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セカンドライフ列伝 第6回 グランマ・モーゼス

by staff on 2012/9/10, 月曜日

榎本技術士オフィス/榎本博康

第6回 グランマ・モーゼス

リハビリで米国の国民的な画家に

グランマ・モーゼス

出典:WIKIより

 

 アメリカの国民なら誰でも知っている国民的な画家がいました。発音の良い人からはグランドマア・モーゼス、私のレベルではグランマ・モーゼスと、親しみをもって呼ばれています。正式に呼べばアンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼスという、一人前としてはいささか長い名前です。彼女が本格的に絵筆をとったのは、75歳(1935年)であったといいます。しかもリューマチのリハビリが目的でした。

 娘のアンナ(同じ名前だ)は病弱で、70歳代の母アンナは孫の世話をしながら一緒に生活していました。娘アンナが母アンナに毛糸の刺繍絵を作ってほしいと頼むと、母アンナは自分でデザインし、鮮やかな色づかいで、沢山作ったといいます。ほどなく娘アンナは死去し、孫の世話を続けました。ところが慢性のリューマチがあって、刺繍の針を動かすことがつらくなってきたのです。

夜には手が歯痛のように痛みました。「家庭の医学」に書いてあった<松やにミルク>を三か月飲み続けると痛みは止まったのですが、関節はうまく動きませんでした。

 そんな頃に、妹のセレスティアが訪問してきて、「毛糸よりも筆で絵を描いてみたら。手に楽だし、ずっと簡単よ。」と運命の言葉を告げたのです。そこで亡くなった夫が使っていたペンキの残りと壁塗り用の刷毛を使って何枚かのペンキ絵を描いてみたのです。地域の祭りに「ジャム」と「絵」を出品したのですが、ジャムでしか賞はとれませんでした。

 でも描くことは楽しくて続けて、75歳で初めて油絵の道具を揃えました。それからすぐに有名になったのではありませんが、この時が画家グランマ・モーゼスの誕生と言われています。誰も生まれてすぐに歩くわけではありませんから、誕生が先なのは自然です。生涯に約1,600点の作品を残し、101歳で没しました。

 さて、今回も私の早合点と思い込みのセカンド・ライフにおつきあい下さい。第一部は主に彼女が自ら書いた自伝「マイ・ライフ・ヒストリー」(1952年、92歳)に依っています。

誕生と両親

 彼女は1860年(万延元年)7月にニューヨーク州グリニッチで生まれました。母はメアリー・シャナハン、父はラッセル・キング・ロバートソンで、この赤ん坊の名前がアンナ・メアリー・ロバートソンとなりました。蛇足ながら将来の夫の姓はモーゼスですが、こここでおまけの豆知識を。アンナは母の妹の名前だそうで、メアリー最初の女の子に二人とも自分の名前をつけたいと考えた結果、両方が入ったとのことです。このように何人分もの名前をつけられたことが、彼女の長寿の秘密の一つかもしれません。米国版の寿限無です。

 ニューヨーク市のグリニッチ・ストリートはマンハッタンのど真ん中ですが、この話のグリニッチはニューヨーク州でもワシントン郡、摩天楼の都会から2,3百キロメールも北の農村地域でした。10人兄弟の上から3番目で、兄弟がごちゃごちゃと楽しく育ったようです。厳格な父はののしりの言葉を禁じ、またトランプには悪魔がいるとして、見つければ無言でストーブにくべてしまうような人でした。アンナも腹が立つときはただ黙って「イシカビビル」と心の中で唱えるのだと、後年の自伝で言っています。(これは1913年頃に米国で突然はやったイディッシュ語もどきのスラングで、アンナは「悪魔に喰われるぞ」という意味らしいと書いていますが、「知るべきである」から転じて「知るもんか」という意味のようです。)父は農業と共に、亜麻布の工場を持っていました。しかし、ある日その工場が火事で焼けてしまいました。その時の鮮明な記憶が、将来の彼女に何点かの火事の絵を描かせたのだと思います。

 どうも画才は父にあったようで、子供たちに紙を与えて、絵を描くのを見るのが好きでしたが、自分でも部屋の壁を塗るときに、湖の風景を描き、子供たちも手伝ったのでした。アンナは子供時代に大きな嵐、雪に埋もれた冬、橇の旅、メープルシロップ作り、春の耕作、ローソクやせっけんづくりなど、豊かな思い出を蓄えたのです。学校はというと、その頃は夏に3ヶ月、冬に3ヶ月だけで、冬は寒いので女の子は余り行かなかったとか。家事や近所の手伝いの方が主だったのです。

第1の人生~12歳の門出

 12歳で家を出て、自分の食い分は自分で稼ぐために、

 

グランマ・モーゼス
Clemet C. Moore(詩)、Grandma Moses(絵):The Night Before Christmas, Universe社(2007)

グランマ・モーゼス
アンナ・M・R・モーゼス(著)、加藤恭子(訳):モーゼスおばあさんの絵の世界 田園生活100年の自伝、未来社(1983)

グランマ・モーゼス
グランマモーゼス 93歳 (自伝(未来社)中の写真)

近所の農家の手伝いになりました。魔女の宅急便のキキの13歳の旅立ちよりも早いのです。でも7歳で奉公に出されたおしんとは違って、このホワイトサイド家の老夫婦は自分たちの子供のようにかわいがってくれたようです。このような恵まれた人間関係が、彼女の財産になって行くのですが、それはアンナ自信が自ら築いてきたものでもあります。とはいえ使用人であり、アンナは一日三度の食事、洗濯、アイロン、バター作り、ジャム作り、花壇の世話、家事の全てを体の不自由な夫人に代わってこなしたのです。夫人が亡くなった後も、ホワイトサイド氏の世話をしましたが、おもてなしの料理には自信があって、来客はそれを目当てに来たと自負しています。

 やがてご主人の甥がその家と農場を継ぎ、彼女はイーグル・ブリッジのエブラハム・ヴァンデンベルグ夫人の家で働きました。ここでも自分の家のようにやさしくしてもらい、弟のアーサーもまた働き、また一緒に学校にも行かせてもらいました。このイーグル・ブリッジはやがてアンナの終生の土地となり、彼女の子供も、孫も、ひ孫も同じ学校に通うことになるのです。

第1の人生~結婚と南部での生活

 彼女のそのような生活は雇い主を変えながら続いていました。1886年(26歳)でシルヴェスター・ジェームス夫妻の家にはいった時に、同じ雇人のトーマス・サーモン・モーゼスと出会い、翌年に結婚するのです。彼女は彼が器用で働き者で堅実で控えめで倹約家であると、自伝に書きました。トーマスは決してアンナとは離れないと言い、その通りの人生を送ったのです。
 1887年9月に結婚を決めると、彼らは暖かい南部に行こうと決心しました。11月にアンナの実家を訪問して、出発の別れをしました。妹のサラは黄色い菊の花をくれました。霜が降りる前に摘んで、地下室に保存していたもので、彼女が手に入れられる唯一の餞別だったのです。弟のジョセフは馬車で彼らを汽車の駅まで送ってくれ、お礼に1ドル銀貨をもらったのですが、しあわせの硬貨と名付けて生涯大切に持っていたそうです。

 そしてフージック・フィールドのトーマス家に行って結婚式を挙げました。それから汽車に乗って、ニューヨーク経由、ワシントンDC経由でその約150km南西のヴァージニア州スタウントン(訳書の表記通り)に行きました。目的地はノースカロライナ州ですが、スタンウントンが気に入ったので数泊しようと考えたのです。そこは南北に長い広大な盆地で、思い切って日本に例えると、福島県郡山のような地形です。最初に紹介されたホテルが不潔に思われたので、路上で出会った少年に教えてもらったホテルに入りました。そこでさらに南に行くと言う話をすると、皆に大反対をされて、そこの百エーカー位の小さな農場を紹介され、家具・猫つきの居ぬきで借りることになったのです。百エーカーは真四角とすれば、約630m四方です。彼らは牛馬鶏を手に入れ、春に向けて準備をしました。年が明けて雨が降り続きましたが、故郷のニューヨーク州では空前の大豪雪だったのです。

 南部は言葉が違います。トーマスがイブニングに来いと言われて夕方まで待っていると、相手の方がやってきて、何で来ないんだと文句を言われました。南部でイブニングは午後という意味だそうです。そんな苦労もありはしましたが、よき隣人に恵まれ、ミルクも多くとれるようになったので、バターを作りました。トーマスが町に売りに行くと、ヤンキー(北部人)の作ったものを試してみようと、1ポンド12セントで買ってくれたのですが、数日後ありったけもってこい、20セントで買おうとなったのです。秋になるころには2頭の乳牛の元をとってしまいました。ジャムづくりのための砂糖も買えたのです。わずか1年での成功です。

 すると6百エーカーの土地を紹介するから、バター1ポンドに50セント払うとの申し出があり、11月に約30km川下の農場に2台の荷馬車で向かいました。トーマスの妹マティの夫婦も同居して働き、MOSESの押し印をつけたバターをどんどんと出荷するようになったのです。

 やがて農場の持ち主が亡くなると、農場は売りに出され、彼らは別の農場に移りました。そこには8年住みましたが、持ち主が寡婦となって帰ってきたので「マウント・エアリー」という名前の農場を買い取り、初めて農場主になったのです。やがて1903年(43歳)の時に農場を売るチャンスがあり、売却してニューヨークに帰ることにしたのですが、子供の教育のために2年間、さらにスタウントンで暮らしました。その間に彼女は自作のポテトチップを食料品店に卸して、1ポンド30セントで、週に10ポンド(約4.5kg)を納入しました。このビジネスはさらにどんどんと販路を拡大したそうです。

第1の人生~再びニューヨーク州

 夫のトーマスのホームシックもあり、スタウントンの家を買いたいと言うひともあり、ニューヨーク州のイーグル・ブリッジ(前に出てきましたよ)に良い物件があるという話もあって、1905年(45歳)で故郷に帰りました。彼らはこの南部時代に10人の子供を授かり、ヴァージニアの美しいシェナンドー渓谷に5つの小さなお墓を残しました。

 その時以来、アンナはこの家に住んでいます。(最晩年の10年は、子供たちが用意してくれた、通りの向かいの新しい家でしたが。)酪農農家として平凡な日常を過ごし、その間に子供たちは学業を修め、また農場で働くようにもなり、巣立っても行ったのです。彼女が生まれた頃は南北戦争(1861-1865)があり、リンカーン暗殺(1865)があった時代ですが、この頃になると1911年に飛行機が話題になり1913年には家族で自動車を購入し、1914年には初めて映画を見ました。時代はどんどんと変わっていったのです。

 1918年(58歳)に初めての大作を描きました。客間の壁紙を貼ったら、ファイアーボード(夏季に暖炉を隠す板)の分だけ紙が足りないので、クルミのような2本の木を描き、背後に湖の風景を、陽光に輝く黄金色に染めたものです。使ったのは床を塗った刷毛でした。それは昔アンナの父がしたようにしただけです。全くの素人絵ですが、すでにアンナが描くべきテーマが込められていました。

 そして1927年です。夫のトーマスが「ストーブの後ろの絵は誰が描いたのか。」と突然に聞くのです。それは彼女が孫のために描いた「柵のそばのリトル・ボーイ・ブルー(マザー・グースの1曲の題名)」でした。普段は無口なのに「全くすばらしい」と言うのです。それからの2,3週間は彼女が絵を描くのを嬉しそうにみていて、そして突然に心臓まひで死にました。彼女が66歳の時です。画家になった後も、常にトーマスが見守ってくれていると感じ続けたといいます。

第2の人生~フォークアートの画家に

 ここで冒頭の紹介につながります。そして78歳の時に、ドラッグストアに絵を展示していたものを、美術蒐集家であるルイス・カルドアが通りかかって、それを買って帰りました。その夜家に帰ると、末っ子の嫁のドロシーが伝えるには、男の人が来て、絵が何枚あるかと聞くので10枚と答えたという。明日また来るとも。しかし9枚しかないので、最も大きな絵を切断して10枚にしたのです。これは嫁のドロシーがたぶん10枚と言ったことであっても、約束は絶対に守り、ドロシーにも恥をかかせないという、グランマ・モーゼスの強い性格と理解したいと思います。バターもそのように出荷してきたのであり、このビジネスの基本がしみ込んでいました。(約束した数量は、高額でよそから買ってでも揃えるものです。)その後も彼は訪ねてきては、次々に絵を買っていきました。それがニューヨークの画廊で展示され、近代美術館にも展示されました。

 1940年(80歳)の時に初の個展が開かれ、続いて行われたニューヨーク市ギンブルズ百貨店の作品展で、グランマは初めて演壇に立ち、多くの人たちに話すことになりました。彼女が話したのはジャムの作り方でした。農婦魂の面目躍如です。大いに喝采、握手、フラッシュでした。

 彼女は時の人になっていきました。1949年(89歳)ではワシントンに招かれて、トルーマン大統領夫妻に会ったのです。そしてイーグル・ブリッジに帰ると、もう凱旋将軍のように迎えられました。後の1956年(96歳)にはアイゼンハワー大統領から絵の依頼を受け、承諾すると20枚以上の大統領の牧場の写真が送られてきました。それを見ながら、もう少し立派な様子に描いたので、喜ばれたということです。そのようなサービス精神もありました。100歳の1960年にはニューヨーク州知事が彼女の誕生日を「グランマ・モーゼスの日」と制定しました。

 彼女の死後にも世界中で展覧会が開かれ、1987年には日本でも開催されました。

第2の人生~画家としての成長

 グランマは100歳で絵を描くから珍しいのではなく、稀代の画家であるとする評論家もいます。彼女の芸術性については意見がいろいろとあるとは思いますが、1940年のニューヨーク市での最初の個展が画家としてのスタートとすると、彼女はわずかの間に長足の進歩を遂げて行ったのは間違いありません。

 グランマについて書いたオットー・カリアは「トロイの火事」や「初めての自動車」という同じテーマの絵を比較して、その進歩を示しています。彼自身も初めはめずらしいおばあさんが居る程度に思っていたのだそうですが、1942年の「黒馬」で傑出した画家との認識に変わったといいます。それは渓谷と山並の大きな風景のパノラマに森、野原、丘陵そして畑とそれぞれの色でありながら調和を見せ、手前右寄りに緩く走る黒馬を持ち込み、左側には子供を乗せて佇む馬が配置され、「プリミティブ」と呼ぶにははるかに豊富な色使いと構図の大きさが、静と動のバランスが際立つという絶賛ぶりです。尤もこの絵はカリア氏の所蔵なので、思い入れも強いのでしょうが。

 さて前節の小見出しには当たりさわりの無い「フォークアート」としましたが、彼女の作品の分類は「アメリカン・プリミティブ(素朴派)」とも言われています。しかし1946年(86歳)にオットー・カリアがこの題名で出版をすると、私はそんな野蛮人(これもプリミティブ)ではないと反論をしたとか、伝わっています。また彼女が書いた自伝部分のスペルを編集がわざと間違えて、プリミティブのイメージづくりのために無教養にされたと抗議をしたとかも。しかし自伝の日本人翻訳者によれば、小学校を終えていないグランマの文章は文法や綴りの不備があり、それをそのまま活かす編集になっていると説明しています。さて、真実はどこにありや、なしや。

 上記のようなエピソードは彼女のプライドの高さを示していますが、グランマの画家としての進歩は、人の意見を聞き、柔軟であり、自分でも挑戦と工夫を怠らなかったからだと言われています。天性とも言える構図のとりかたや、主題の置き方、色彩の多様性と調和、生き生きとした家畜の動きなどがどんどんと洗練され、深まっていきました。風景ではのどかなばかりではなくて、嵐の予兆やハロウィンの不気味さなども描いていて、ほとんど死角がありません。これに比べて、室内画は苦手であり、だいたい構図が稚拙です。人物もどうもぎこちない。そこが良いと言えばそうなのですが。

 もうひとつ、グランマは自分が経験したことだけを描きたいと考えていました。1960年、正に100歳の時に、有名なクレメント・ムーアの「クリスマスの前夜」という詩に挿絵を描く仕事の依頼があった時に、「聖書から題材をとった絵を描く依頼があったので、私は即座にノーと言いました。私が知らない事柄について描く気は全くありません。二千年後に起こることを描くのと同じことですもの。」と断ろうとしました。しかし、この詩を知っていたこともあって、結局は引き受けました。依頼は断らないプロ意識もあったのでしょうが、この最晩年の作品における幻想風景は、さらに彼女の新境地を開いたと思えます。

私にとってのグランマ

 グランマの絵の特徴は、鳥瞰的な風景にあると思います。遠近法を用いて色と形で風景の大きな広がりを表現しつつ、近中景の森、畑、家、木々、家畜、人物などが少し子供っぽく表現されています。私が初めて彼女の絵を見たときに、シャガールを思いました。シャガールの絵に多くあるモチーフとして、「穏やかに眠ったような街並みの上空を、空中浮遊しながら青い服の男が花嫁の胸を撫でている構図」があります。(当時は子供だったので、こ、これがゲイジュツ??と思いましたが。)この街並みと、どこか相通じるものを感じました。それは夢の構図であり、ちょっと幽体離脱して見る風景です。人間には空を飛ばなくとも、地上で見た風景を総合して、上空から見た風景を頭の中で構築できるという能力があります。私はそれを、樹上生活者であった猿の時代に獲得した能力であるとの仮説を立てていますが、いかがでしょうか。皆さんもちょっとご自分の故郷を思い出してみてください。そして視点をぐーんと空からにすると、ね、見えるでしょ。

 実は妻の母が、60歳台で日本画を始めて、やがて水墨に軸足を移すのですが、主婦業の傍らですばらし絵を描き始めたのです。彼女も行き着いたのは風景画ですが、山間の田園風景を描けば、そこを渡る初夏の風が見えて、画紙を超えて吹き去るような広がりがあります。しかしながらグランマが画家になる年齢に達しない前に、急逝してしまいました。完成作品はわずか21点でした。我が家に掛けられている義母の「女神湖」の掛け軸からは、この風景を見つめた人の全てが伝わってくるようです。これが、私のグランマです。

グランマの投機性と政治性

 第二次大戦後のアメリカは、世界への文化攻勢にも力を注ぎます。アメリカの弱点は文化の歴史が浅いことですが、映画や大衆音楽を通じて国境や宗教、人種によらないシンプルで力強い大量生産品のようなアメリカ文化の輸出を図ります。このような中で、グランマの描く絵は丁度良い素材であったに違いありません。彼女の描く農村の原風景は、20世紀後半の世界で共通に失われつつある楽園であり、勤勉と謙虚さはアメリカの経済力や軍事力が突出するなかで、ささやかながら文化的なバランサーになったのでしょう。米国の画商は、最初は2,3ドルでグランマから買った絵に、プレミアムをつけて売りさばくことができ、彼女の死後も価格は上がり続けました。さらにクリスマスカードや複製画とすることで、美術品の大量消費の要求に応えていきます。ホワイトハウスに永久展示することで、国民画家であることを印象付け、ステータスを与えました。グランマ作品の世界巡回展示は、アメリカのそのようなキャンペーンのようにも思えてしかたありません。

 日本では当時、山下清が大ブームでしたが、アメリカほどの大々的な商品化やキャンペーンはされずに、現在ではほとんど忘れられかけています。山下清の原画は40~60cm程度で十数万円(の下の方)の相場ですが、グランマの作品は、オークションサイトでは会員にならないと価格を教えてくれないので、全く見えないのですが、単色の部分的なデッサンで何と2百万円という米国画廊のお値段を見つけました。作品の人気は衰えを知らないようです。

 さて1961年にグランマ、1962年にマリリン・モンローという、大げさに言えば当時の米国を代表する2大女性が亡くなると、さらにアンディ・ウォーホルのポップ・アートなど、次々と文化攻勢をしかけてきました。最近は少し弱ってきたようにも思えますが、依然として強い風であることに違いはありません。

老人は日本の資源

 グランマの絵が、百年先、千年先でも価値を持ちえるかは私には分かりません。でも確実に言えることは、彼女が充実した最晩年の二十数年を送ったことであり、そしていろいろな意図や思惑があったとはいえ、多くの人がそれを支え、応援したことです。

 それぞれの人に才能があり、また他の才能を支援することで、より豊かになれると思います。そして、それは何歳であっても可能性は少なからずあります。そのような才能を支える広範な動きがあれば、いろいろな階層で世界への文化発信力が増してくると期待できます。佐賀県武雄市のばあちゃんアイドル(ばばドル)グループGABBAが先日解散しましたが、上海万博出演(当時平均77歳)も果たし、大きな役割を果たすとともに、本人たちが何より充実し、楽しんだように聞いています。老人は日本の資源です。活用しましょう。

(2012.9.1 榎本博康)

主な参考文献

  1. アンナ・M・R・モーゼス著、加藤恭子(訳):新版モーゼスおばあさんの絵の世界 田園生活100年の自伝、未来社(1983)
  2. オットー・カリア(編著)、加藤恭子(訳):画集グランドマア・モーゼス<新々版>、サンリオ(1996)
  3. 秦新二(編著):グランマ・モーゼスの贈りもの、文藝春秋(1995)

榎本博康(えのもとひろやす) プロフィール

榎本博康(えのもとひろやす)  

榎本技術士オフィス所長、日本技術士会会員、NPO法人ITプロ技術者機構副会長

日立の電力事業本部系企業に設計、研究として30年少々勤務し、2002年から技術士事務所を横浜に開設して今日に至る。技術系では事故解析や技術評価等に従事する一方で、長年の東京都中小企業振興公社での業務経験を活かした企業支援を実施。著作は「あの会社はどうして伸びた、今から始めるIT経営」(経済産業調査会)等がある。趣味の一つはマラソンであり、その知見を活かした「走り読み文学探訪」という小説類をランニングの視点から描いたエッセイ集を上梓。所属学協会多数。

 

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