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ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第13回 第3章 ビジュアルによる影響と成長 2

by staff on 2013/6/10, 月曜日

 

HEART&SOUL代表 原 正行

1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。

 

横浜、街と風(青い日記) 9

バンタム

 ボクシング部入部後は、来る日も来る日もロードワークと筋トレ、シャドゥーボクシングはひたすらジャブだけ。2ヶ月位してやっとストレートを教えてもらうと、ひたすらワンツーばかり。しかし、夏になる頃には慣れてきました。高校ボクシングは、1ラウンドが2分。休みが1分で計3ラウンド。体重で階級が分かれ一番下がモスキート級で45キロ以下。次がライトフライ級48キロ迄。フライ級51キロ。バンタム級54キロ。フェザー57キロ。ライト級60キロ。ライトウエルター64キロと上がっていきます。自分は普段から60キロくらいあったのでバンタムまで落とせと言われ、食事制限を始める事に。しかし、運動を続けてる体で落とすのは並みの努力ではありません。朝はトマト1個、昼は掛けそば、夜は少な目に普通の食事をしましたが、たまに馬鹿食いして元通り。それでも通常が57キロくらいにはなりました。大きく分けてボクサーのタイプは2つ。インファイトとアウトタイプで、インファイトはガードを固めておでこを打たせて相手の懐に飛び込み接近戦で戦うタイプ。アウトボクサーはリーチを伸ばし相手を近づけず距離をとって戦うタイプ。自分の身長は161センチ位で骨太。バンタムでも170センチ位が普通にいたので監督にお前はインファイトを目指せと言われました。

3人のヒーロー

 私がボクサーで一番すきなのはモハメッドアリでこれは別格ですが、この頃3人のヒーローがいました。一人目はフライ級世界チャンピオンの大場政夫でチャチャイ・チオノイとの劇的な逆転KOで防衛した後、愛車のコルベット・スティングレーで事故死。世界チャンプのまま帰らぬ人となりました。この時私は中3、本当にショックでした。
http://ameblo.jp/jesuscrist-0831/entry-11452457651.html

 もう一人は明日のジョー!。力石が死んだのを読んだのは上大岡駅の構内でしたがそのシーンを今でも覚えています。

 3人目はボクシング部の3年生だった糸数勤先輩。沖縄出身で自分と同じバンタム級でインファイト。2年生の時すでに社会人の部で全日本8位にランクされてました。よくサンドバッグを支えたのですがこの人のパンチの衝撃力は尋常ではなくて、堪えきれずどんどん後ろに押されてしまいます。絶対にこの人は世界チャンピオンになると確信していました。自分は可愛がっていただきインターハイの関東大会にも付き人で連れてってもらいました。糸数さんは3年の時高校生で相手になる人はおらずバンタム級の全日本高校チャンピオンになりました。その後プロに転向。8戦目でJ・バンタム級の日本チャンピオンになりました。1回目の防衛戦、伝説のボクサー、ジャッカル丸山との死闘は凄絶で、今でもボクシングファンの間で語り草になっています。かつてこんなに凄い試合を見たことがありません、今ならとっくにレフェリーストップになっているでしょう。
http://movie1.search.biglobe.ne.jp/video/watch/7e5ef396d8cc1eea

 この試合の後しばらくして先輩は引退。燃え尽きてしまったのかも知れません、今は沖縄に在住しているそうです。こんなヒーローたちに憧れボクシングに夢を見ていました。

 話は少し戻りますが、小学6年の時、脳溢血で倒れた母の意識が戻ったと連絡があり、病院に駆けつけると私の顔を見て、「マコト、マコト」と言います(まことは母の弟の名前)。「お母さん、僕が分からないの?」、最初は冗談かと思いましたが「マコト」を繰り返すのを見て母は本当に自分が分からなくなったと気づいた時愕然としました。

 母は静岡で大きい病院の長女として生まれ、何不自由なく育てられ、性格ものんびりとおっとりしていて怒った所は殆ど見たことがありません。幼い頃からピアノを弾いていたそうです。

 聞くところによれば、母方の先祖は徳川慶喜のかかりつけの医者で、母の弟の真氏(私の叔父)も静岡で大きい病院の院長。母の妹は若い頃ミス静岡に選ばれた程の美人で、母もぽっちゃり系の美人でした(母のパッチリした二重瞼は兄に遺伝してしまい私は父方の奥二重をいただいてしまいました)。

 そんな母がバリバリの商売人の原家に嫁いでからは、厳しい祖母のもと満足に寝るひまもないほど働かされて、相当苦労したそうです。家が倒産し家業から開放され家族4人一軒屋に住んでから倒れるまでのわずか3年ほどが彼女が幸せで安らいだ短い時間だったのでしょう。一度目に倒れた時は、それほどではなくすぐに普通の生活に戻りましたが、二度目は完全に意識不明。医者からも危ないと言われていましたが、奇跡的に意識は戻りましたが、殆どの記憶がとび、左半身は麻痺した状態で寝たきりの入院生活を送ることになったので、ヘルパーさんを雇ってつきっきりの看病をお願いすることにしました。

 ところがある日、母の背中に床ずれがあることが発覚。私も見ましたが背中にぽっかりと穴があき、なんと背骨が見えています。寝たきりの母は何時間か毎に寝返りを打たせなければならなかったのですが、ヘルパーさんがその業務を怠ったのです。父は激怒しヘルパーを首にすると仕事が終わると殆ど病院に寝泊りし寝返りからシモの世話まで父が自分でやりました。母も我々子供の事は分からなくても父だけは分かるようでした。そんな状態が何年か続き父の献身の甲斐あってかほんの少しずつ快方に向かっていきました。

 中3の頃、母が入院していたのは金沢八景にある病院の古い木造の病棟で、その部屋には老いて寝たきりになった女性ばかりが10人ほど入院していました。ある初夏の晴れた日、見舞いに行くと、病室から美しい歌声が聞こえてきます。入り口で私は思わず立ち止まり聞き入りました、母でした。やがて歌い終えると、「光子さん○○歌って」と、隣のおばあさんが母にリクエスト! すると母は、また澄んだソプラノで女学校時代の流行歌や童謡を歌いだします。何人か涙ぐんでる人もいました。母の歌は彼女達の癒しでした、しかし見舞いに行くたびに同じ病室の人が一人また一人とその姿を見かけなくなっていき母もとても寂しそうでした。

第3章 ビジュアルによる影響と成長 2

エド・サリバンショー

 テレビの普及により、ビジュアルの影響は映画からTVへと以降してゆきます。アメリカのTV番組エド・サリバンショーにビートルズが出演した時は、米国民の60% 7300万人が見て放映時間中青少年犯罪がゼロだったと言われています。

 50年代から80年代頃まで、エド・サリバンショーは年齢層や富裕の差をこえてテレビを所有するほぼすべての国民が見ていた米国最高のバラエティで、あらゆる音楽やオペラ、演劇、お笑いと、当時アメリカにおける最先端のエンターテイメントを放送していました。

 日本でも放送されましたが、幼かったからか自分にはかすかな記憶しかありません。アメリカを代表する番組だった為、出演者にはその品位が問われ、エルビスが出演した際にはその腰の動きが卑猥だとクレームがつき、腰から下を移さない様にして放送。本当は出演させたくなかったのでしょうが、ここでプレスリーを出さなければ若者達にそっぽを向かれてしまいます。

 70年代に入ってもストーンズにセックスを連想させるのはいかんと歌詞を変えて歌わせたり、まだまだロックには体制に壁がありました。ドアーズ出演時は今でも伝説で、“ハイ”は麻薬を連想させるとして歌詞を変えて歌うよう指示したのに、生演奏本番でボーカルのジム・モリソンは、そのまま歌って番組側を激怒させたりしました。本来ロックミュージックには反体制が基本にあります。こんなお堅い番組でも若者達の圧倒的な支持には抗しきれず、受け入れざるを得なかったのでしょう。こうしてビジュアルはロックの変化と成長をもたらしたのです。

変化

 他にも、ディック・クラークが司会者をつとめたアメリカン・バンド・スタンドは、最新のヒット曲を出演者やバンドが演奏する人気の歌番組でした。

 50年代中頃最初は地方だけでしたが、あまりの人気で全国放送となり、夕方の4時位から放映されたのは学校帰りの裕福な白人のティーンネイジャーをターゲットにしていた為でした。黒人の若者は貧しかったので、放課後は働かなければなりません。最初のうちは白人の出演者のみで黒人歌手のヒット曲が売れると白人歌手がカバーしたバージョンを放映していました。

 しかし60年代を超えると、視聴者からオリジナル本人出演の要望が多くなり、少しずつ黒人歌手も出演していくようになります。当時の彼らは服装もバリッと正装のスーツで決めたり、髪もちりちり髪をストレートに伸ばしたりカツラをつけたりして、白人達に迎合するような出で立ちでした。

 サムクックがユーセンドミーをヒットさせこの番組に出演した時も、まだ白黒でしたが観客席は全員白人の若者でまったく受けずそっぽを向いているものまでいる始末で、本人もやりずらそうにしている映像が残っています。それでもこの番組は60年代を通してロックミュージックの貴重な映像を送り続けその成長に貢献していきます。

 黒人音楽もモータウンミュージックなどと共に白人にも受け入れられるものを中心に流していきます。しかし60年代終わり頃にはベトナム戦争の泥沼化で戦争反対を表現するヒッピー文化が生まれたり、ロックも形を変えゆき、また黒人社会も公民権運動をへて白人に迎合するのではなく、黒人としてのプライドをもって生きようという空気になって行きます。

 髪はそのまま伸ばしたアフロヘアが主流になり、ブラックイズビューティフルを合言葉に、ジェームスブラウンやカーティスメイフィールドらを中心に変化を遂げていきますが、そんな頃生まれた番組がソウルトレインでした。

ソウルトレイン

 それまでテレビ番組でソウルミュージックだけを扱う番組はありませんでした。アメリカ海兵隊帰りの黒人青年ドンコーネリアスが始めたシカゴのローカル番組が人気となり、1971年10月から全国放送に、当初は黒人(アフリカ系アメリカ人)の若者を支援するという目的で始められました。

 毎回何組かのミュージシャンによるライブとソウルトレインダンサーズによる華麗なダンスで構成され、彼らによる音楽とダンス、そして最新のファッションは常に話題になりアメリカ各地にできつつあったディスコと共に成長して、70年代中頃にはピークを迎えてアメリカ最高の音楽番組としての地位を確立しました。ソウルミュージックの発展、成長はこの番組と共にあったと言っても過言ではないでしょう。

 日本でも70年代中頃テレビ東京で放映され、我々の世代はこの番組のおかげで黒人音楽に触れる機会を得たともいえます。(ジュンとロペのCMがめちゃかっこ良かった)

 また、ディスコの繁栄もこの番組なくしてはありえなかったでしょう。番組はアメリカでは2006年まで放映されてたそうで司会のドン・コーネリアスは’12年に逝去されました。

HEART&SOUL代表 原 正行)

 

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