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セカンドライフ列伝 第10回 山上憶良(やまのうえ の おくら)

by staff on 2013/2/10, 日曜日

榎本技術士オフィス/榎本博康

第10回 山上憶良(やまのうえ の おくら)

最晩年に「名」を成したノンキャリア官僚の刻苦

 人は死ぬ直前まで人としての無限の可能性がある、そのような思いを強くするのが、今回紹介する山上憶良(やまのうえのおくら、660~733年)です。万葉歌人として有名ですが、下級官僚として、営々として執務に励むと共に学問を修め、42歳で遣唐使に抜擢され、55歳という遅さで従五位下に昇進しました。これは国の正史に名前が残るぎりぎりの位です。57歳で伯耆(ほうき、今の鳥取県)守となり、さらに66歳で初代の筑前(福岡県西部)守となって大宰府へ下り、73歳で帰京して74歳で没しました。

 そんな行政に尽くして頑張った一生ですが、万葉集に78首の歌を残していて、今日では代表的な万葉歌人のひとりと認識されています。しかしその中で実に72首が大宰府以降の作品というのは、どういうことでしょうか。死の直前の6年間で集中的に代表作を残したのです。最晩年に一気に開花した才能がどこから来たかを、見ていきましょう。

 例によって私の妄想と不勉強で、史実を逸脱することもありますので、そのようなたわいの無いものとして読んで下さい。また学説が確定していない事項は、私が個人的に好きなものを採用しています。なお文末に掲げた参考文献はどれも深い学識によるもので、心から楽しめます。

その出自と生い立ち

 憶良の父は百済の宮廷医、憶仁(おくに)です。しかし白村江の戦い(663年)に敗れて、日本に亡命してきました。当時の朝鮮半島は北に高句麗、南の西が百済、南の東が新羅という勢力図でしたが、百済が660年に唐に滅ぼされ、さらに白村江の戦いで百済遺民・倭国連合軍は唐・新羅連合軍に敗れました。大敗だったそうです。百済からは記録にあるだけで3,000人以上の難民が日本に入植しました。そして朝鮮半島との軍事的な緊張が続く中、翌664年に防人(さきもり)が置かれたのです。

 憶仁一族の入植地は現在の滋賀県甲賀市水口(みなくち)町であったと考えられています。当時はあかねさすと歌われた紫草の産地でした。憶良は数えで4歳です。帰化人達は何らかの技術を持っている者が多くあり、父の憶仁は天智天皇(668年即位)の侍医となって遷都された近江大津宮(おうみおおつのみや)に移り住み、さらに672年にも遷都で飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)に住んだものと思われます。その父は彼が27歳の時に亡くなりました。

 憶良自身の記録は42歳まで全く無いそうです。無名の下級官僚として、写経所か図書寮の書生・史生を務めていたと思われています。これは座りずくめの仕事で俸給が安く、時には柿がいくつかという現物支給の一方で、誤記をすると罰金、それが続くと給料が飛んでしまうというものでした。当時の写経の文字を見ると、そのような緊張感が伝わってくるそうです。

第一の人生~歌人としての挫折と遣唐使抜擢

 憶良の最初の作品は、31歳(690年)の時の川島皇子(かわしまのみこ)の代作歌でした。天智天皇の第2皇子であって当時34歳、憶良の学才を重用していましたが、歌人としての素質も見出していたようです。しかし頼みの皇子は691年に薨去し、歌人への夢は絶たれました。要するに当時は、現代のように個人の気持ちを好きな時に歌うものではなくて、執務として歌うものであり、仕える皇族や有力者のひいきがなければ、単なるつぶやきであって、どこにも記録されないものでした。その意味では、後に編纂される万葉集に多くの読み人知らずや防人の歌が蒐集されているのは、画期的なことです。

 この一方で柿本人麻呂らの宮廷歌人達が台頭し、天皇の行幸に従駕して作歌するようになっていました。憶良は歌を忘れて、ひたすら官僚として歩むのです。

 そして真面目な憶良に、ついにチャンスが訪れました。42歳(701年)で遣唐少録に任命されました。実に32年振りの遣唐使です。その任務は白村江の戦い以降の唐との国交回復と、日本版律令制度である大宝律令の運用面での諸課題を実践に即して学ぶこと、さらにその中で定めた国号「日本」の承認であったといいます。この外交・内政一挙解決型遣唐使の使節使は粟田真人(あわたのまひと)で、真人は令編纂担当19人の中の首脳陣の一人であり、憶良も19人の員数外で編纂の実務に関係していたと思えます。

 憶良は43歳から48歳までの約5年間を唐で過ごしていますが、先に帰国する真人のための宴で、餞別の歌1首を残しています。これは真人の気持ちを代弁したものであり、これもまた職務上の作歌でした。その時のメンバーで歌が読めるのは憶良だけという事情もあったとのことです。そして、またも長い歌人としての沈黙期間に入ります。

第一の人生~歌人としての再度の挫折と編集者としての再起

 そんな憶良が、55歳(714年)に従五位下に任ぜられました。帰国後も真人が上司であり、引っ張り上げてもらったのでしょう。真人は中国人も驚くほどの勉強家であり、帰国してからも出世を続けていたのですが、憶良とはまじめ人間どうしで信頼関係が築かれていたもののようです。

 憶良は57歳(716年)で伯耆守(ほうきのかみ)に任ぜられました。その頃の筑後守は道君首名(みちのきみのおびとな)であり、大宝律令編纂の19人の一人にして、遣唐使仲間で、律令の第一人者であると共に、中国で農業を学んできて、筑後の農業技術の振興に実践的な技術を導入して大きな成果を上げていました。そんな同僚の姿を横目で見ながら、憶良も真摯に伯耆の国司としての任務に没頭したと推測されます。1首も歌が無いのは、仕事づけという以上に、地方にはそのようなサロンが存在しないからでもありますが。

 718年に上司の真人が世を去る一方で、大納言が長屋王(ながやのおおきみ)、中納言が大伴旅人(おおとものたびと)という体制になりました。憶良は720年に61歳で帰京すると、東宮侍講者に指名され、首皇子(おびとのみこ、後の聖武天皇)の16人の教育係の一人となりました。彼の推薦者は長屋王と思われています。次の天皇の教育を通じて影響力を持つことは、長屋王にとって重要なことであり、実力本位の抜擢人事でした。憶良は、この当時七夕の歌を残していますが、これらもそのような席で求められた執務上のものです。

 そして724年に聖武天皇が即位すると、山部赤人らの若い歌人集団が天皇の周辺で活躍します。またも歌人憶良の時代は来ません。そんな環境の中で、憶良は「類聚歌林(るいじゅうかりん)」を編纂しました。これは現存していませんが、万葉集等に引用がみられ、7卷数百首から成ると思われます。歌の作者は天皇とその周辺であり、皇太子用のサブテキストのようです。64歳頃の仕事でしたが、歌を勉強しなおす絶好の機会であったかもしれません。

第二の人生~筑前守赴任と旅人との出会い

 えーい、人の作った歌をまとめたって何にも面白くないとやさぐれていた時、(訂正、まじめな憶良は職務を投げ出すということはありません。でも心の片隅にはちょっぴりあったかもしれませんね。)725年に筑前守に任命されました。とうとう66歳です。年齢的にはどう頑張っても公務はこれが最後であり、しかも中央では不要と言われたも同然です。持病のリューマチも段々とつらさを増しています。病気のつらさに、さらにやさぐれそうになる心を押さえながら京都を後にしました。従来は大宰府が兼ねていたので、初代の筑前守です。当時は新羅との大使交換が頻繁に行われており、緊張の緩和が懸命に図られていました。そこで大宰府は外交と軍事の拠点に専念して、内政は筑前守の分掌にしたものです。ですから、伯耆の時と違って、現地に上司が居るのです。老齢、病気、地方、上司、これではどんよりとした生活になりそうです。憶良は歌のなかで、士(おのこ)であれば個人として名をなしたいとしているのですが、とうてい無理な環境です。

 ところが赴任して2年後の727年2月に大伴旅人(たびと)が太宰師として赴任しきました。かつての貴公子旅人も63歳になっていました。この赴任に妻と長男家持、二男書持を伴っていましたが、単に家族仲が良いのではなくて、中央での政変を予見しての退避とも見えるのです。事実、この2年後の長屋王の変で長屋王は自殺し、藤原氏の権力が決定的に強化されることになるのですが、名門ではあるが勢力を失いつつあった大伴氏は、政変に巻き込まれないで一族を維持するのが精いっぱいであったのです。

 さて旅人が赴任すると、既に歌人としても名を挙げていた彼を中心に、後世の人々が筑紫歌壇とか、筑紫文学圏とか呼ぶこととなる、歌人達の活発で斬新な創作活動が繰り広げられました。旅人が大宰府に居た、わずか3年と少しの期間であり、旅人の帰京と共に急速に衰えてしまいました。ただ憶良だけがその残り火をさらに輝かせたのです。

 その作歌者リストには、大宰府の官人20人、地域の五国二島の官人11人、その他の男性、女性、未詳作者を含めて総勢50人になると言います。しかも長歌、短歌のみならず、漢詩や散文もあり、それらを融合させた独特のスタイルを形成しているのです。それは表現の世界を飛躍的に拡大させるものであって、極めて高い教養と感性に支えられたものでした。特に旅人と憶良の関係は群を抜いており、歌の傾向の全く異なる二人は、火の出るような創作を戦わせたのです。実際は旅人の方は余裕であって、憶良がすっかり夢中になって旅人にせっせと歌を送っては旅人を鏡に自作を磨き上げたのです。旅人にとっての憶良は空気を読まずに迷惑な面もあったのですが、憶良にインスパイアされた面もありました。

 ここで憶良は、自作をせっせと創作ノートに書いて推敲を加え、完成原稿を旅人に書き送るという行動をとっていました。つまり従来のように何かの趣向の席で歌い、書記が書き残すような、聴いて観賞するような歌ではなくて、個人的に文字に書いてそれを読んで観賞する歌というジャンルを作ったのです。

 万葉集に収録された歌は、旅人も憶良も同じ78首だそうです。(数え方で違ってくるが。)しかし旅人の方がはるかに多く歌っているはずです。要するに旅人にはそのような席がたくさんあり、彼の才能であればいくらでも詠んだであろうと思われます。一方憶良には散文もあり、これは歌の数に入らないので量で計れば圧倒的です。いずれにしろ旅人の長男の家持が万葉集編者の有力な一人であることは間違いがないので、父旅人と共に、大宰府で親しく接した憶良の歌をしっかりと収録したものでした。

 旅人も大宰府時代に変わったので、セカンドライフのシリーズでいずれは書いてみたいのですが、今回は憶良に集中したいと思います。

第二の人生~死を悼む「日本挽歌」

 この大宰府に新天地を見出した旅人の家族に突然の悲劇が、妻の大伴郎女(いらつめ)が、赴任直後の4月に急逝してしまうのです。その時、憶良の何かに火が点いたのです。その後の、彼の死に至る6年間に猛烈な創作活動を行うための内燃機関が始動したのです。しかもその作品は空前絶後と言って間違いのない特異な作風としてでした。

 その歌のタイトルが「日本挽歌」です。挽歌は死者を悼む歌ですが、そこにどうして日本がついているのでしょうか。学説と違いますが、私はこのように勝手に考えています。この歌は作者=憶良が、私=旅人として歌うという構成ですが、旅人が中納言だというのではなくて、単に妻を喪ったひとりの男として、国をあげて悼んでも余りある悲しみであるとのタイトルだと。しかも倭国(つまり中国側からの呼称)ではなくて、憶良も参加した遣唐使で日本という国名を主張した、その国であると。

 本稿は作品解説でなく、またその力量もありませんが、その構成の斬新さだけは紹介しておきます。前置漢文があって、次に日本挽歌の長歌があり、反歌5首が続いて作者名があるという構成です。憶良は漢文で仏教の死生観を展開した後で、ずっと直情的な哀悼を長歌で展開し、さらに反歌で愛する者を亡くした喪失感を歌うと言う、シンフォニーのような構成です。雅な席での職業的で社交的な歌ではなく、全くの個人的な歌を旅人に献上したものです。憶良の教養と感性が全開しました。

ちょっと脱線、東歌の挽歌

 旅人の長男の家持は、母の死についての憶良の歌を受け止めていたでしょう。筑紫歌壇の作品は主に万葉集卷第5にありますが、卷第14の3577に作者不詳としてこんな歌がありあります。家持が採用したのでしょうか、憶良のような教養も技法も無い、朴訥な東歌(あずまうた)ですが、これが実に泣けます。

愛し妹を何処行かめと山菅の背向に寝しく今し悔しも
 (かなしもを いづちいかめと やますげの そがひにねしく いましくやしも)

 ささいなことで妻と喧嘩をしてしまった。広い家であれば別室で寝る所だが、狭い竪穴式住居なので、ひとつしか無い薄い夜具で、背中合わせに寝るという情けなさだ。背中を通じて妻の嗚咽が感じられるが、男の俺から折れるなんてことができるかってんだ。やがて小さな咳がするが、ざまあみろだ。俺に逆らいやがって。

 しかしそのまま妻は熱を出して、震えながら死んでしまった。あの時は既に体調が悪いので、つっけんどんだったんだろうか、俺はそれを分かってやれなかった。貧乏な俺は、妻に医者を呼ぶことも、薬を与えることもできない。死神に見込まれたら、貧乏人はそれに従う他に何もできない。いや、何もできないのではなくて、腕をからめて抱きしめてやればよかった。楽しかった頃の思い出を語ればよかった。共白髪までの未来を約束すればよかった。苦しい体をさすってやればよかった。

 俺は、ばかだ。

第二の人生~子らを思う歌

 これは教科書にもに乗っている有名な歌です。長い歌が多い憶良には珍しい短さで、序が3行、長歌が575757577、そして57577の反歌です。序を省いて掲載しましょう。

瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして思(しの)はゆ 何処(いづく)より
来(きた)りしものそ 眼交(まなかい)に もとな懸(かか)りて安眠(やすい)し寝(な)さぬ
 
反 歌
銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに勝(まさ)れる宝子に及(し)かめやも

 この歌は69歳の時であり、実際に小さい子供が居る頃ではありません。憶良は状況を設定して歌うという手法を用いているのであって、自らの事情に限定して歌っているわけではありません。省略した序では、釈迦の愛を説いているのですが、実は釈迦の博愛を、親の子に対する愛にすり替えるという荒業を行っています。これは仏教の教養のある人には強烈なメッセージ効果があります。百済難民の憶良にとって故郷と呼べる場所はなく、どこであっても住める所には住むものの、どこも故郷にはなりえません。あえて言えば京都でした。都会人なのです。従って子供や家族が最大の財産であり、拠り所でした。この明快な価値観は現代にも通じるものと思います。

第二の人生~貧窮(びんぐ)問答の歌

 730年に旅人は大納言に昇進して帰京しましたが、この年に防人が廃止されました。旅人らの外交努力で、新羅や唐との軍事的緊張を解き放すことができたのです。そして、翌731年に旅人は死去しました。この年に73歳の憶良も帰京が叶うことになりました。その帰京に際してこの貧窮問答の歌を創作したのです。

 これは貧しい私ともっと貧しい人、つまり貧と窮とが問答を交わすという奇抜な形式です。ここで歌われている貧乏は本当に悲惨であり、それは庶民のありのままの姿でもありました。当時の憶良はリッチな国司ではありましたが、国司として地域の実情をつぶさに見聞していました。この歌は一種の行政レポートであって、文末に誰かは不明ですが、要職の人物に提出したものと注記が入っています。

第二の人生~絶筆三部作

 憶良は京都に帰った後、74歳での死の年に長大な作品を残しています。「沈痾(ちんあ)自哀の文」、「俗道悲嘆の詩」、「老身重病歌」の三部作です。

 まず「沈痾自哀の文」は長い散文です。トイレへ立つのに天井の梁から長い布を垂らして、それにつかまってようやく立ち上がるような状態で、何ともつらく老病の至りです。このような苦しみを背負いながらも、いやそれだからこそ生命の尊さを認識したのですが、次に続く言葉が、「言はむと欲りて言窮まる。何を以ちてかこれを言はむ」です。何という絶望でしょうか。憶良ほど言語の力に絶対の信頼を置いていた人は無かったのですが、この苦しみの中で生の尊さを表現する言葉が全く見つからないのです。そして死んでしまったら、生きているネズミ以下だといいながら、最後にはネズミに例えたとは、なんて恥ずかしいことかと、結びます。これが憶良です。

 さらに「俗道悲嘆の詩」では、「心力共に尽きて寄る所なし」という絶望に至るのです。そして一部、二部のうねりを受けとめる三部である「老身重病歌」では、まず長歌で病がつらく死んでしまいたいと思うのだが、幼い子供達を残しては死ねず、思い悩んで泣くばかりだとして、6首の反歌を続けています。74歳の憶良に幼児が居るはずもなく、ここでは親の子を思う姿を一般化して表現しているものです。憶良は私小説作家ではなくて、様々な主人公に仮託しながら、自己の嘆きを普遍化する手法を取っているのです。死を目前にして、立ち返る所は家族愛であるとは、故郷を持たない憶良の帰結です。そして最後の第6反歌は、彼が筑前守として赴任する前に作った、千年も生きたいという歌をはめ込んだのです。このようにでもしないと、とてもまとまるような思いではありませんでした。

歌人としての第三の挫折と現代での再評価

 万葉集編集者のひとり、大伴家持は憶良と親しく接していたこともあって、歌の評価は後世に任せよう、個人的な歌でも、空気を読めないような歌でも、卑賤の者の歌でも、選者が評価しきれない歌でも何でも入れてしまおうという態度だったので、世界に類まれな国民的アンソロジーが編まれました。その中でも憶良は士(おのこ)だったら名を残したいとの強烈な自己愛に満ちていて、当時ですら異端でしたが、その作品はその後の風雅の気風に合わず、評価されずに埋もれてしまいました。死してなお、第三の挫折です。長く埋もれたまま、明治時代になってやっと評価されたといいます。

 レッテルを貼るようで躊躇するのですが、誤解をおそれずに言えば、真に庶民の立場で創作したということでは、世界初のプロレタリア文学者でした。彼自身はノンキャリアとしては最高の出世をしたのですが、元々は難民であった頃の父母や、同郷の人々の苦労を忘れることはできませんでした。伯耆や筑前の国司として民衆の実情をつぶさに知るにつけ、民衆の代弁者として自己を再定義するように突き動かされたのでした。そして無産者という立場に仮託して作品を書けば、自らの現実である老病もまた、若さや健康を失った状態であり、立つこともかなわず人間としての尊厳を損ねる中で、貴賤を問わずに必ず訪れる運命を正視することが、彼の一貫した創作の対象となったわけです。

 最初は旅人の妻の死をはじめとする、幾つかの挽歌で死を悼んだのですが、その視点から、生のぎりぎりの状態に視点を向けることで、仏教の無常感に現実的な肉づけをしました。「ゼロを見つめる歌」の作者は、そこから人間性を問い続けたのです。

 故郷を持たない憶良が永遠である道は、自分の子供達が生き続けることに加えて歌で名を残すことでした。死後千年以上の時を経て、それが成就したのです。

(2013.2.2 榎本博康)

主な参考文献

  1. 中西進:悲しみは憶良に聞け、光文社 (2009.7)
  2. 大久保廣行:筑紫文学圏論「山上憶良」、笠間書院 (1997.3)
  3. 谷口茂:外来思想と日本人「大伴旅人と山上憶良」、玉川大学出版部 (1995.5)

 

数年前に撮影したものですが、19世紀の古写真風に加工してみました。(大宰府天満宮)
数年前に撮影したものですが、19世紀の古写真風に加工してみました。
(大宰府天満宮)

 

山上憶良想像図
憶良の肖像画は全く見当たりませんでした。古代から近世にかけて、全く人気が無かったのが分かります。ひげが薄いことは本人も言っているので、思い切って貧相にしてみました。憶良さん、気に入っていただけますか。
(山上憶良想像図)

榎本博康(えのもとひろやす) プロフィール

榎本博康(えのもとひろやす)  

榎本技術士オフィス所長、日本技術士会会員、NPO法人ITプロ技術者機構副会長

日立の電力事業本部系企業に設計、研究として30年少々勤務し、2002年から技術士事務所を横浜に開設して今日に至る。技術系では事故解析や技術評価等に従事する一方で、長年の東京都中小企業振興公社での業務経験を活かした企業支援を実施。著作は「あの会社はどうして伸びた、今から始めるIT経営」(経済産業調査会)等がある。趣味の一つはマラソンであり、その知見を活かした「走り読み文学探訪」という小説類をランニングの視点から描いたエッセイ集を上梓。所属学協会多数。

 

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