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【新年のご挨拶】
みなさま、新年明けましておめでとうございます。
旧年中は大変お世話になりました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

セカンドライフ列伝 第9回 陶淵明(とう えんめい)

by staff on 2013/1/10, 木曜日

榎本技術士オフィス/榎本博康

第9回 陶淵明(とう えんめい)

職業隠者としての逆転人生

 今回は5世紀中国江南の田園詩人にして隠棲者として高名な陶淵明(365年~427年)です。実は陶淵明については以前に拙著「走り読み文学探訪」で書いたことがあり、そこには政変に巻き込まれて命を全うできないリスクから逃れて、自分らしく生きることへの回帰を果たした男への共感を綴りました。丁度私がサラリーマン生活から現在の自営業に移るという時期でもあったからでしょう。

 しかし今回は別の陶淵明像を描いてみます。家柄に恵まれず、強運も無い、沸々たる野心を秘めた教養とまじめさだけの男が、実務の世界では不器用で使いものにならない。世に名をなすために選んだ一発逆転のトラバーユ、職業隠者への転身の成功譚として、です。

 同じ著者が違う陶淵明像を書いて良いかという声もあるでしょうが、そのような二面性にこそ描く方にも描かれる方にも人間の本質があって良いのだろうと、自分勝手に納得しております。

 なお文末の参考文献はいずれも高い学識に溢れていて、私のような入門レベルの知識で書いて良いテーマなのかと落ち込みましたが、まあ英検一級じゃなくてもブロークンな英会話をしてもかまわないのと同じと居直り、例によって史実をトレースしきれずに逸脱しながらも、虚々ときどき実を取り混ぜた陶淵明像に挑戦してみます。

ちょっと観賞タイム

 陶淵明を知らない方には、とっつきにくいと思いますので、まず最も有名な詩のイントロを紹介します。長いと嫌われるので、ちょっとだけです。漢字は現代日本風にしました。この書き下し文を声に出して詠ずると、ちょっとした漢詩気分を味わえるでしょう。

    帰去来兮辞 ききょらいのじ
帰去来兮 かえりなんいざ(さあ、今こそ故郷に帰ろう)
田園将蕪胡不帰 田園まさにあれなんとす なんぞ帰らざる
  (主人が不在の田畑は荒れ放題になろうとしている、早く帰らないと)
既自以心為形役 既に自ら心をもってからだのしもべとなす、
  (もう十分に生活のために自分の心を偽って官吏をやってきた)
奚惆悵而独悲 なんぞちゅうちょうとして独り悲しむや
  (どうして独りで恨み悲しむ必要があるだろうか、サッパリしよう)
 
(この後は、「帰去来兮辞」で検索してみてください。)

おさらい、その頃の中国史

 まず中国史のおさらいを。4000年以上昔の夏から、殷、周、春秋戦国、始皇帝の秦、そして紀元前後を挟んでの中国最長の統一王朝である前漢、後漢の時代が400年余り続き、次いでAD220年頃から魏呉蜀の三国時代、それを265年に建国した晋が統一しました。しかし304年頃からの五胡(北方の五族)の侵入と建国(十六国)により弱体化し316年に滅びるも、晋(歴史では区別のため東晋と呼ばれるが、本稿では単に晋とする)として317年に建康(今の南京市、海沿いの上海より少し内陸)を国都とし、華北からのがれてきた北方勢力と江南地方土着の豪族勢力との協力によって建国、100年余り続きました。これが陶淵明の時代です。その領域は揚子江流域からその南側の東シナ海、そして今のベトナム国境あたりまでです。協力と書きましたが、北方勢力がイニシャシチブをとり、江南勢力は下方に置かれていました。当時の揚子江以南は未だ開発途上であり、「南人」とは蔑称でもあったので、江南勢力はこの亡命王朝を自分らのステータス向上のチャンスととらえて協力したのですが、実態としては乗っかられたのです。陶淵明はこの土着豪族勢力に属します。

 しかし50年もすると晋室の衰えや水害、飢饉などもあって世が乱れ、403年から404年にかけて、禅譲により鎭軍将軍桓玄が帝位に就いて楚となるも、鎭軍将軍劉裕(この二人の名前、憶えておいて下さい)に攻め滅ぼされ、晋室は復活します。その直後の405年に、陶淵明(41歳)は隠遁生活に入ってしまうのでした。

 さらに420年に宋朝が開かれ、晋は滅亡しました。宗の始祖は例の劉裕であり、脅迫による禅譲のあと、晋の廃帝を幽閉の上で殺害しました。

偉大なる曾祖父陶侃(とうかん)

 本人の伝記の前に、その祖先から始めなければならないのは、中国四千年の伝統です。曾祖父の陶侃は下層で貧賤な士族階級の出身で、しかも異民族の血を引くというハンディにもかかわらず、チャンスをうまく掴み、さらに戦争が上手で軍の最高責任者に就任しました。勤勉で農耕を奨励し、との評価が高い一方で、当時としては当然なのですが、妻妾数十人、召使千余人という贅沢で、17人の子供が居たと伝えられていますが、陶淵明の祖父はその中にありません。一体何人の子供がいたのでしょうか。さらに陶淵明の父親の名前は伝わっていません。彼の作品の中で、「おとうさん」と呼んで名前を書かなかったというよりも、どんどん家が傾いてきて官職に就けず、当時の記録に残りませんでした。それでも「おとうさん」は農業を愛する荘園領主であり、正妻の子である陶淵明と、妾の子である3歳年下の妹がありました。

 この曾祖父は陶淵明誕生の31年前に死んでいるのですが、彼は曾祖父を敬愛するとともに、自分の出自が立派であることの宣伝に使っていました。本人の才能よりも、出身が出世に繋がる世の中であったから当然なのです。

 また外祖父孟嘉(もうか)の影響も強いのですが、長くならないように簡単に紹介します。孟嘉は家柄も育ちも良くて、教養も高かったので、いわゆる名士の風格であったといいます。このカッコいいということは、中枢で生きる上で重要なことと言われています。武力以外の場面において、人間力での闘争が日常的にあったからです。

第一の人生~荘園主として

 さて、陶侃(とうかん)の勤勉な自制心と、孟嘉の教養と冷静さを受け継いだことを誇りとする陶淵明は、8歳で父を亡くしましたが、荘園領主の長男という立場です。相応の農地と小作人を抱えていたことでしょう。彼が19歳の時に淝水(ひすい)の戦いがあって、北方の前秦が100万弱の軍勢で侵攻してきましたが、晋軍8万でこれを破り、このため前秦は自滅し、後秦に代わることになります。彼は儒者としての教養を収めつつ、青雲の志をいだいていましたが、この戦いに熱い思いを寄せた詩が残されています。この北方の弱体化がしばし晋国の安定を招くのですが、一方戦禍冷めやらぬこの後の10年間で5回の洪水や、干ばつ、蝗害の発生で深刻な飢餓状態でありました。それにもかかわらず政治の無策、というより横暴が続いていたのです。

 陶淵明は20歳頃に最初の妻を娶るのですが、その出自は不明であり、一子儼(げん)を残して死にました。それは彼の20代末と考えられています。この子の誕生に際して作られた「子に命(なづ)く」という詩では、偉大なる先祖から立派な父までを滔々と紹介して、それに引き替え私は学識が浅く、この子に家の将来を託す他は無い」との思いを記しました。ここで父について「自然の中に身を置いた君子」としています。この父の影響も見逃せません。

 その後再婚し、さらに4人の子供(俟(し)、份(ひん)、佚(いつ)、佟(とう))をもうけました。ただしこの5人は男子であり、他に5人の女子もあったのですが名は伝わっていません。そういう時代ですから、仕方のないことです。

 さて20代の彼の伝承は乏しく、疲弊した江南の地での荘園経営に汲々としていたと想像します。この時代は北方勢力の入植により、農地の開拓が進んだのですが、彼の身分では余り良い土地は得られなかったと考えられています。

第一の人生~軍事参謀として

 29歳で「祭酒」に就きました。別に酒が飲めるぞという役職ではなくて、州の学事を司るものです。官に就くのが遅いとも見えますが、彼の家格からはこんなものかもしれません。一説には彼の荘園だけでは食えないので、就職活動をしたのだとも言われますが、当時の就職活動はお金が必要なので、なかなか資金が貯まらなかったのかもしれません。しかし「吏職に耐えず」(意訳:こんな下らない仕事、やってられるか。)としてすぐに辞めてしまうのです。次に紹介された州主簿は鼻先で嗤って最初から断ってしまいます。これは傲慢とも見えますが、より高い官職を得るためのその時代の常套的な手法であったとも思われますが、自負も相当に高かったのでしょう。でも彼のハッタリは不成功でした。当然そのしっぺ返しで数年は干されてしまいます。それでも貧なりといえども荘園があるので生活は維持できるのです。

 ようやく35歳で次の役職を紹介されますが、生意気なことをした懲罰的な意味合いもあるのでしょうか、彼にふさわしい文官らしい役職ではなくて、職業軍人である鎭軍将軍劉牢之の参軍となり、孫恩の寇の討伐に従軍しました。今度はもう後が無いので断るわけにはいきませんでした。このボスの劉牢之には理念も信念も無く、戦いの日常においての処世が重要な関心事です。

 次いで同じく鎭軍将軍である桓玄の幕下に参じました。桓玄の方は大軍閥の出身で支援者が多く、風采が良くて教養があって文芸に秀でていました。また彼の父の桓温は天下を夢見つつ、果たせないまま死んだという思いも受け継いでいました。桓玄は陶淵明の4歳下であり、外祖父の孟嘉はその父桓温の幕僚であったという関係です。陶淵明が劉牢之の所で役に立たずにおぼつかないので、親の代の恩義から転属させてくれたのでしょうか。

 当時の晋室は単に有力者達に担がれた飾りにすぎませんでした。陶淵明が最初の就職をした頃の孝武帝はアル中でしたが、お気に入りの妾に「おまえはもう30歳、若いのが欲しいなあ」と言ったため、妾にふとん蒸しにされて殺され、次の安帝は言葉が不自由で知能に問題があったといいます。

 やっと就職が軌道に乗ったかに見えた36歳で、陶淵明は国都建康への使いに帰り、37歳(401年)で休暇をとって帰郷しました。やっぱり軍の実務はつらかったのかと、勝手に推測します。しかし年末に実母が亡くなったため25ヶ月の喪に服しました。この母の死は、彼にとってラッキーと言わざるを得ません。理由は次節で説明します。

第一の人生~劉裕の同僚として

 桓玄は野心を抱いて、揚子江中流の江陵を攻め落とし、次第に晋国の三分の二を掌握し、402年に東進して首都建康を攻め落し、競争相手の劉牢之を自殺に追い込みました。翌403年に桓玄は帝位に就いて国号を楚としました。しかしこの間に劉牢之の部下の劉裕が頭角を現しており、一揆の鎮圧で20万人を殺戮するという実績をあげていました。税は重く、官職は公然と売買される乱れた世に、一揆は常態化していたのです。劉裕は404年に桓玄を攻め滅ぼし建康を奪回して鎭軍将軍になりました。この劉裕が破竹の勢いで、420年には自らが帝位に就いて国号を宗と改めました。晋は滅亡したのです。

 ここで時計を戻しますが、陶淵明が初めて劉牢之の下で参軍となった時に、同期の新米参軍同士として傑物劉裕と会っています。陶淵明の2歳年上であり、将来宗の開祖となる男は、彼とは全く違うタイプでした。陶淵明が必要としていた家柄も教養も全く関係のない世界の住人です。草履屋の息子、博徒あがりで無教養ながら、ばくちと喧嘩がめっぽう強かったのです。ピースの缶を賭けたちょぼいちで稼いでいました。(あれ、時代がちがうかな)劉裕が37歳の時に劉牢之が従軍者を募集し、それに応じて戦争の能力も開花させ、揚子江南岸デルタ地帯で転戦に転戦を重ねてことごとく勝利し、勇名を馳せました。

 これはおぼっちゃまだった陶淵明が、自分の荘園に留まっていた頃には知らなかった猥雑で残酷な社会の実態です。官職を蹴飛ばす程度のはったりは何の効果もありませんでした。また出自が良く、教養のある桓玄は晋を簒奪したものの、単に玉座が欲しかっただけで、為政者としては何もできずに政治家としての無能をさらけだしただけでした。一方持っている男劉裕は負けを知らず、野卑ながらそこがまた魅力で協力する人物が集まってくるのです。この持っている男が背負う男になろうとしているのでした。

 さて、陶淵明は404年の40歳で鎭軍将軍劉裕の参軍として復職します。そして劉裕のやり口を目(ま)の当たりにします。劉裕は徹底的な桓玄の残党狩りをしたので、陶淵明があのまま桓玄の下に留まっていたら恐ろしいことになっていたのは間違いありません。

第二の人生~県令から隠遁者へ

 当時の生き方は陶淵明の場合で言えば、有力者に従うか、隠者になるかの二者択一との説があります。劉裕の配下では発言するひとことを間違えれば首が飛ぶので、翌405年には劉牢之の子、建威将軍劉敬宣の参軍に移りました。ここから再度就職活動をして、その秋に彭沢(ほうたく)県県令(県知事)となりました。もう41歳、高い官職は既に望むべくもなく、せめて実入りの良い搾取のできる立場になろうとしてもおかしくはありません。しかし3ヶ月弱でその県令の地位を投げ打って帰郷し、隠遁生活に入ってしまいました。

 なぜそうも早く県令を辞めてしまったのでしょうか。一説には査察が入ることになり、そんな小役人にぺこぺこするのはプライドが許さんとして、そんな屈辱よりは辞めてしまったと。しかし私が採るのは陶淵明の一石二鳥説です。つまり政変から身を守ることと、隠者として後世に名を成すことです。ではなぜ県令になったのか。これは隠棲者になるための手続きとする見方があります。つまり参軍として使われる立場ではなく、小なりといえども県令という権力者になり、そこからの隠棲という落差を演出したものというのです。

 実は隠者とそれを庇護する貴族階級との相互依存関係が当時既に成立していて、隠者は極めて政治的な存在であったのです。隠者の高級なものを隠士と言うそうですが、隠士に助言を求めたり、時には政府中枢に組み入れたりして、政策の権威を高めたり、為政者の人徳の証(あかし)としていました。丁度現代で学識経験者をいろいろな委員会に招へいしたり、時には大臣に登用していることと同じとしても、言い過ぎではないでしょう。

第二の人生~隠遁生活の実態

 足取り軽くヤッホーヤホホの帰郷でした。「帰去来の辞」で喜びを露わにしての隠棲者デビューでした。彼の詩にはいかに貧乏かということが縷々語られていますが、下僕がいて、複数の妻が居て、10人の子供が居て、実際はそう困っていなかったとも思えます。日本の大邸宅の敷地の一画に鄙びた茶室がぽつんとあるように、彼の御屋敷の敷地の一画にぽつんとわざとボロボロの隠者の庵があったのではないかとも想像してしまいます。当時の有力者は、有名な隠者のパトロンであるかというのがステータスの一つですから、例の劉裕直属の将軍が手土産を持って彼の庵を訪問したといいます。「あなたは世に道がないので隠棲しているとおっしゃるが、今はその道がある。今こそ賢者として世に出るべきでしょう。」と誘うが、これに乗っては隠者ではありません。「私は愚者ですよ。」とはぐらかす。これで益々隠者としての株があがるというのです。でも本音は殺戮マシン劉裕の傍になど戻りたくないということでしょう。庵から持って帰らせたお土産は、母屋に届けられていたかもしれません。無教養な劉裕から見ればかつての同僚であった隠者は、利用しやすいと見たのでしょう。

 陶淵明が隠者として人気が出てくると、いろいろな名士が訪ねてきました。いつしか自称していた五柳先生(門前に生えていた五本の柳に由来)が呼称となり、好きだと公言している酒が届けられ、酔っぱらってよく寝ていた石は「酔石」と呼ばれ、それが段々と観光地化してきました。私の妄想では寺院の仲見世のような状態であります。あくまでも妄想ですよ。

 実は彼は隠者を心がけながらも、常に中央の政変に関心を抱いていたようです。従ってそのような訪問者は重要な生の情報源であり、それがお土産付きでやってくるのですから、申し分がありません。しかも隠者としての名声が高まれば高まるほど、身の安全は保障されます。陶淵明は自分の5人の男児は皆んなバカだという詩を書いていますが、バカであることこそ身を守る術です。利口では長生きができません。長男が生まれた時に、あれほど出世してくれと願ったことなど、さらりと忘れていました。

 そして自ら耕して自ら食うと言う生活を実践し、陶淵明の躬耕(きゅうこう)米としてブランド化に成功しますが(うそですよ、ウソ)、また老いに苦しむ日々も払いのけることができませんでした。

人生は実に難しい

 陶淵明を論じるには、彼の詩を観賞することが不可欠ですが、私に教養が無いのでそれは参考文献等に譲るのが賢明でしょう。最後に参考文献2)の吉川氏の論説に依拠しながら、彼の辞世の詩である「自祭文」を概観して結びにしたいと思います。これは彼の百余編の詩文の最後を飾るものであり、63歳の9月の死の床で書かれた(または口述筆記された)詩です。その書き出しから研ぎ澄まされた詩人の言葉が紡ぎだされます。

歳惟丁卯 としはこれひのとう(今年は西暦427年だ)
律中無射 ふえはぶえきにあたり(楽の高音が冴える9月(新暦の10月)である)
天寒夜長 てんはさむくしてよるはながくして(放射冷却で空は寒く、夜が長い)
風気粛索 かぜのきはしょうさくとわびしきとき(風気寂しく吹き続けるときに)

 次がポイントです。死に際しての心の整理ができたようです。

陶子将辞逆旅之館 とうし、まさにかりのやどりのやかたをじして
  (私こと陶淵明はかりそめのこの世からグッドバイして)
永帰於本宅 ながくもとのいえにかえらんとす
  (本来の住まいである、死後の世界にかえりゆこうとしている、永遠に)

 数行おいて、「われ人となりてより、運の貧しきに逢い」(俺の時代はろくでもなかった。俺のように潔癖では貧乏神しかやってこない)と、愚痴る。だから農業に、田園生活に勝るものはない、と持論にたどりつき、さらに数行あって

捽兀窮庵 みじめなるいおりにそつこつとしつつ(あばらやを自慢しながら)
酣飲賦詩 ほしいままにのみて詩をつくりぬ(好きなだけ酒を飲んで詩作を楽しんだ)

 これぞ陶淵明の真骨頂です。しかし、さらに何行か続いたこの詩の最後の3行は次のようで、全く翻訳不要の嘆きです。

1600年近く昔の嘆きがダイレクトに届きます。

人生実難 人生はまことにむずかしい
死如之何 死はいかがなるべきか
嗚呼哀哉 ああ、かなしいかな

 陶淵明は我々から見れば理想の人生を送ったように思えます。ぐっと卑近な話にすれば、サラリーマンとして大成できるのはほんの一つまみの人間で、たいがいは住宅ローンの返済に退職金を使い果たして老残の日々を過ごすのがオチです。陶淵明が残りの人生を貧しくとも優雅な田園生活を送れたのは、元々荘園主であるというラッキーな出身であったからです。それに職業隠者としての名声を得ることに成功していました。政争に巻き込まれずに天寿を全うできたこと。家族、親戚、友人達に看取られて旅立とうとしていること。こんなに上手に達成できた人生なんて、そうざらにはありません。誰の人生が難しいんだ、と突っ込みたくなります。

 加えて死とは何だと問いかけます。でも自分で冒頭に、それは本当の住まいに帰ることだと言っています。推理小説のどんでんがえしでも、実は誤認逮捕で真犯人は分かりませんというだらしのない結末は無いでしょう。

 ああ、死を眼前にして、生きることも死ぬことも何も分からなかった。何と哀しいことかと結びました。でも哀しいのは読者の方だと言いたいですよね。

 ちょっと突っ込んでみましたが、ここが陶淵明の魅力の真骨頂であろうと思います。彼の誠実さの表れでもあります。職業隠者としてのポーズを取り続けて死ぬことも十分に可能であったでしょう。しかし実直な彼はそのようには死ねなかったのです。陶淵明の言いたかったことを代弁してみました。

 「偉大なる曾祖父である陶侃(とうかん)じいちゃん、俺もおおじいちゃんのように栄達したかった。なんたって妻妾数十人だもんな。いいなあ。そうできなかったのを時代のせいにしたけど、陵裕のように運と冷酷さの備わった奴は皇帝になっちまった。皇帝のまま、大満足のうちに天寿を全うして、息子が後を継いでいる。陵裕は殺戮の末に時代を作ったんだ。そんなまねのできない臆病な俺は隠棲するしかなかった。貧乏な俺はボロ屋を自慢するしかなかった。酒好きな俺だが十分には飲めなかった。文才を自負した俺だが、詩を書けばどこか本音が出てしまって、カッコ悪かった。ま、カッコ悪いままに絶筆とするのが、俺らしいか。じゃ、グッドバイ。」

 陶淵明は後世の人々から羨望されるような人生を送り、かつ以来1600年近くも多くの人々を惹きつけてきました。しかし本人は自らの人生に、老いる程に懊悩したものと思われます。それは正直にしか生きられなかった、へたくそな人生だからであり、そこが我々凡人にとっての救いであり、人生の先生としてふさわしいのではないでしょうか。

(2013.1.1 榎本博康)

主な参考文献

  1. 和田武司:陶淵明伝論 田園詩人の憂愁、朝日選書 (2000.6)
  2. 吉川幸次郎:陶淵明伝、ちくま学芸文庫 (2008.8)
  3. 石川忠久:陶淵明とその時代、研文出版 (1994.4)

 

陶淵明の故郷は世界遺産「廬山」の麓の景勝地であった東晋の領域
陶淵明の故郷は世界遺産「廬山」の麓の景勝地であった
(東晋の領域)

 

陶淵明想像図
陶淵明想像図

榎本博康(えのもとひろやす) プロフィール

榎本博康(えのもとひろやす)  

榎本技術士オフィス所長、日本技術士会会員、NPO法人ITプロ技術者機構副会長

日立の電力事業本部系企業に設計、研究として30年少々勤務し、2002年から技術士事務所を横浜に開設して今日に至る。技術系では事故解析や技術評価等に従事する一方で、長年の東京都中小企業振興公社での業務経験を活かした企業支援を実施。著作は「あの会社はどうして伸びた、今から始めるIT経営」(経済産業調査会)等がある。趣味の一つはマラソンであり、その知見を活かした「走り読み文学探訪」という小説類をランニングの視点から描いたエッセイ集を上梓。所属学協会多数。

 

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ランニングが大好きで、月に150kmほど走っているというヨコハマNOW編集長の辰巳隆昭が、お気に入りの新横浜公園のランニングコースを紹介します。
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横浜中華街は碁盤の目のように大小の路地がある。その中でも代表的な市場通りをビデオスナップ。中華街の雰囲気を味わって下さい。
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