文詩から、「ある地獄の季節」以降の散文詩へと劇的な進化を遂げたのですが、その荒々しくも猥雑で崇高な原初の風景を予見する想像力からは、もう全ての世界の事物を見てしまったもののようです。20歳までに彼が想像したいものを想像し尽くしたランボーは、彼の想像の実像をアラブやアフリカに求めたのでしょうか。彼のアフリカ書簡に風景等の描写が乏しいのは、既に書いてしまったことなので、必要がなかったという考えもありますが、元々詩と考えられていたものから限りなく遠くに行こうとする彼自身の流れからは、当然のことかもしれません。

 1886年8月の手紙1)で、「たぶんぼくはザンジバルに行きます。そこからアフリカをずっと奥まで旅することができます。それからたぶん、中国か、日本か、どこへ行くかはわかりません。」と極東への想いを述べています。また1876年のインドネシア行の前に、キリスト教団の修道士に志願して、日本に渡ることを考えていたとも言われています。彼は宗教を否定していたからこそ、単なる乗り物として教団を使う発想があり得たのでしょう。もしも彼が日本に来ることができたら、彼の想像以上のことを見ることができたでしょうか。

 そこでランボーは中原中也(1907~1937)を通じて来日しました。中也は東京外国語学校(現在の東京外国語大学)の仏語部で学び、「在りし日の歌」などの自作の他、3冊のランボオ(中也はこう書く)詩集を残しました。私は彼の出身地である山口県湯田温泉の中原中也記念館を訪問したことがありますが、彼の少年時代の成績は「優」しかなかった。しかし後にややぐれたこと、そして33歳で早世したことなど、酷似しています。彼の有名な写真、山高帽子、長髪、マントでランボーを気取っていると言われていますが、18歳の詩人としてのデビューの意気込みともとれます。彼が訳した「酔ひどれ船」を青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/cards/001296/card47296.html)で楽しむことができます。

参考文献
1. ジャン=リュック・ステンメッツ著、加藤京二郎他訳:アルチュール・ランバオー伝、水声社、1999
2. 湯浅博雄:ランボー論<新しい韻文詩>から<地獄の一季節>へ、思潮社、1999
3. 鈴木創士訳:ランボー全詩集、河出書房新社、2010

(2012.4.30 榎本博康)

榎本博康(えのもとひろやす) プロフィール

榎本博康(えのもとひろやす)  

榎本技術士オフィス所長、日本技術士会会員、NPO法人ITプロ技術者機構副会長

日立の電力事業本部系企業に設計、研究として30年少々勤務し、2002年から技術士事務所を横浜に開設して今日に至る。技術系では事故解析や技術評価等に従事する一方で、長年の東京都中小企業振興公社での業務経験を活かした企業支援を実施。著作は「あの会社はどうして伸びた、今から始めるIT経営」(経済産業調査会)等がある。趣味の一つはマラソンであり、その知見を活かした「走り読み文学探訪」という小説類をランニングの視点から描いたエッセイ集を上梓。所属学協会多数。

 

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