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ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第7回 フォークと日本語のロック その3

by staff on 2012/12/10, 月曜日

 

HEART&SOUL代表 原 正行

1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。

 

第2章 横浜、街と風(3)

初恋

 中学1年が終り、2年になると同時に港南中学は笹下中と2つに分かれることになりました。この時、悲しい別れが待っていたのです。1年の秋同じクラスで演劇部だった女の子が文化祭の“夕鶴”という劇で主役の鶴の化身“おつう”を演じたのです。1年で主役なのもすごいですが、ストーリーは助けた鶴が美しい女の姿になり恩返しに男に嫁ぎ自分の羽根をちぎり機織りをします。その姿を見られたらもう人間の姿ではいられなくなる。見てはいけない姿を見られたとき一人で「なぜあなたはみてしまったの? もう私は帰らなければいけない」と長せりふを一人で語る場面があるのですが、これが素晴らしい演技で、これにいたく感動してしまいこの女の子に夢中になってしまいました。今思えばこれが初恋、彼女は分校に行く事になり、藁にもすがるつもりで文通をお願いしましたが、当時の自分には何を書いてよいのかまったく解らず結局2回ほどで終わってしまい淡い想いとともに消滅してしまいました。中一ですよ、ませガキでした。

熱血先生

 2年生になるとクラス編成があり私のクラスは2年2組。今思えばこの一年が私の人生において1番楽しく充実していた学生生活でした。担任は谷先生と言う女性。金八先生を女にした様な熱血一直線。何事にも真剣で熱い人で生徒を叱るときにはたとえ女の子であろうとも平手が飛びましたし、いつも涙を流して僕らを叱りました。又、個性的な奴が多かったので、反抗期だった我々を相手に、先生は本当に大変だったと思います。時代だったのでしょう。テレビでも熱血先生をテーマにしたドラマが多かったし、(これが青春だ、青春とはなんだ、等)あのぶつかり合いが1生の思い出になったり、生徒の人格を作ったりするのだと思います。あんな熱血先生も最近は見かけることは少なくなったんではないでしょうか、寂しい限りです。

2年2組

 クラスは6人づつ班に分かれ、各リーダーが選ばれいろんな活動をするのですが、何ヶ月かに1回、ミュージックフェスティバルと言うのをやることになりました。その1回目、同じクラスに何人かギターを弾く子がいて、Iさんという女の子が拓郎の“ともだち”を弾き語りしました。これには驚き、他にも何人か上手いのがいて、これには刺激され、ひたすらギターの練習に励みました。他のクラスは、ギター持込を禁止されている所もあったようですが、2組は自由だったので、気がつけばクラスの3分の1位はギターを持っていたようでした。テレビジョッキーと言う土居まさるが司会の番組で、素人が芸をやって受けると、白いギターをもらえるというのもあって、ブームだった様です。同級生がよく持っていたのはヤマハ、ヤイリ、一番多かったのはモーリスのフォークギター。1万2千円くらいのやつでした。私はやりませんでしたが、女の子や軟派な奴は、ネックの先にマスコット人形なんかぶら下げてましたね。

 学年行事の文化祭の合唱コンクールなども2組は異常に盛り上がり、クラス一丸となって朝早くから遅くまでパートごとに分かれて猛練習! 遠い記憶なので優勝できたかどうかは定かではないですが、目標に向かって仲間達と一生懸命頑張った場面場面が、今でも心に残っています。勉強は相変わらずまじめにやらなかったので、成績はひどい結果でしたが、この中学2年の一年間で多くのものを学びました。

フォークと日本語のロック その3(’70~’73のフォーク)

吉田拓郎

 フォークジャンボリー以降、フォークの流れは社会的メッセージ性の強いものが受けなくなり、より身近なことや自分のことを歌うものが主流になって行きます。やはり先頭を切っていたのは吉田拓郎で、今で言うインディーズだったエレックレコードからスタートした拓郎は、1971年1月に大手のCBSソニーに移籍、そこで出したシングル『結婚しようよ』が大ヒット。これ以降、一躍メジャーになりフォークのプリンスと持てはやされます。そして続く『旅の宿』がフォークとしては空前の60万枚を売る大ヒット。押しも押されもせぬフォーク界の第一人者となります。拓郎は一度、テレビのリブヤングに出演、4曲歌いますが、これ以降テレビ出演を一切拒否。テレビに数多く露出し売っていくというそれまでの歌謡界の常識的なプロモーションを行わず、ラジオのDJとコンサート活動によって、プロモーションしていくという手法をとりました。その理由は色々ありますが、まずテレビサイズに曲を短くされる事、1曲で自分を判断してもらいたくない事、当時からこれは拓郎が常々言っていた事です(有名歌手H、A、が嫌いだったからという説もありますが、、)。又、シングル中心で売るのが主体だった歌謡界に、アルバム主流で売ってゆくスタイルをとりました。これが当たり、アルバム『元気です』は、40万枚の売り上げを記録。拓郎以降、ミュージシャンのテレビ出演拒否やアルバム主体の活動が、様々なミュージシャンに受け継がれて、テレビに出ないのがかっこいいという風潮まで生まれていきました。

エレック

 この当時のほかのフォーク歌手を見てみましょう。拓郎がいたエレックレコードは様々なアーティストを輩出しています。まずなんといっても泉谷しげる。そのデビューは強烈でした。『黒いかばん』などコミックがかったものもありましたが、やはり『春夏秋冬』は名曲でした。古井戸は、『さなえちゃん』が大ヒット。『通りゃんせ』の佐藤公彦(ケメ)、後に『どうぞこのまま』で有名になる丸山圭子、武田鉄也の海援隊などががここから出ています。

 他にも、拓郎の広島フォーク村の影響で各地にフォーク村が生まれ、当時返還されたばかりの沖縄フォーク村が話題になり村長の佐渡山豊などがエレックからデビューしました。

RC、GARO

 片や、メジャー系からも沢山のアーティストがうまれます。TBS系の「ヤング720」のオーディションで出てきたのがRCサクセション。最初は、フォークギターにウッドベースのフォークスタイルで『僕の好きな先生』がヒット。RCの事務所はホリプロでしたが、後年、移籍後に古井戸の仲井戸麗一(チャボ)と組み、ロックスタイルになりご存知の通りになります。

 ガロは田辺エージェンシー、かまやつひろしのバックバンドでしたが、71年デビュー。同年1stアルバム発売。このときは、メンバーの手による作品が殆どで今聞いても普遍の名作です。しかし、事務所の方針からか、2枚目からは、洋楽の日本語カバーや職業作家の作品が入るようになり、3枚目のアルバムからカットされたシングルB面の『学生街の喫茶店』が有線放送からじわじわと火がつき大ヒット。拓郎以降、テレビ拒否が多い風潮の中、ガロは頻繁にテレビ出演し、フォークアイドル的な存在になり、これより先は職業作家の作品を主体に歌うようになっていきヒットも生まれますが、’76年には解散。私として彼らのオリジナル主体でやっていたほうがグループも長続きしたのではと勝手な想像をしています。

かぐや姫、陽水

 ’70年、南こうせつとかぐや姫も登場! かぐや姫は、当初こうせつ以外は違うメンバーで結成され、テレビの全日本歌謡選手権に出場。4週勝ち抜きますが、5週目に辞退。彼らに辞退を決意させた歌手、三谷謙は、その後10週勝ち抜き、五木ひろしと名前を変えています。デビュー後、数枚のアルバムを発表後メンバーチェンジ、’72年、拓郎の助けを借りて作られたアルバム『はじめまして』が4万枚を売り上げ、翌、’73年には、『神田川』を大ヒットさせます。こうせつは、マイナー調の曲に独特の日本的哀愁を帯びたメロディーを持っています(『加茂の流れに』、『夢一夜』など)。又、メンバーの伊勢正三も初めて書いたと言う『22才の別れ』や、『なごり雪』などいくつもの名作があります。’75年解散、短い活動期間でした。こうせつはソロ、伊勢は風を結成し活動します。

 井上陽水はすでに’69年にはアンドレ・カンドレの名でデビューしていましたが、泣かず飛ばず。CBSソニーから井上陽水で再デビュー、『傘がない』などで注目を集め’72、『夢の中へ』が大ヒット。’73年にはアルバム『氷の世界』がアルバムにおいて日本史上初のミリオンセラーを記録。フォークがメジャーになった瞬間です。陽水の魅力はなんといってもやはり歌詞の良さにあると思われます。

傘がない

 『傘がない』の歌詞に、「都会では自殺する若者が増えている、今朝来た新聞の片隅に書いていた、だけども問題は今日の雨、傘がない」というのがあります。社会問題よりも今大切なのは自分の事(傘がないこと)だと言うのです。ほんの4,5年前まで、岡林たちがあんなに社会問題に対するメッセージを送り続けたフォークがすっかり方向転換してしまったことを見事に表現しています。学生運動や安保、成田で権力に押さえ込まれた若者達が絶望感やあきらめの境地から社会問題に少しづつ関心をもてなくなっていったということなのかも知れません。「モーレツからビューティフルへ」、「無関心、無感動」、「ナンセンス」、「しらけ」など、この頃はやった言葉も、物事に前向きに取り組むことが虚しいとか白けるとかいった風潮を表しています。そんな時代の若者が、親になり孫ができると言う時代。夢を持てない人が多いと言われる現代。もう一度原点に返る事もありかなと考えます。

 以下次号につづく

HEART&SOUL代表 原 正行)

 

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