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ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第19回 第4章 フォークからニューミュージックへ 5

by staff on 2014/1/10, 金曜日


 
 

 

HEART&SOUL代表 原 正行

1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。

 

第4章 フォークからニューミュージックへ 5

シュガーベイブ

 ここで又、日本の音楽シーンを大きく牽引していく才能を紹介しなければいけないのが、前出の山下達郎で、その音楽性の確かさと奥深さは語り尽くせません。作詞、作曲、素晴らしい歌唱力、コーラス、楽曲のアレンジ、どれをとっても世界に誇れる才能だと思います。更にドラム、ピアノ、コンピュータープログラミング、又、日本で屈指のリズムギターの名手でもあります。テレビには一切出演しませんが、そのアルバムセールスはダントツで、又、ラジオの名DJで個人所蔵枚数6万枚をこえると言われるレコード、CDを自らの番組でかけてそのポピュラー音楽にたいする造詣の深さに啓蒙され、彼に心酔する音楽ファンは音楽業界にも数多いといわれます。正にスーパーマン的な音楽家です。

 東京に生まれ、アマチュア時代に作ったビーチボーイズのカバーなどを録音した自主制作盤が元はっぴいえんどの大滝詠一の目に留まり、大滝主催のナイアガラレーベルとの交流が始まる。1973年にコーラスグループ “シュガーベイブ” 結成。大滝氏のバックコーラスや自分達のオリジナル作品などで精力的に演奏活動を始める。前にも書きましたがC、Aマイナーなど単純なコードで作られる音楽作品ばかり世にあふれる中で、メジャーセブンや分数コードを使ったサウンドを独特のセンスで使っていました。又、当時にして斬新なアレンジは新しすぎてライブスポットなどでは一般受けせずかなり苦労したそうです。特に関西ではブルースやハードロックがもてはやされ彼らの音楽はそっぽを向かれました。

 1974年になるとシュガーベイブはユーミンの2枚目アルバム “ミスリム” からコーラスアレンジを担当、そのセンスと力量を発揮、コーラスの仕事も増えますがまだ食べるのに大変だったのでCMの仕事を多数請けおい食いつないでいたといわれます。(三ツ矢サイダーやイチジク浣腸まで!)CM業界とのつながりはこの頃から始まり今に至っています。1975年にエレックレコードからアルバム “ソングス” とシングル “ダウンタウン” 発表。一部で話題になりコアなファンを獲得しましたが、一般的にはヒットには至らず翌年シュガーベイブは解散してしまいます。

山下達郎ソロデビュー

 1975年にはソロとして活動を開始、アメリカで録音されたアルバムでソロデビューします。そしてこの頃オールナイトニッポンの2部にDJデビューも果たしています。

 77年には2枚目のアルバム “スペイシー” を出したり吉田美奈子とのアルバム製作、クールスのアレンジやプロデュースなど精力的に活動しますが、売れ行きは中々思うように行かずこれが売れなければ引退と覚悟して作ったアルバム “ゴーアヘッド” の中のファンキーな曲調の1曲 “ボンバー” が大阪のディスコから火が付き徐々にヒットしていきます。続く “ライドオンタイム” が大ヒットして山下達郎はブレイクしました。大阪と言えば4年前位にはそっぽをむかれた場所なのにそこからきっかけが生まれるなんて面白い話ですね。

 私自信はいまでは彼に心酔している一人ですが、一番最初に聞いたのは東京で働いている時、始発待ちの喫茶店のBGMでウィンディ・レディを聞いた時で、なんてシンプルでかっこいい曲なんだと思い友達から借りた六本木ピットインの2枚組みライブを聞いてすっかりはまってしまいました。

 バックにドラムポンタ村上やピアノに坂本龍一を従え歌うその歌唱力と楽曲の良さ。以前からすこしは存在を知っていてかじってはいたのにこれほど素晴らしいとは気付かずにいた自分を反省しました。でもこれが彼が早過ぎて時代がついてこれなかったという事なのでしょう。邦楽のアルバムに英語のタイトルが並んでいるだけで何となく聞く気になれない、そんな時代だったのかも知れません。この頃むさぼるように聞いたゴーアヘッドは今でもフェイバリットアルバムの一つです。

*大滝詠一さんは、2013年12月30日に永眠されました。ご冥福をお祈りいたします。

 

横浜、街と風(私の高校音楽編) 5(20)

卒業

 失恋のショックも癒えず何をするにもやる気がない、バイトとバンドで疲れ気味で学校には中々行かなくなり3年の夏休みが終わるといよいよ卒業が危ういと先生に告げられます。父の仕事も上手くいかず経済的にも母をいつまでも入院させておくわけにも行かないと母は自宅に帰っていました。リハビリの効果もありこの頃は何とか壁ずたいに歩ける位には回復していましたがまだまだ半身不随のまま。看護と仕事で頑張っている父を見てると学校をなんとか卒業しないわけには行きません。

 この時の担任の入沢先生はときには頭を下げて各教科の先生の間を走り回ってくださり、こんな劣等性の自分を何とか単位を取れるようにしてくれました。がんばってなんとか出席日数を埋め補習やレポートの課題を必死でこなし3年の公式授業が終わっても確か卒業式ぎりぎりまで学校に行っていた様に記憶してますがその先生のおかげでどうにか卒業証書を手にすることができました、今でも心から感謝をしています。

乱闘

 卒業を目前に控え、バイトにもなれた頃、働いている店のオーナーが変ることになりました。前オーナーの親友でTさんという人でしたが、前オーナーの口利きでそのまま自分も居残りで働かせてもらえる事になりました。前オーナーが仕切る最後の営業日は引継ぎのパーティということになり、常連やオーナー達の友人が集まりバイト達にも酒が振舞われて無礼講の飲み会という感じになりました自分の友人も何人か来て奥で飲んでいました。夜も更けてそろそろお開きという頃、新オーナーが私に今ある椅子は買い換えるから壊して良いよといいました。こちらも酔っていたので「いいんですかぁ」なんていいながら椅子をけり壊したりしました。すると「じゃあ、弁償してもらおう、しめて××円ね。」耳を疑いました、「冗談しょう?」というと「本当だよ、給料から引いとくから」といわれ頭に血が上ってしまい酔った勢いもあったのでしょう、「ガキだと思ってからかっているのか!」とその新オーナーに向かっていき顔面にストレートパンチを入れました。それからはもみ合いになり殴り合いになりましたが新オーナーの友人達が自分を引き離し4人位で袋叩きにされました。ビンで殴りかかってきたのもいました。自分の友人達は止めに入ってくれましたが相手にならずその中の女の子が泣きながら見ていたのをおぼろに覚えています。やがて動けなくなると自分は本牧の路上に血まみれで放り出されていました、その後は記憶がありません。気が付くと全てが終わった店内に横になって昼のランチを任せれている女性スタッフに介抱されていました。しかし傷がひどく結局病院に行き、何針か縫ってもらいましたが今でも鼻の下と頭に数箇所傷跡が残っています。

 そのまま、バイトはやめることになり本牧で過ごした青春は終わりました。苦い思いでもありましたが本牧の町に対する思い入れは今も変っていません。

HEART&SOUL代表 原 正行)

 

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