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書評 「ほかげ橋夕景」 文春文庫 山本一力 著

by staff on 2014/3/10, 月曜日
 

 「天保十四年九月一日。暮れ六つ前。九月のおとずれを待ち構えていたかのように、風が冷たくなった。」一力さんの書き出しは季節や時間を感じさせる書き出しで始める。「とりわけ陽が沈み始めたころからの川風は、身震いを覚える肌寒さをはらんでいた。つい今し方まで、一匹の三毛猫が堀の水面を見つめていた。水辺の小石に近寄ろうとする小魚が気になっていたのだ。」

 天保十四年は1843年だ。江戸の時代、天保の時代とはどのような時代であったのだろうか。

(天保12年)> 1月27日
(旧1月5日)
【万次郎ら遭難】 万次郎ら土佐藩中ノ浜の5人の漁師がはえ縄漁のため宇佐浦西浜の港を船出。29日(旧1月7日)足摺岬沖で船が難破。
  2月4日
(旧1月13日)
鳥島に漂着。翌朝に上陸し、無人島生活が始まった。
  (旧3月) 駿河大地震。
  6月27日
(旧5月9日)
【万次郎ら救出】 万次郎らが鳥島で米国の捕鯨船に救助された。
  11月20日 ハワイに入港。
  12月2日 万次郎だけが米国に向かうことになり、ホノルルを出帆。 米上陸(1843年)
1842年
(天保13年)
8月29日 【南京条約】 清朝政府は全面的にイギリスに屈服、南京条約を締結しアヘン戦争は終結した。条約には香港の割譲、上海などの開港と通商などが盛り込まれ、イギリスがさらに中国へ進出する足がかりとなった。  アヘン戦争勃発(1839年)
  10月 幕府が奢侈禁止令を発令。
1843年
(天保14年)
3月 釧路・厚岸地震。
  11月4日
(旧閏9月13日)
水野忠邦が老中を罷免され、町人らが水野邸に投石などした騒動を起こした。
根室沖地震。厚岸に津波。死者46人。
1844年
(天保15年)
8月4日
(旧6月21日)
水野忠邦が老中に再任。  罷免(1845年)
  12月 [英]YMCA設立。
『三銃士』『モンテ・クリスト伯』(デュマ・ペール)[仏]

 世界史的には大きなうねりが起きている。鎖国中の江戸は、眠りのなかにいたのである。そこに一力さん「なくなってすでに久しい母親おきちが、五ノ橋をほかげ橋と名付けた。父(傳次郎)と娘(おすみ)の胸には、おきち(母)のつけた名が深く刻みつけられていた。」

 まさに橋は架け橋、心をつなぐのである。
 「傳次郎は結納を済ませてからは、ほとんど家で晩飯を食わなくなった。“川べりの一膳飯屋のほうが、涼味があって飯も酒も進む”今日のおれの晩飯はいらねぇ・・・傳次郎の外食は、八月に入っても続いた。」「おとっつあんは、あたしと晩御飯を食べるのをいやがっている・・・何度も傳次郎に確かめたいと思った。が、返事が怖くて、問わず仕舞いになっていた。風は、犬の遠吠えまで運んできた。」 「傳次郎は道具箱を橋板に置き、娘を両腕で抱き上げた。“橋の真ん中から見ると、常夜灯がともってもきれいねぇ”おすみと一緒に傳次郎を迎えた夏に、おきちは・・・。“五ノ橋では味気ないから、火影橋ってよぶのはどうかしら”すっごくきれい。いいなだぜ。おすみと傳次郎は、その場で火影橋の名を受け入れた。」

 腕のいい大工の傳次郎は生来の不器用者、仲居をしていたおきちは寡黙で愛想のない傳次郎に強く惹かれたのだ。その二人に待望のおすみが生まれたのだが、おきちは亮年三十四で心の臓に発作を起こして急逝した。

 「男には、やせ我慢がでえじだからさ。おれが話したことを、おめえさんはばらしちゃあいけねぇよ」「あいつはてえした男だぜ」祝言があさってにせまって常夜灯に明かりを灯すのが毎日の決まりごとの彦八がおすみに話しかけてきたのだった。そのあと「橋の向こうから、聞きなれた足が聞こえていた。おすみは急ぎ、涙をぬぐった。」

 おすみはおっかさんから教わった油揚げと豆腐の味噌汁を父親に作り続けてきたし、新年早々の客の、歳の変わらない若い職人にもつくってあげたのだった。

 嫁ぐ娘への配慮をする傳次郎を著者は静かに見守っている。

(文:横須賀 健治)

 

 

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