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セカンドライフ列伝 第5回 ジョアキーノ・ロッシーニ

by staff on 2012/7/10, 火曜日

榎本技術士オフィス/榎本博康

第5回 ジョアキーノ・ロッシーニ

音楽と料理の天才であることを楽しんだ男

ジョアキーノ・ロッシーニ

ロッシーニ
(水谷彰良著「ロッシーニと料理」から)

 

 前回は37歳で早世した詩人、アルチュール・ランボーでしたが、今回は37歳で楽檀から退いて、残りの人生をもうひとつの天分である料理にささげたイタリアのオペラ作曲家、ジョアキーノ・ロッシーニ(1792~1868)です。ところがその人生、そんな簡単なお話ではないようです。

 私の頃の高校入試(都立でしたが)は何と9科目で、マイナー科目もこなさなければいけません。音楽では作曲家と作品名を結びつける問題がよく出されましたが、確かモーツァルトは「フィガロの結婚」、ベートーヴェンは「運命」、そしてロッシーニは「セビリアの理髪師」を覚えておけば大丈夫だったと思います。しかし実は全く聴いたことがなくて、単に知識として、ロッシーニは

聴衆受けの良いオペラを量産し、大儲けをしたように教えられていました。でもでっぷりとした肖像画からは、なぜか憎めないような人物が見えてきます。この機会にその実像に迫ってみたいと思います。

 なおいつも申しあげますが、一応は史実を踏まえつつ、私の妄想で勝手な解釈がされていますのでご注意ください。

悪童時代

 1792年の2月29日という貴重な日に、ジョアキーノはジョゼッペ・ロッシーニとアンナ・ダイダリーニとの息子として、イタリア中央部(長靴のふくらはぎあたり)のアドリア海沿岸(朝日が海から上る側)のペーザロで生まれました。父は市立楽団のホルン奏者であり、パン屋の娘で美貌のアンナは結婚の時は既に身重でした。

 1789年のフランス革命の後、やがてジャコバン派が権力を握り、父のジョゼッペはジャコバン親派として政治活動に身を置いたのです。1797年(ジョアキーノ5歳)にナポレオン軍がイタリア遠征の中でペーザロに入り、それに協力した父は、一時的に返り咲いた旧政府によって市職員をくびにされました。失業者の父に代わり、ここで母のアンナが素人ながら美声と美貌を活かした歌手活動に入ります。そこで母がプリマドンナ(主役女性歌手)、父が付録で楽団のホルン吹きという形での巡業が始まりました。この時代背景として、イタリアには多くの小劇場が各所にあって、その聴衆も一般市民から農民にまで拡大していたということがありました。この娯楽が大衆化していく過程こそが、時代の変革と彼らの家計に結びついていくのです。

 しかし両親不在が続く中で、当然のようにジョアキーノはいたずらに走り、教会のワインを飲んでしまうなど、将来のグルメの片鱗を見せていました。モーツアルトは神童だったが、ロッシーニは悪童だったとか。父はとうとう監獄に入れられてしまいますが、1800年(8歳)にナポレオンが再度イタリアに遠征すると、政治犯の恩赦があり、父ジョゼッペもその恩恵にあずかったのでした。両親と共にイタリア北部内陸のボローニャに移り住みますが、両親の巡業中には豚肉屋にあずけられました。あのボローニャソーセージ(スモークソーセージ)の産地です。豚肉屋の手伝いをしたことが、彼が美食家になる天分を開花させたのです。

作曲家への開花

 さらに10歳(1802年)の時にルーゴ(内陸のボローニャより50km程度東)に移りますが、依然として悪童であったジョアキーノは、ここで初めて本格的な音楽の教育を受けます。一家が交際したマレルビは優れた音楽家であり、ドイツ音楽の卓越性を認めて、モーツアルトなどの楽譜を収集していました。ここでチェンバロと歌を習ったといいます。若くしてドイツ音楽を学んだことは重要であり、彼が将来活躍するための基盤となりました。彼のより重要な方の天分がついにここで開花したのです。翌年には作曲を始めると貴族から作曲依頼を受け、12歳で「六つの四重奏ソナタ」を作りました。一体いつ作曲の勉強をしたのでしょうか、天才の経歴には何も書かれていません。

 この頃母のアンナは自分の歌唱の衰えを感じ始めており、早くジョアキーノが稼げるようにしたいと考えていました。ジョアキーノは14歳でボローニャ音楽院に入学し、器楽演奏、歌唱、そして対位法などの作曲技法を学びました。在学中も作品を生み出していましたが、18歳(1810年)で学院を中退し、オペラ「結婚手形」をヴェネツイアの劇場で初演します。ここにオペラ作曲家としてのスタートを切ったのでした。

第一の人生~イタリア地方時代

 さて、既に1804年にナポレオンが皇帝となり、時は第一帝政時代(~1914)。ジョアキーノは、この章からはロッシーニと呼ぶことにしますが、若くて才気にあふれ、母の美貌の影響もあり、またマレルビから音楽と共に学んだ機知やユーモアのセンスもあって、要するに女性にもてもてだったそうです。それもミドルティーンの頃からですが、第三の天分の話は極力控えたいと思います。彼はこれから37歳で「ウィリアム・テル」を作曲するまで、20年足らずで39作のオペラを書きあげるのですが、まだこの時期はベネチアやミラーノを中心とした、イタリア北部地方での活躍でした。

第一の人生~イタリア中央時代

 ナポレオンが1814年にエルバ島に流され、復古王政の時代になります。ここで1815年の夏に、ナポリのサン・カルロ劇場の辣腕支配人、ドメニコ・バルバーイアが23歳のロッシーニを招へいしました。この劇場は当時のイタリアとして最高のオーケストラ、最高の歌手、訓練の行き届いた合唱団があり、ついでに賭博場もあるというもので、それらを活かす最高のオペラ作曲家としてロッシーニを招いたのでした。これが彼のイタリアの中心であるナポリやローマを中心とする時期の始まりでした。期待にたがわず最高のプリマドンナ、イザベラ・コルブランを得て「イギリスの女王エリザベッタ」を成功させます。そして1816年に「セビリアの理髪師」をローマで初演しました。初日はヤジで散々、二日目は絶賛であったといいます。この後も常に成功と失敗の繰り返しでしたが、いつかは分かってもらえるさと、聴衆を信じていたそうです。

 彼は一般に「セビリアの理髪師」のようなオペラ・ブッファ(喜歌劇)の作曲家のように思われていますが、実はオペラ・セリア(正歌劇)の方が多いのです。それは劇場支配人バルバーイアがブッファに親しんだナポリの人々にセリアの魅力を分かってもらおうと、ロッシーニで仕掛けたという面があり、またロッシーニも、当時は歌手がその名人芸で自由にアリアを歌うことが良しとされていたところ、作曲家の譜面通りに歌わせるという画期的な試みを成功させて、やがてウィーン、パリに持ち込むイタリア流を洗練させていったのでした。当時は歌手、特にプリマドンナや去勢歌手(カストラート)の報酬が最も高くて、作曲家はその十分の一、台本作者に至ってはさらにその十分の一であり、その頃の歌手を意の通りに従わせるのは並大抵のことでは無かったはずです。

第一の人生~結婚とウィーン進出

 30歳(1822年)であの、7歳年上で奔放なイザベラ・コルブランと結婚しました。彼女はプリマドンナとしての声の衰えの自覚と父の死による将来への不安、ロッシーニはいつ転落するか分からない作曲家稼業ゆえのイザベラの持参金(別荘とシチリアの広大な土地)への魅力が相思相愛になったと、これは同時代で彼の伝記を書いたスタンダールの説です。確かにロッシーニはナポリで最初に会って以来、折に触れて彼女にモーションをかけ、またオペラへの起用もしているのですが、何と言っても女出入りの激しいロッシーニ、まさか彼らが結婚とは誰も思っていませんでした。

 ふたりはそのままウィーン入りしました。この初のイタリア以外での上演で大喝采を受ける一方、この前年に「魔弾の射手」の初演をしたウェ-バーら地元作曲家達からは大きな嫉妬を買ってしまいました。そんな中でもドイツ音楽を尊敬していたロッシーニは、その頂点であるベートーヴェンを訪問しました。彼の粗末な部屋で、「オペラ・ブッファ(喜歌劇)こそが君の天分だ、ほかのものを書いてはいけません。」という主旨のことを言われたそうです。ベートーヴェンは「セビリアの理髪師」を高く評価していたのですが、ロッシーニはオペラ・セリア(正歌劇)の方を評価して欲しかったので、その意味ではすれ違いでした。いずれにしろイタリアから全欧への道筋を、ウィーンで確実にしたのです。

第一の人生~さらにパリ時代

 1823年(31歳)の公演で、いわゆる「イタリア時代」を終えました。そしてロンドン国立劇場の招きでイギリスに向かいました。経由地のパリでは、当地の社交界から大歓迎されたそうです。

 イギリスではジョージ四世に謁見し、これからと言うときに興行主が破産して逃亡。でもこれはロッシーニには幸いでした。翌1824年(32歳)にパリで居を構え、イタリア座の支配人となりました。何と言っても花の都パリ、ヨーロッパはここが文化の頂点であり、彼はイタリアオペラ興業の拠点を得たのです。ここでロッシーニはベルカント唱法(イタリアオペラにおける理想的な歌唱方法)を興業的に確立できたのでした。

 1825年はルイ18世の跡を継いたシャルル十世の戴冠祝賀のための「ランスへの旅」を初演しますが、この曲はランスでの戴冠を祝うばかりではなく、欧州すべての国歌を挿入し、また当時パリに居た優秀なベルカント歌手達のショーウィンドーでもありました。つまりヨーロッパの全ての王を後ろ盾とし、彼が必要とする全ての歌手を手元に置くと言う、ロッシーニ自身の戴冠でもあったのです。

 翌年2月、イギリスに向かう途中の、痩せ細ったウェーバーの訪問を受けました。ベートーヴェンばかりではなく、彼もまた赤貧であり、天敵のロッシーニにジョージ四世への紹介状を頼みに来たのでした。しかし彼はそれを活かすことができません。この数か月後に死を迎えたのです。一方のロッシーニは国王付の首席作曲家、フランスの声楽総監督に任命され、莫大な年俸を約束されました。

 しかし1827年2月に母のアンナが亡くなりました。これはロッシーニにとって大きな打撃でした。

 37歳(1829年)で、ついに頂点であるパリのオペラ座(オペラ座の怪人で有名な、ガルニエ宮以前のもの)と2年毎に新作を発表する契約をし、オペラ・セリアの傑作「ウィリアム・テル」を初演しました。しかし自分でも意図しなかった、これがロッシーニ最後のオペラとなったのです。

  パリのオペラ座

パリのオペラ座

第二の人生~美食家

 まずグルメの話をしましょう。第二の人生のロッシーニがレストランを経営し、自分の養豚場を持っていたとの話には、今回は裏付けがとれなかったので触れないこととします。(他はすべて裏付けがあるという意味ではありません。)またロッシーニを題材とした小話やジョークが大うけしたので、虚々(実の部分はゼロ?)入り乱れた情報があり、当時新聞の通信員であった詩人のハイネの記事も大衆受けを狙ったように思えます。ロッシーニは社交界プチ情報の便利な題材であり、いじりたい放題でした。

 ロッシーニがグルメであったのは確かで、自分の料理人を持ち、彼のサロンでは一流の食事を提供し、料理の素材やワインも気に入ったものを取り寄せていました。でもここまでは当時の並みの資産家であれば、誰もがしていることでした。

 ここからが違います。ロッシーニが自ら料理をしたのは事実らしく、彼の名の入ったレシピが幾つもあるそうです。フォアグラとトリフェ、そしてマカロニが好物だったようで、その典型が、「注入したマカロニ、ロッシ-ニ風」です。「本場ナポリ産のマカロニをゆでる。フォアグラ、トリフェ、ヨークハムのクリームをペシャメル・ソース(牛乳で作る白いソース)で滑らかにした詰め物を用意する。それを銀の注入器を使って、マカロニの穴に一本づつ詰め、皿に並べて、グラタンにする。」しかしこれはフランス料理に残りませんでした。残ったのは「トルヌード・ロッシーニ(ロッシーニ風牛ヒレ肉のフォアグラ添え)」だけだそうです。しかも文献1)によれば、彼の料理は「脂っこく、味は複雑で、非常に塩辛い。決して美味しいものではない。外見はフランス料理でも、その裏にはロマーニャ地方(要するにボローニャ)の強い郷土臭がある」との酷評(もしくは正当な評価)であります。事前に調べて、料理人が担当する日だけに訪問すべきようです。

第二の人生~オリンピアとの出会い

 1830年に7月革命が起こると、王政復古のシャルル十世(ブルボン朝)は亡命し、ブルジョワ階級が押すルイ・フィリップ(オルレアン朝)が王位につきました。旧権力に属するとみなされたロッシーニは安全のためスペインに旅行しました。

 このスペインで、理髪師ならぬセビリアの司祭フェルナンド・パレーラからの依頼で「スターバト・マーテル(悲しみの聖母)」を書き始めました。でも健康がすぐれず、未完成のまま翌年パリに戻りました。治安が回復すれば、パリの方が医療は優れています。

 1832年(40歳)にバルザックと共に食事をしました。バルザックは丁度売り出し中であり、有名人ロッシーニとの会食は彼の箔付けに有効でした。この大食い(ロッシーニはグルメだが、バルザックは単なる大食い)達のウィットの攻防戦はいかばかりであったかと思うのですが、バルザックはひとりの女性を伴っていました。オランプ・ペリシエです。久しぶりのパリで女日照りだったロッシーニは、彼女とどこかで会ったことがあるとの強い既視感にとらわれて興味を持ち、のちに同棲し、イザベラと離婚の後に結婚することになるのです。オランプは伝統的なあの業界の出身者であり、ロッシーニが1823年にロンドンに行く途中で初めてパリを訪れ、社交界から大歓迎を受けた席で出会っていたのでした。世間は狭いのか、赤い糸は強いのか。肥満で病気のデパートだったロッシーニが長寿を得たのは、彼を献身的に支えたオランプによるものと断言して誤りません。

 ロッシーニはすぐにオリンピア、イタリア風にこのように呼んだそうですが、彼女に1曲のカンタータを捧げました。一方「スターバト・マーテル」は筆が進まず、友人に未完成部分を補ってもらって<合作>としてパレーラ司祭に送りました。門外不出との条件付きです。

第二の人生~金曜の音楽会

 45歳(1837年)になったロッシーニはオリンピアとボローニャで同棲を始め、年末にはミラーノに移転し、「金曜の音楽会」を始めて評判となりました。オリンピアはこの会の采配を見事にとっていて、ミラーノ在住の全ての音楽家がここでの演奏を望みました。当時スイスに居たフランツ・リストも同棲中の女性を伴って出席し、ロッシーニの曲をピアノで演奏したとのことです。ちなみにリストは当時もてもてのアイドルで、ピアノと共に女体を奏でることも極めて達者であったとか。

 1839年(47歳)に父が亡くなりました。ボローニャに戻り、音楽院の名誉顧問となるのですが、その役職名のような飾りではなくて、音楽の教育改革に意欲的に取り組み、その熱心さはパリ時代の比ではなかったとのことです。

 ここで事件が。例の「スターバト・マーテル」依頼主のパレーラ司祭が亡くなりました。その遺産が貧しい人々への施しとなる中で、この楽譜を出版社が手に入れて、その出版予告の手紙が来たのでした。これは門外不出の条件を知らない出版社にとっては正当なことですが、ロッシーニは、それは困ると考えました。それでどうしたかというと、友人の分を自分で書いて、100%ロッシーニ版を完成し、別の出版社から出したのです。これは1842年にパリで初演されると大評判となり、他の都市でも続々と演奏されました。一般の日本人は何とも感じないことですが、宗教音楽として書かれた曲を、誰も教会で演奏しなかったのは、とんでもないことなのです。

 53歳(1845年)の時にイザベラが亡くなりました。名目としての妻の座は堅持していたので、翌年にオリンピアと結婚します。1848年に第一次イタリア解放戦争が始まると、反動とみなされたロッシーニはボローニャを捨ててフィレンツェに逃げました。そしてパリでは2月革命があって第二共和政となり、やがて1852年からナポレオンⅢ世の第二帝政の時代になります。

第二の人生~土曜の夕べの集い

 1855年(63歳)に政情が安定したと見てパリに移住し、生涯フランスに留まりました。そして1858年(66歳)から「土曜の夕べの集い」が始まり、パリの社交界のひとつの軸を形成するのです。そんな頃の1860年(68歳)にワーグナーの訪問を受けました。ワーグナーはロッシーニをオペラ・セリアの作曲家として評価し、彼はついに理解されたと、大いに満足したとのことです。

 このワーグナーのロッシーニ訪問は成功して、同年にイアリア座で3回も自作の演奏会を開くことができました。翌年にはオペラ座に進出です。一方ロッシーニも創作意欲が戻り、72歳(1864年)で「小荘厳ミサ曲」(「小」と言っても演奏に90分以上かかりますが)を内輪の集まりで初演しました。2台のピアノとハルモニウム(足踏みのオルガン)および4人のソロと合唱という構成は、歌声を知り尽くしたロッシーニの真骨頂との評価もあり、宗教曲っぽくない、世俗に生きたロッシーニらしい所も多々あります。これは始めから教会で演奏されないことを意図した世界初の宗教曲と言われています。彼の「スターバト・マーテル」は教会からはみ出してしまいましたが、ここに至ってきっぱりと出てしまったのです。

 76歳(1868年)の9月に最後の「土曜の夕べの集い」を開き、11月にジョアキーノ・ロッシーニは没しました。臨終の床では、その口から聖母マリア、妻オリンピア、そして母アンナへの呼びかけがあったといいます。そして葬儀では、彼自身の「スターバト・マーテル」で送られました。

なぜオペラを止めたのか

 時代が変わり、自分のオペラが過去のものとなったと感じたのが最大の理由と思われます。政治的な変動の結果、観衆に新興ブルジョア階級が増え、さらにスペインで不在の間に、パリでは面白おかしくスペクタクルに満ちたウジューヌ・スクリープ台本、ジャコモ・マイアベーア作曲のコンビが興業的に大成功を収めていました。決して彼の才能が枯渇したからではないことは、晩年の作品から明確です。

 ロッシーニの音楽は彼の聴衆を魅了しましたが、彼の料理は自分向けであって、実は近所迷惑であったのかもしれません。ただグルメとしての実像と虚像が、当時の人々に愛されたことは間違いないようです。

悪童ではなくて、実は神の子

 ジョアキーノの母アンナは既に身ごもっている所を、人のいいジョゼッペが押し付けられたとの説があります。もしもそうであれば、母はジョアキーノにとっては聖母マリアであり、父はヨセフに他なりません。正に父の名前であるジョゼッペ(Giuseppe)はヨセフ(Joseph)のイタリア語読みであり、欧米の皆さんは、この父の名前だけで全てを理解していたのでしょう。

参考文献
1. マリオ・ニコラーオ著、小畑恒夫訳:ロッシーニ 仮面の男、音楽之友社、1992
2. フランシス・トイ著、加納泰訳:ロッシーニ 生涯と芸術、音楽之友社、1970
3. 水谷彰良著:ロッシーニと料理〔新版〕、透土社、2000
4. スタンダール著、山辺雅彦訳:ロッシーニ伝、みすず書房、1992

(2012.6.30 榎本博康)

榎本博康(えのもとひろやす) プロフィール

榎本博康(えのもとひろやす)  

榎本技術士オフィス所長、日本技術士会会員、NPO法人ITプロ技術者機構副会長

日立の電力事業本部系企業に設計、研究として30年少々勤務し、2002年から技術士事務所を横浜に開設して今日に至る。技術系では事故解析や技術評価等に従事する一方で、長年の東京都中小企業振興公社での業務経験を活かした企業支援を実施。著作は「あの会社はどうして伸びた、今から始めるIT経営」(経済産業調査会)等がある。趣味の一つはマラソンであり、その知見を活かした「走り読み文学探訪」という小説類をランニングの視点から描いたエッセイ集を上梓。所属学協会多数。

 

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