ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第22回 第4章 フォークからニューミュージックへ 8
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HEART&SOUL代表 原 正行 1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。 |
第4章 フォークからニューミュージックへ 8 -1976年~1977年-
クロスオーバー
海の向こうではクルセダーズやスタッフがそろそろ登場し始め、来たるべき80年代フュージョンブームの足がかりになっていきます。日本でもレコード会社所属のスタジオミュージシャンとは一線を画すロック上がりの若い腕利きのミュージシャン達が育ってきていて、これ以降のシンガーソングライターやアーティスト達のアルバムのクレジットを賑わしていきます。
坂本龍一、佐藤博、深町純(Key)、細野晴臣、小原礼(B)。村上ポンタ秀一、林立夫(D)、花形はやはりギターでアメリカデビューから帰ってきた竹田和夫(G)、四人囃子を抜けた森園勝利(G)、ジャズから渡辺香津美、大村憲司(G)等、そしてこの年ソロデビューした高中正義(G)、Char(G)等々そうそうたるメンバーが活躍、クロスオーバー(ざっくりですが異なったジャンルの音楽の融合)なんて言葉が流行ったのもこの頃です。
シンガーでも矢野顕子、桑名正博、山下達郎らがソロデビューしました。
当時横浜のライブハウス “グッピー” などでよく目撃したのが高橋ゲタ夫(B)、ジョン山崎(Key)あまりの上手さにぶっ飛んでいました。
アイドルロック
メジャー音楽業界もこの辺から変化を見せ始め夕方に放映していた “銀座NOW” などTV媒体をフルに活用しロック系アーティストから “アイドル” を育てる路線を開発していきました。「気絶するほど悩ましい」が大ヒットしたChar、「ティーンズブルーズ」の原田真二、「赤頭巾ちゃんご用心」がヒットしたロックバンドLAZYなどがブレイク! 硬派なロックファンからはやや冷ややかな視線(嫉妬?)で見られつつ女子中高生を中心に人気を集めていきました。
歌謡界のピンクレディーやキャンディーズは中高生はもとより子供から大人まで大人気。又そのサウンドは腕利きの若いアレンジャーやミュージシャンが手がけてい、て歌謡界のレベルもここまで来たかと思わせるに充分でした。キャンディーズのバックは日本のアースウインドファイヤーと呼ばれた後のスペクトラム。コテコテのロックファンにも隠れキャンディーズファンは数多く存在しました。
沖縄サウンド
この頃、ロックファンの注目を集めたのがアメリカから返還されてまだたいして日のたっていなかった沖縄から来たアーティスト達でした。アルバムが発売され、本土で盛んに演奏するようになると自然に私たちの耳に届くようになりました。酔っぱらい米兵の耳に鍛えられたミュージシャン達テクニックと迫力は驚きのサウンドで、ディープパープルのコピーから始まった “紫” 、特異な風貌とパフォーマンスがすごいインパクトだったコンディショングリーン、沖縄旋律をロックのビートに乗せた喜納昌吉&チャンプルーズ、「ハイサイおじさん」がありました、。
最初は異文化を感じ、受け入れるまで少し時間がかかったような気がしますが、沖縄音楽の魅力は浸透していき今では根強いファンを獲得しています。喜納昌吉さんの「花」は永遠に残る名曲だと思います。
横浜、街と風(社会人編) 8(23)
弾き語り
19歳になる少し前、吉野家の仕事にも慣れてきた頃に運命の一日が訪れました。
高校時代の友人S君に誘われS君の知り合いが店長をやっている上大岡のプロビデンスという店に飲みに行きました。そこは上大岡駅前の鎌倉街道を隔てた、はす前にある上大岡会館というパチンコ屋の二階で、昼はレストランで夜はお酒も出すこじゃれた店でした。未成年が、今更時効だとは思いますが、この日は確か奮発してサントリーオールドをボトルで注文。この当時はその形状から “ダルマ” と呼ばれかなりの高級ウイスキーでしたが、ガキだと思われたくなかったのでかなり背伸びをしていました。やがて正面のステージにさらさらの長髪でこぎれいな大学生風の男の人がアコースティックギターを抱えて歌い始めました。オフコースの様な透きとおる高音とギターテクニックに感心していると、彼の弾いているそのギターはなんと憧れの名器マーティンD-28ではありませんか!
ステージが終わりくつろいでいる彼に 「マーティンですよね、良い音しますね」 と話しかけると 「ちょっと弾いてみる?」 と言って触らせてくれました。自分は2万くらいの安いギターしか弾いたことがなかったので、当時でも30万円位したでしょう、ギターを感激していじくらせてもらっていると、横でその様子を見ていた店長さんが 「お前中々弾けるな、ちょっとステージで歌ってみないか?」 と一言。酔った勢いもありマーティンを貸してもらってステージへ、。35年も前なので定かではありませんが、確かデイブ・メイスンのギブミーアリーズンと陽水を歌ったと思います。お客さんもそこそこいてまあまあ受けたようでした。いい気持ちになって席に戻ると店長がやって来て言うことには、今いる弾き語りが事情があってやめるので良かったらその後釜にやらないか、ということでした。ギャラは月8万。夢のような話で即引き受けました。後から思えばこの日が私の人生を変えた運命の一日でした。
準備期間
やると引き受けたもののギターはボロボロで安物のギターしか持っていないし、1曲通して弾き語りでちゃんと弾ける曲は30曲位。その殆どが中学生の頃のフォークソングばかりで、飲み屋さんのBGMにはしっくりいきません。大好きなビートルズはコーラスがないと殆どの曲はさまにならないし、バンドで歌っていたロックはギター一本ではとても歌えません。当時の歌謡曲はまったく興味がなかったので分からないし。。。。そうして考えるとお店でやれそうなのは10曲もない感じでした。
そこでそのお店プロビデンスにギターを貸してくれた彼の演奏を研究しに通い、お客さんに受けの良い曲のチェックやステージでのおしゃべりなどを勉強しました。当時お客に受けていたのは流行の歌謡曲やフォークソング。プロビデンスは会社帰りの若いサラリーマンが多くてグレープ(さだまさし)やアリス、小椋桂など軟弱系フォーク寄りが人気だったので私にとっては苦手な分野でした。
朝から吉野家で夕方まで働き、夜はひたすら流行の歌謡曲を覚えギターを練習、歌詞とギターのコードを書いたノートが40曲くらいになった頃初日が近づいて来ました。
弾き語り初仕事
それまでプロビデンスのレギュラーで弾き語りをしていたのはマーティンを弾かせてくれた人で “マンタロウ” というあだ名で呼ばれていました。透き通るような高音は店に来るOL達に人気があり、自分より2つ年上で高校まで北海道に在住、ヤマハのポプコンの北海道大会で賞をもらい神奈川の大学入学を機に上京、シンガーソングライターでメジャーデビューを目指し夜は弾き語りのアルバイトをしながら生活していましたが、東京に行くために店をやめるということでした。まだ見習い同然の自分は仕事に慣れるまで2ヶ月程 “マンタロウ” と交代で30分位のステージを替わりばんこに演奏する事になったのです。
そうこうしているうちに初日がやってきました。遊びに来て歌わせてもらっているのとは訳が違いギャラをもらうのです。たった一人慣れないアコースティックギター1本の弾き語りでしゃべりもやって30分くらいのステージを3回やらなければいけません。もうやぶれかぶれ。当たって砕けろ。開店からまだ少しなので客は3組程度でしたが夢中で歌いました。
受けない。。。聞いてくれない。。。拍手もない。。。1ステージ終わったら汗びっしょりですっかり落ち込んでしまいました。その後 “マンタロウ” がステージに上がると彼は慣れたもので余裕で歌い、歌の合間のしゃべりで少しずつ雰囲気を盛り上げて背中を向けていた客も徐々にステージの方を向き出しました。10時頃にはお店も混雑して来てドサクサの中でなんとか初日が終了。 “マンタロウ” は歌も上手く、ギターのテクニックも駆け出しの自分とは雲泥の差。その差をまざまざと見せつけられ、はたしてこんな仕事が自分に務まるのか不安になってしまいました。
(HEART&SOUL代表 原 正行)
HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
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