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オーガニックコットンで仕立てる商品が私の自然体。株式会社新藤 藤澤徹さん

by staff on 2010/7/10, 土曜日

オーガニックコットン天衣無縫

 50年前にお父様がご商売を始められたのが横浜市中区若葉町です。伊勢佐木町に隣接するこの場所は、昔も今も多くの飲食店で賑わっています。
「ヨコハマこの人」の第三回目は、「天衣無縫」というブランド名でオーガニックコットンの商品の企画・製造・販売で事業展開をされている株式会社新藤(しんふじ)の藤澤徹社長にお話を伺いました。

 お父様から会社を引き継いで四半世紀。その間、業種転換と業態転換を経て、「オーガニックコットンのパイオニア」としてご活躍中です。

オーガニックコットン天衣無縫の藤澤徹さん  

名前:藤澤徹(ふじさわとおる)さん
出身地:横浜生まれの横浜育ち
年齢:63歳
家族構成:妻一人 子供二人
現在の住居:横浜市南区永田
職業:株式会社新藤 代表取締役社長
会社のHP:http://www.tenimuhou.jp/
天衣無縫(オンラインショップ):http://shop.tenimuhou.jp/
 
 

 

天衣無縫が生まれるまで

新藤誕生までのストーリーは

 父は、滋賀県出身で戦前に京都で商売を始めました。戦後、横浜に出てきて自転車で帯締めや草履、バックなどの和装小物の販売を始めたそうです。55年前ここ横浜市中区若葉町に2階建ての店舗兼住宅を建てました。和装小物の卸業としてそれなりに繁盛していて、いつも10人くらいの自分より少し年上の住み込みの若い社員がいて、私たち家族も一緒に暮らしていました。

 私は横浜の小中学校を卒業後、平沼高校から東北大学に進学しました。その時は、「商売人には絶対にならない」つもりでした。

 というのは私が中学校3年の時に、大口得意先の倒産が重なって、父の会社も倒産してしまったのです。そのときのつらい経験が私を商売から遠ざけたのです。その後、父は努力して1962年(昭和37年)に会社を再建しました。新しい出発ということで社名は 株式会社新藤(シンフジ)にしました。その株式会社新藤は今年で48期目を迎えています。

なぜ商売を継ごうとされたのですか

 父が老齢で病気になったこともあって、26年前、1984年36歳のときに入社しました。業種は相変わらず和装小物の卸で経営は厳しい状況でした。売上と同じくらいの負債があり、従業員への給料も分割払いでした。私の給料は18万円で3分割で支払われるという状態でした。実家でなければ辞めていましたね。

 
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天衣無縫ショールーム
天衣無縫ショールーム
天衣無縫ショールーム
天衣無縫ショールーム

それで業種転換を図ろうとされたのですね

 日本人のライフスタイルが変わって、着物を着る人が少なくなって和装小物の需要が減ってきました。これでは商売を続けることができないということで、「毎日使うもの」「継続的に変わらずに誰にでも必要とされるもの」は何だろうと考えました。そこで「タオル」に注目したのです。和装小物の卸売をするかたわらでタオルの営業も始めました。B級品のタオルを仕入れてきて、家族で夜なべして仕分けて使えるものは呉服屋さんの店頭で、使えないものはガソリンスタンドへと販売しました。

 とにかくお金を作るために何でもしましたね。母親が「リサイクルブティック」を始めたのもその頃です。ブランド品のバック・ドレス・着物を取り扱って、伊勢佐木町のクラブのママさんたちや商店街の奥様達に重宝されていました。毛皮の販売や横須賀の米軍基地に和装小物を販売に行ったりもしました。

 家族の収入を生活費以外は全部積み立てて、それを資本金に転嫁して取引先への支払いに回していました。

 5年間にわたって朝から晩まで土日もなく働きました。従業員の給料や仕入先への支払いが約束通り実行できる会社にすることを第一の目標にして、がむしゃらに働きました。

転機が訪れたのはいつですか

 それはYES’89の横浜博覧会ですね。公式キャラクター「ブルアちゃん」をデザインしたTシャツやタオルを制作販売することができたのです。1988年からのプレイベントで販売したのですがよく売れました。そのときに百貨店とのご縁ができて、後の出店につながりました。これがモノづくりをはじめるきっかけにもなったのです。

どうして業態転換をされたのですか

 セゾングループの堤清二さん等の「問屋無用論」に影響を受けて問屋からメーカーになろうと考えたのです。デザイナーを採用して、オリジナル商品の企画・製造・販売を作り始めました。私も東京テキスタイル学院に勉強に行って織物・染物を学んだりました。

 1991年(平成3年) に私が社長になったときに目指したのは、製造と販売の一体型の企業です。その頃、神奈川県中小企業家同友会に入会して経営指針を作成しました。新しいブランドを立ち上げたいと考えていました。

 

天衣無縫を志す

オーガニックコットンとの出会いはその頃ですか

 1993年に繊維新聞でオーガニックコットンの記事を見たのです。農業で使用されている有害化学物質の総量の約25%が綿花の生産に使用されているという内容でした。綿の栽培に使用されているのは、世界の耕地のわずか3%です。にもかかわらず、大量の化学肥料や除草剤、殺虫剤、枯葉剤などがそこで使われているのです。さらにショックだったのは、綿花の収穫前に、広大な畑に枯れ葉剤が飛行機で散布されていたことです。枯れ葉剤はかつてベトナム戦争で米軍が化学兵器として使用していたことで有名です。このような綿を原料にしたタオルは作りたくないと強く思いました。

 私はその後アメリカテキサス州の農場を訪ねました。そこでは少数の綿花生産者が従来型の化学農業をやめて、有害化学物質を一切使用しない有機農業に切り替えていました。

 このようなきっかけで、1993年に、オーガニックコットンを原料とした製品の製造・販売を日本で始めるようになったのです。

オーガニックコットンのビジネスは順調でしたか

 最初の3年間は全然売れませんでした。1カ月の売上が人件費にも満たない月もありました。でも私は環境問題の観点からもオーガニックコットンを広めていきたかったのです。このマーケットは必ず広がると確信していました。アトピーの方や自然食品に関心のある方など、お客様がだんだんついてきました。

 1996年(平成8年)に京急百貨店から話が持ち込まれ、出店することになりました。その時につけたブランド名が「天衣無縫」です。「天衣無縫」とは、天女の衣には縫い目がないことからから「詩歌などに細工やわざとらしさがなく、自然に美しくつくられていること」を意味する言葉です。これは素晴らしい言葉だと思ってブランド名にしました。オーガニックコットンの専門店を百貨店で始めたのはうちが最初だったと思います。

 ここ10年ほどで環境問題が広がってきて、消費者の意識が変わってきました。

2000年(平成12年)に 「天衣無縫」の横浜高島屋店と港南台高島屋店を開店しました。その頃から売上が伸びていきましたね。

 2004年(平成16年) に 「天衣無縫」の日本橋高島屋店と「天衣無縫」の玉川店を
開店しました。 玉川店は直営店です。

 17年かけて、オーガニックコットンが主力になりました。特にここ数年で目に見えてお客様が増えてきました日常生活に不可欠な実用品として受け入れられるようになってきましたね。

 
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天衣無縫ショールーム
天衣無縫ショールーム
天衣無縫ショールーム
天衣無縫ショールーム
天衣無縫ショールーム
天衣無縫ショールーム
天衣無縫ショールーム
天衣無縫ショールーム

これから何を目指されていますか

 オーガニックコットン製品の市場は飛躍的に拡大して、当初から50倍の規模になっています。新しい市場が拡大する時に必ず起きるのが原材料の水増しや偽装の問題です。オーガニック綿に一般綿を混ぜても、その比率は分析できないのです。経済産業省でも遅まきながらガイドラインを作りました。

我が社は本物だということを示すためにも、トレーサビリティにこだわっています。
オーガニックコットンが生産されて商品になるまでをきちんと管理していくために2009年1月15日にGOTS(オーガニックテキスタイルの世界基準)の第三者認証を取得しました。この認証は原材料だけでなく製造プロセスなどについての厳しい審査があるので日本ではまだ4社しか取得していないものです。

それから人を育てたいですね。20~30歳台の販売スタッフが、オーガニックコットンの魅力をお客様に伝えられるようになってほしいです。本物を使うことが将来の暮らしを豊かにすることにつながることを彼女たち自身に理解してもらいたいです。

 
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天衣無縫ショールーム
天衣無縫ショールーム
天衣無縫ショールーム

 これからが我が社の勝負どころだと思っています。環境、健康にいいだけではなくて、おしゃれで縫製もよくて何度でも身につけたくなるような魅力的な商品を創り出して、ファン作りをしていきたいと思っています。

いろいろなご苦労もされてきたようですが、ここまで頑張ってこられたのはなせですか

 そうですね。商売はしんどいけれど厳しいけれど楽しいです。日々何かを作り出していくこと、良い仕事をしていくことが商売の醍醐味だと思っています。

 オーガニックコットンを続けてこられたのは「やりたい仕事」だったからでしょか。自分の生き方として「地球環境に正しいことをしていきたい」というのが根底にありましたから。

 私たちはオーガニックコットン商品の製造・販売を通して命を大切にすることを訴えていきたいと考えています。

 自分以外の生命体を尊重する、協調して補完して支えあっていけるような社会を目指していきたいですね。

 

見直して、咀嚼して。横浜とつき合う

藤澤さんにとって横浜はどのようなところですか

 横浜は自分のふるさとですが、若いころは否定したこともあります。外からは人気があるが住んでみるとイメージだけの町だなと思ったりして・・

 最近は、それでもいいのではないかと思っています。伊勢佐木町や若葉町には横浜の下町人情があります。誰でも受け入れてこばまない町ですね。

 横浜には可塑性というか、変わっていく可能性があります。好奇心が強くて新しいものを取り入れる感性があります。

 もう一度足元を見直して、先輩たちがやってきたこと、若者たちがやっていることを自分なりに咀嚼していきたいと考えています。もう一度絆を作っていきたいですね。

横浜のイメージを書いてください

 なんだろう・・・横浜は、「ニュートラル」かな。。既成のものにとらわれずに、自由に変化してゆける街ということでしょうか?

 
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オーガニックコットン天衣無縫の藤澤徹さん
オーガニックコットン天衣無縫の藤澤徹さん

 

 藤澤様の静かな口調から、揺るぎない信念と「清冽」なエネルギーが発せられていました。
取材は横浜市中区若葉町にあるショールームで行いました。
ショールームには「天衣無縫」の商品が展示されていました。どの商品も優しくゆったりとした感じで、ショールーム全体にとてもいい「気」が漂っていました。

*「天衣無縫」とは、天女の衣には縫い目がないということから転じて、詩や文章などに、技巧のあとが見えず自然であって、しかも完全無欠で美しいことや、性格が無邪気で飾り気がない天真爛漫なことを指します。

 

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