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「日本一明るい経済新聞」神奈川版を発行する、
かながわ経済新聞代表、相模経済新聞編集長 千葉龍太さん

by staff on 2013/12/10, 火曜日
かながわ経済新聞代表、相模経済新聞編集長 千葉龍太さんかながわ経済新聞代表
相模経済新聞編集長
千葉龍太さん
 
お名前 千葉 龍太(ちば りょうた)さん
ご年齢 30代
お住まい 横浜市港北区在住
ご職業 「日本一明るい経済新聞・神奈川版」を発行する、かながわ経済新聞代表、相模経済新聞編集長
HP 相模経済新聞
http://www.sokeinp.com/
日本一明るい経済新聞
http://www.akaruinews.com/
ご趣味 格闘技(空手4段、キックボクシング)
ご性格 まっすぐ

千葉さんは横浜のご出身なのですよね?

 そうです。神奈川区生まれです。地元は新子安周辺になります。小さい時から格闘技大好きで、がき大将でけんかばかりしていました。小学生のときから新聞記者になるのが夢でした。なぜかというと・・・新聞記者になればいろいろな人に出会って、いろいろなところに行けると思ったかえあです。歴史が大好きで小学生の頃、すでに三国志や水滸伝を読んでいました。一方、強いものへ「あこがれ」もありました。中学校に入るとフルコンタクトの空手を習い始めました。

 高校は県立の普通高校に行きました。進学校ではなかったので、気楽な生活送っていました。コンビニでバイトしてたりして、給料が出ると同級生と遊んでばかりいました。空手は続けていましたよ。大きな声では言えませが、他校の生徒とよくけんかもしました。ずっと反抗期が続いていた気がします。同級生の家に遊びに行ったときでした。その父親は大手通信社で記者をしている人でした。たまたま家にいたので、「新聞記者になりたい」といったら、「ちゃんとした大学に入らないと無理だよ」と言われました。一念発起して勉強することを決意しました。教師だった母親が病気になったことも契機になりました。そのときに初めて迷惑ばかりかけていたことを反省しました。

 高校3年生の夏休みから一日10時間程度勉強しました。「自分は試されている」と信じて「逃げてはダメだ」と心に言い続けました。その成果もあって全国模試の偏差値が38から65まで上がりました。いよいよ大学受験。第一志望、第二志望は落ちましたが、第三志望の大学に合格しました。なんとか大学生になれました。

 早速、空手部に入部しましたが、他の部員とレベルが格段に違っていました。これでは空手部に所属する意味がないと考えて、道場通いに切り替えました。より強くなるために、本格的にキックボクシングも始めました。

 本当は女の子が多くいるテニスサークルなんか入りたかったのですが、「何事も一つの道を極めなさい」という父の言葉もあって続けました。大学時代はまさに格闘技一色でした。空手やキックボクシングのほか、ボクシングや中国拳法も習いました。ボクシングでは元世界ランカー、中国拳法では多くの熟練者に出会い、教えを受けました。いろいろと挫折もしましたが、その度に、よき師、先輩たちとの出会いがあり、強くなれました。そして、さまざまな大会に出てタイトルを取ることができました。全日本総合格闘技大会で優勝したり、K2グランプリでも入賞しました。「プロのキックボクサー」としてリングにも立ちました。でも、そのために大学を留年してしまいましたね。

 記者になりたかったので、格闘技の世界で生きていこうとは思いませんでした。でも、格闘技ばかりやってきた人間にとって、現実は厳しいです。当時は就職氷河期だったこともありますが、就職活動でマスコミ各社を受けますがすべて全敗しました。それでも諦められず、大学を卒業した後も、マスコミ向けの予備校に通いながら就職浪人しました。就職浪人の期間中は、工事現場のアルバイトなど10を超えるアルバイトを経験しました。

最初はテレビ局に入社したそうですが

 その後、コネなしで某大手テレビ局に合格しましたが、ニュース番組を制作したくて、就職したのは報道専門の某CSテレビ局でした。でも、実際の職場はイメージとはかけ離れていました。そのテレビ局では番組制作や取材は、下請けの制作会社に丸投げしていました。取材をやりたかったのに、それがかなわないこともあって悶々とした毎日を過ごしていました。そんなとき、たまたま見た、日刊工業新聞の記者募集の求人広告を見ました。チャンスと思い応募して、無事内定しました。2001年のことです。ご存知のように日刊工業新聞は、産業専門の日刊紙です。似たような新聞ですと日経産業新聞があります。

 記者の第一歩は相模支局から始まりました。入社してすぐにそこに配属されました。相模支局は相模原や厚木など県央地区を担当します。そこに立地する中小企業、とくに製造業を取材して、日刊工業新聞の首都圏版向けに記事を書きます。支局で記者は私だけだったので、毎日取材できて、うれしかったですね。とにかく、「記事は足で稼げ」と言われていたので、積極的に出かけていきました。そのときに相模原・厚木の中小企業の経営者の経営者の方々に非常にお世話になりました。半ば社会人になったばかりの自分に、世の中のこと、会社のこと、そして人生観など、いろいろなことを教えられました。それが今も財産になっています。

 東京本社の編集局第1産業部に配属になり、環境担当になりました。本当は相模支局に残留したかったのですが、そうはいきません。本社の記者として、霞ヶ関の環境省に詰めていました。ちょうど京都議定書が話題になった時期で、当時環境大臣だった小池百合子代議士の番記者も務めました。仕事を通じ、環境のことをより勉強したくなって、仕事をしながら法政大学大学院の環境マネジメント科にも通いました。

 3年後、配置換えにより製紙業界の担当記者になりました。担当になってすぐ、あの「王子製紙と北越製紙のTOB騒動」が起きました。各新聞によるスクープ合戦で毎日が緊張の連続でした。役員宅を夜回りして、他社にだし抜かれないかと心配していました。非常に厳しい取材が続きましたが、結局「王子製紙の事実上の敗北宣言」により、終わりました。もう精魂尽きた感じでした。

 1年後、今度は電機業界の担当記者になりました。流れが早いのが電機業界です。規模も大きい。当時は日本を代表する産業といえました。NECや富士通、パイオニア、ビクター…。大企業のトップに数多く取材し、日刊工業新聞の1面トップをよく書いていました。しかしながら、一生懸命やればやるほど、疑問が沸いてきました。果たして、これが正しい道なのかと。思えば、相模支局時代。中小企業の経営者たちに多く接してきて、その苦労もよく知っていました。そして彼らが産業を下支えしていることも。日本経済を支えているのは中小企業だ。しかし、中小企業の立場たった記事が書けていない。そんな思いにかられました。それにサラリーマン経営者と違って常にリスクを背負っている中小企業の経営者はおもしろい。

 2008年には思い切って神奈川新聞社に転職しました。愛する地元、神奈川新聞なら地元の中小企業の記事を書けると考えたからです。

配属された部署が整理部だったそうですね

 記事を書くぞと意気込んでいたのに、配属されたのは経済部ではなく整理部でした。整理部ではこれまでと勝手が違っていて戸惑うことばかりした。「人間至る所処に青山あり」とはよく言ったものですね。最初のうちは腐っていましたが、整理部でがんばろう・・何事も無駄にならない・・と信じて私なりに頑張りました。

 今思うと、整理部にいたから新聞のレイアウトを学べのです。念願かなって経済部に移ったのは、2009年でした。

 もともと、経済部は少ない人数で回しています。東京証券取引所や自動車工業会の記者クラブ、そして横浜財界を担当する横浜経済記者クラブなど、複数の記者クラブを掛け持ちしていました。横浜をはじめ、かつて回っていた県央地域の中小企業も積極的に取材しました。まだリーマンショックの余波が残っていて、どこも散々でした。かつての取材先が倒産したケースも目の当たりにしました。企業の相次ぐリストラで、お世話になった取材先の人たちが路頭に迷う光景も嫌というほど目にしました。そこで県内の町工場、地元経済に元気を取り戻してもらうため、月曜日の神奈川新聞経済面を「ものづくり面」にしてもらいました。これを1年間続けました。協力していただいたデスク、経済部長には今でも感謝しています。そのほか、横浜ベイスターズの売却問題、AIJ投資顧問による詐欺事件なども担当させてもらい、充実した記者活動を過ごせました。

なぜ相模経済新聞に入ったのですか

 そんななかですが、転機がありました。きっかけは、相模経済新聞の編集長に会ったことです。編集長は72歳の高齢で、「中小企業のための新聞を君に託したい」と熱く語られました。

相模経済新聞 http://www.sokeinp.com/

 給料は神奈川新聞の半分近くになってしまう・・・。でも、相模経済新聞は、かつてお世話になった相模原で愛されている新聞です。運命を感じました。世の中を、そして地元の産業を元気にするのも記者としての役割とも考えました。恩返しもしたかった。それが自分なりの男気でもあります。

 引き留められましたが、2012年10月に神奈川新聞社を退職しました。中小企業の現場の大変さを知っている自分こそが現場に役立つ明るい記事を書くことができると自負があります。

「日本一明るい経済新聞 神奈川県版」を発刊されるそうですね

 2代目編集長として奔走している中、自分と同じ志を持っている人が大阪にいることを知りました。中小製造業のための新聞、「日本一明るい経済新聞」を10年間作り続けている大阪の竹原信夫さんです。どうしても話を聞きたくて2013年5月、大阪にまで行きました。

日本一明るい経済新聞 http://www.akaruinews.com/

 竹原さんは元フジサンケイビジネスアイの経済部長で、現在は年間約500人の中小企業経営者に取材している伝説の記者です。

 明るい経済新聞は町工場の多い大阪で支持されている新聞で、発行部数3万部を誇ります。竹原さんはそれを1人でやっています。

 竹原さんにお会いしたときに、独立して自分なりの新聞を作ることを勧められました。

 ちょうどその頃、取材した厚木の経営者からもこんなことを言われました。「本当によい記事が書きたいなら、自分でも社長になってリスクを背負わないと、経営者の気持ちなんて分からない」

 そんなこともあり、2013年7月に独立しました。といっても相模経済新聞の編集は続けています。要は「サラリーマン編集長」から「外部編集長」になった訳です。

 たった一人で「かながわ経済新聞社」を設立しました。地元の経営者や商工会議所の応援もあって、商工会館にオフィスを構えられました。業務内容は相模経済新聞の製作代行、そして「かながわ経済新聞」の発行です。

 「かながわ経済新聞」は現在、発行に向けて準備を進めています。面白い紙面構成です。紙面左が竹原さんの思いを継承した「日本一明るい経済新聞・神奈川版」。そして右面が「かながわ経済新聞」です。

 購読料と地域(相模原、湘南、横浜)の経営者から、半ば「カンパ」とも言える協賛広告で成り立っています。

 協賛企業び数は20社以上になりました。全部、中小企業です。この時代に、嫌な顔を見せず、年間でも高い広告料を出していただく経営者の方々には本当に頭が下がります。その「男気」に応えようと頑張らないとと思います。かながわ経済新聞は日本初「中小企業に支えられた中小企業のための新聞」なんです。

 現在、毎年100社以上の現場を回っていて感じることは、「元気がある」「明るい」会社は伸びるということです。

 明るい会社の情報を発信することで、元気を分かち合えればいいと願っています。新聞を通じてビジネスマッチングができれば最高ですね。

いつも元気な千葉さんのエネルギーの源は何ですか

 人間が大好きなので、毎日多くの人たちにと出会うことで元気をもらっています。これまで素晴らしい出会いの連続でした。これからもきっと素晴らしい出会いがあると信じています。また、取材する立場の自分が元気でなければ、経営者の方にとって元気が出る記事も書けません。

千葉さんにとっての横浜は?

 「生まれ故郷。新聞で元気に」

 

(クリックで拡大画像)


いつもエネルギッシュな千葉さんに、そんな波乱万丈の人生があったとは・・想像もつきませんした。 中小製造業のために粉骨砕身されている、千葉さんの「かながわ経済新聞」と「日本一明るい経済新聞 神奈川県版」を私たちも応援していきたいと考えています。

(インタビュー:ヨコハマNOW代表 渡邊桃伯子)

 

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