セカンドライフ列伝 第15回 范蠡(はんれい)
榎本技術士オフィス/榎本博康
第15回 范蠡(はんれい)
軍事参謀から大実業家へ、生き続けることに賭けた生涯
時は中国の春秋時代の末期、と言ってもピンと来ない。私は高校の世界史で「春秋戦国時代は群雄割拠で、孔子が活躍した時代で、BC221年に秦の始皇帝が統一した。」と数分で習ったような気がする。余りにも昔なので、現代との結びつきは薄いようにも思える。だいたい春秋と戦国という別の時代区分と分かったのは、ずっと後のことだ。異説はあるが、春秋はBC770から、戦国はBC453からBC221までで、始皇帝に繋がる。もちろん、これは後の歴史家による区分であり、その時代の人々は知らないことだ。
では春秋と戦国で何が違うか、春秋はその前の周の精神的な威光が続いていて、周の天命の下の群雄割拠であり、実力者は覇者を目指したのに対し、戦国では何でもありであった。春秋時代の思想家、孔子の言葉は短く、戦国時代の孟子の言葉は長いことも、そのような時代背景があってのことだろう。
このような時代として「学習」すると、戦乱に明け暮れた暗黒の日々のように思えるが、一方多くの思想家を輩出し、戦争に伴う戦術や軍事技術の飛躍的な発展をもたらしたと共に、それを支える活発な経済活動が起こった時代でもあった。国家間の戦争に勝つためには戦闘能力が第一なのではない。国家の経済力と外交力、そして戦術であり、それらの総体としての戦略である。そのような中で、庶民も国家間の紛争を利用しつつ、したたかに生きる術(すべ)を会得していった。中国は統一国家であるときが、安定していて良いと思いがちであるが、各国が覇を競うエネルギーに溢れた時期もまた、この国の姿であった。
さて今回の主役は范蠡(はんれい、BC526~BC454)である。実は生没年不詳であるが、年齢を確定させないと物語が編めないので、文献1)に従うこととした。その他もこれに負うところが大である。
范蠡は越王勾践(こうせん)の軍事参謀として、ライバル呉王夫差(ふさ)を破って滅ぼし、勾践を覇王とした直後に越を離れ、斉へ移住して財をなし、さらに陶に移って財をなし、最後は朱公との名声を得て、73歳で没した。波乱の世を巧みに生き抜いた英哲であった。
例によって私の勝手な思い込みや曲解、良く言えば創作が多々あることを承知でお読み下さい。
序章:名門の嫡男
范氏は殷時代からの名門であったが、彼が生まれた場所は楚であり、4歳の時に越に入植したという。祖父、父共に政治には関与せずに、ひたすらこの江南の沼沢地帯を開墾し、奴僕を含めて200人を超す所帯をなして、范家屯と呼ばれていた。越都会稽(かいけい)の郊外であるが、後に范蠡が越を離れる頃には千人規模に拡大していた。この名門に生まれた若者は、家の教育方針によって、中国全土を隈なく見聞していた。
范蠡は越の政治顧問をしていた計然(けいぜん)の濮上(ぼくじょう)塾の正式な弟子ではなかったが、気が向いた時には訪問し、学んでいた。計然は聖哲孔子と同時代の経済学者注1)・数学者であった。彼の教えは明快である。「高い時に売り、安い時に買え。つまり商品と貨幣の循環を淀みなく行うこと、そのためには気象の変動周期など、科学的なデータを活用することである。そして民衆も含めて人を動かすには、金がおおきなモチベーションとなる。この要点を現実問題に冷静に適用すれば、必ず成果が得られる。」
(注1:中国での青銅貨による本格的な貨幣経済の普及は春秋時代の末期と言われている。朝貢貿易の時代から、国境を越えた民間レベルでの経済活動が活発化するには、不可欠なことであった。いち早く貨幣の本質を理解した計然の先見性は卓越している。彼は中国南部が米の産地であることから、その備蓄を図り、さらに貨幣の活用により商品との流通を円滑にして、国力の充実を図った。越はその後進性ゆえに、外国の学者達を何のしがらみもなく、活用できた。そして計然の指導で、経済を国家経営の基盤としたことで、初めて覇者への道を歩むことができた。)
その頃、時代は動きを加速していた。隣国の呉王闔閭(こうりょ)が、楚から亡命した敏腕政治家である伍子胥(ごししょ)と、孫子の兵法で知られる軍事戦略家である孫武を得て、大国楚に侵攻するなど、覇者への道を歩み始めていた。強力な軍隊を擁する呉は、発展途上の越を自分の属国とみなしていたが、楚へ侵攻している留守に越王允常(いんじょう)が攻め込み、両国の間は一挙に険悪になる。そして越王允常がBC496年に没して、23歳の太子勾践(こうせん)が王位に就くと、内政の整わぬうちにと、呉が越を本格的に侵攻するとの情報がもたらされた。勾践は計然を政治顧問とし、計然の推挙で塾の俊英、文種(ぶんしょう)を内政のアドバイザーとして採用して備えを固めようとした。
その頃、范蠡は30歳になっていた。彼は范家屯の頭首では収まり切らない自己との葛藤を覚え始めていたときでもあった。
第一の人生:隠れた軍略家
范家屯に迎えの車が来た。使者は文種である。
越王勾践は計然に軍事も託そうとしたが、年齢的なこともあり、専門分野も異なるため、彼は范蠡を推挙したのである。勾践は鶴書(かくしょ、天子からの招集状)を作ろうとしたが、范蠡はそれで召喚できるような男ではないとの計然の意見を容れて、文種を行かせることにした。
旧知の仲である文種は、いきなり范蠡に呉軍の侵攻にどのように対抗すべきかを問いかけた。呉の軍事の天才、孫武(孫子の兵法の著者)が越侵攻には参戦しないとの情報があるとも。すると范蠡の口から、画期的なアイデアがすらすらと展開されたのである。その作戦は枯葦(かれあし)の計と呼ばれ、戦場の地名から檇李(すいり)の戦と呼ばれた。
BC496年9月、呉軍は浙江の北岸に現れて布陣した。装備も軍事技術も当時最強の軍隊である。一方それを迎え撃つ越軍は南岸に陣取ったが、実は大多数が数を揃えるために採用したアルバイトである。思い切った高給なので、すぐさま募集定員に達したが、国庫は空っぽになった。バイト軍は葦に隠れてけっして姿を見せるなと命令されている。素人と見破られないためだ。ただ幟を掲げて打ち振り、意味ありげに狼煙を揚げる。そして肝心の戦闘部隊は、辺境の少数民族等を中心とした屈強の斬り込み隊であるが、200人編成が5隊しかなかった。もちろん越王の周囲には正規軍がいるが、それはすぐには使えない。
数日後の朝、激しく爆竹注2)が鳴らされ、その煙が晴れかかる中を、越軍から10人の決死隊が蛮刀を手に進み出て、横1列に並んだ。その異様な雰囲気に、なにごとぞと呉軍は固唾を飲む。するといきなり両手で刀を高くかざすと、そのまま自分の首を刎ねた。30分後にもう10人、さらにもう10人とこれに倣った。呉軍の背中に底知れぬ恐怖感が走った。
(注2:当時は未だ火薬が発明されていなかったので、青竹を火にくべて破裂させる、文字通りの爆竹であった。)
実は彼らは死刑囚であり、越の為に自刎(じふん)すれば、自らの名誉が約束され、残された家族は手篤く保護されると問いかけたところ、全員がこれに応じ、しかも見事にその役目を果たしたのであった。
そこへ、浙江に上げ潮が起こる時刻となり、小舟に分乗し、体中に入れ墨を入れた決死隊が勢いよく呉軍の真正面の浜に乗り上げ、偃月刀(えんげつとう)を振りかざして斬り込んできた。呉軍は思わず浮足立って後退する。30分ほど戦うと、第二隊を投入し、次々と新鋭部隊に切り替えていった。呉軍は河岸から北に30キロも後退し、檇李(すいり)の砦に至った。そこに越軍の勾践率いる本隊も到着し、激しい白兵戦が始まると、呉軍は砦を捨てて呉都のある東に敗走した。そして最強の第五隊が投入され、呉王闔閭だけをひたすら追い続けたところ、東に7里の呉領内で闔閭は流れ矢に当たって倒れた。呉都から急遽太子夫差を呼び寄せ、新王に任命すると共に、必ずや勾践を倒せとの遺言を残す。夫差は3年内の報復を誓う。
第一の人生:范蠡出仕する
国庫は空っぽになってしまったが、結構国内の経済は活発化した。あの高額のバイト代で、庶民の金遣いが良くなっていた。その様子を見ながら、越王勾践は范蠡をどうしても採用したいと思った。文種によれば、枯葦の計はすべて范蠡の作戦と読みの通りに展開されたという。よし、狩りに行こう、日を選べと命令した。
范蠡は常に旅をして諸国を見聞していた。確実に范蠡が在宅している日を特定し、勾践は王都を出発した。そして到着の直前に、使者は范家に越王訪問の帛書を届けた。かつて無い事態に范家屯は大騒ぎである。客殿に案内された若い王は、上座から有無を言わさず、一気に范蠡を説得しようとした。越の家臣になることは、人生の回り道のようであり、范蠡は決しかねていたこともあり、王をもてなす宴席の準備ができるまでの時間を稼ぐ必要もあり、しきりと菲才ゆえの辞退を繰り返していたが、家人からのOKサインを認めるとこう答えた。それでは建白書を執筆しますので、10日の猶予を下さいと。勾践はここで妥協し、案内されて席を替えた。
さて、約束の日に范蠡は建白書の提出に来たが、それは優れて具体的で広範なものであった。勾践は彼を予め用意した王宮内の立派な執務室に案内し、優秀な秘書官もつけた。もう逃げ場無し。范蠡は腹を括って、勾践の覇王への野望がかなうように献身することとした。
若く経験不足の勾践は重臣達の意見に良く耳を傾け、まずは国家経済の活性化と、軍備の近代化に着手した。越都の雇用は拡大し、地方からいくらでも労働力注3)が流入してきた。あの高額なバイト代の噂が、人々を惹きつけたのだろう。
(注3:当時は中国といえども南部の人口は少なかった。)
一方父の無念の臨終に接した呉王夫差は復讐心に燃え、臥薪(まきを寝床と)してその悔しさを日々新たにしているとの噂が聞こえてきた。
第一の人生:会稽(かいけい)の恥辱
中国の古代史は豪傑ではなく、往々にして美女が作る。范家屯に西施という中国史屈指の美女が住まっていた。別に愛妾にしようというのではない。范蠡が、幼女の頃に素質を見出して貰いうけた樵の子に、優秀な養育係をつけて秘密兵器として育成していたのだ。それを事もあろうか勾践が見初めて、妃に求めたのだった。越王を迎えた宴席で、西施の踊りを見せてしまったのが失敗だった。BC494年、勾践25歳、西施17歳、豪華な輿入れの行列を送りながら、范蠡は複雑だった。西施はもっと違う場面で役立てるつもりだった。
すると勾践は後宮から出てこなくなってしまった。それが3ヶ月後に突然会議を招集した。勾践は、呉がいつ復讐のために攻め込んでくるか心配でたまらず、それなら先手を打とうと考えたのだ。もちろん范蠡、文種らは呉侵攻には国力が伴わないので、大反対であった。しかし謙虚だった勾践が極めて戦闘的に変化し、何でも反対する重臣達に不愉感を隠さなかった。自分は王であり、側近は従えば良いとの態度である。西施への強さの誇示でもあった。とうとう会議の結論を得ずに、無謀な賭けに出た。自分だけで3万の軍を率いて呉に向かって出陣してしまった。
すると越軍の勢いに呉軍は総崩れで退却する。やはり俺は強い。どんどんと追いかけて、どんどんと追いかけて、呉国の奥深くで、あれれ、逆に囲まれてしまった。気が付けば海と山に挟まれた狭道であり、一方的な殺戮の標的になった。やっとのことで会稽山(かいけいざん)の麓まで逃げ落ちたが、残った兵は5千に足りなかった。
そこに范蠡らが、わずかしか残ってなかった兵をかき集めてやっと追いついてきた。勾践の気分はどん底で、討死するとばかり言う。そこを必死になだめて、生きて降伏の道を勧める。ことの発端は呉王闔閭の遺言であり、中途半端な条件では絶対に呉王夫差の恨みを晴らす思いには対抗できない。越の宝器をあらいざらい献上し、勾践は自ら呉王の臣下となり、夫人を妾として差し出すことだ。范蠡はこの条件を勾践に承諾させた。そこで文種が和議の交渉に赴いたが拒否された。呉王は傾いたが、伍子胥が強く反対した。延命させれば、必ずや将来に禍根を残すことを予見してのことである。臨終の場で、夫差の器の足りなさを心配する闔閭に必ず補佐すると約束したのが伍子胥であった。
呉の弱みは、この夫差にあった。彼の代になると、楚から亡命してきた伯嚭(はくひ)を太宰にする。何かと諌める父王の側近だった伍子胥や孫武を遠ざけて、自分の意に諾々と従うイエスマンを登用したのだ。しかもこの伯嚭はわいろ好きの好色漢だった。范蠡は美女と財宝 注4)により伯嚭に会い、この和議の条件を内諾させた。
(注4:このような賄賂は范蠡の個人負担である。臣が蓄財をするのは、このような時に使うためであり、文種にはできないことだった。)
第一の人生:呉の捕虜として
越王勾践は呉で牢につながれ、絶望の日々を送ったが、范蠡は魚屋に変装して王宮に潜入し、魚の腹に手紙を入れて牢に投げ込んだ。勾践は救出に范蠡が努力していることを知り、勇気づけられた。范蠡は伯嚭への美女、賄賂攻撃を緩めなかった。それにしても范家屯にはいかほどの美女達が養成されていたものか。洗濯女までが動員されて、汗が滲みこんだ衣服のままで我慢していた。
そのような時に呉王夫差が腎臓結石になり、苦しんだ。医者が、誰かその尿を舐めて、その味を教えてくれたら治療法が分かると言ったが、誰もそんな勇気はない。そこで罪人を使おうということになり、勾践が味見をして、呉王は見事に治療された。ここですかさず伯嚭への美女・賄賂を強化し、呉王に勾践の釈放を認めさせた。交換条件は范蠡を代わりの人質とすること、西施を後宮に入れさせることであった。もちろん、范蠡の人質は自ら提案してのことである。西施を差し出すことは既に降伏時の条件であった。これこそが、本来意図した西施の用い方に適うものだった。
范蠡と交代で、3年間の捕虜生活から越に戻った勾践は粗衣粗食に甘んじ、田畑で鍬を振り、賢者の話を良く聞き、貧者を助けた。西施も機を織り、勾践を助けた。獣の肝を乾燥させて、食事のたびにそれを舐めて悔しさを新たにした。嘗胆(しょうたん、肝を舐める)の故事である。ここにライバル同士で「臥薪嘗胆」という1つの成句を完成させた。因縁の深さを感じる。
そこに呉から使者が来た。とうとう西施を迎えに来たのだ。こうして呉の城郭内で范蠡は軟禁、西施は後宮ということになった。范蠡は金をばらまいて西施とのホットラインを作りあげ、また自らの釈放を早める買収工作を強化した。また敵の中にいるので、いろいろな情報がすぐ耳に入ってくるのが、范蠡の狙いでもあった。「敵を知り~」は呉の孫武のテキストにあり、范蠡はそれを実践した。
越の宝庫は既に空っぽ、范家屯の蓄財も空しく、文種や高官たちもカラッケツだった。そこで紹興酒を増産して、他国からの財物をどんどんと入れた。でも高く売れる陳年と言える紹興酒は最低の最低でも5年ものなので、そこをどうしたのだろうか。
呉王夫差はすぐに西施に夢中になった。既に一児の母であった西施は、もう大輪の花である。夫差は西施のために、豪華な御殿を建設した。行幸するときは、道を整備させ、花々を咲き散らし、休憩所には瀟洒なあずまやを設けさせた。西施が喜ぶことは、何のためらいもなく実行した。そして西施という夢から覚めると斉、楚、晋などに遠征をしては勝利した。それもますます西施を喜ばせた。夫差の慢心が極に達していた。
范蠡は2年で帰国できたが、夫差は西施を手放すことが無かった。いかにホットラインがあるとは言え、西施は敵の陣中にたった独りで20年近くも耐えることになる。その間、容姿の衰えを見せず、夫差の心をつかみ続けるのは並大抵のことではない。西施の役割は呉王を堕落・慢心させること、それによって呉の国力を衰えさせること、近隣諸国の恨みを深くすることである。利発な彼女は、強烈な意志でそれを貫徹した。
比較には無理があろうが、かの千夜一夜物語注5)のシェへラザードの闘いはわずか1001夜のことであった。彼女は大臣の御姫様であり、実家では面白い話の種を全国から収集し、編集・執筆陣がそれを選択・加筆して、毎日その夜の原稿を届けるというバックアップ体制の下に、ついに王の人間性を目覚めさせたのだ。それに比べて、西施のホットラインはいかにも細い。范蠡への強い信頼が唯一の支えであった。
(注5:「千夜一夜物語」は「アラビアンナイト」とも呼ばれるため、アラビア(現在のイラク)の話と思われがちだが、ペルシャ(イラン)の王室での話であるそうだ。)
寄り道:子貢との連携 4)
将棋のようにややこしいので、上手に説明ができるか心配だが、その外交手腕には感心するので、是非おつきあいを願いたい。併せて図1の地図をご参照願う。
斉の田常(でんじょう)は勢いを伸ばして、斉の乗っ取りをたくらんでいたが、手始めに隣の弱小国である、魯を攻め取って勢力を伸ばそうとした。孔子は13年の諸国遊説中(実際は流浪中)であったが、故郷の魯が無くなることはぜひとも避け、先祖の墳墓を守りたい。そこで外交に優れた子貢を用いた。子貢は32歳も孔子より若いものの成功した商人であり、弁舌に加えて外交に必須の財力があった。子貢は范蠡より6歳年下であるが、全国を旅した范蠡と面識があり、互いに認め合った仲であった。
子貢は田常に会って言った。弱小な魯を破っても名声は得られず、斉王は領土が広がって喜び、王宮のライバル達は戦利品の財宝を食い散らしてあなたには何も残らない。強国呉と戦ってこそ、勝てばあなたの手柄、万一負けてもそれは斉王の責任で弱体化が進んであなたは有利になる。そこで私は呉に行って、魯の救援を依頼します。すると呉は斉に戦争を仕掛けるでしょう。そこであなたの実力をもって呉を叩くのです。
次に子貢は呉王夫差に進言すると、野心に燃えた夫差は、魯の救援という大義を得て喜んだ。しかし留守中の越の動向が心配である。そこで子貢は越の勾践を従軍させる提案をする。そして子貢は越に行き、范蠡や文種と会う。すぐに文種が呉に行って、越王の従軍と、3千の援軍を提案する。子貢を信じきっている呉王夫差は子貢に相談すると、越王の従軍は辞退して、援軍だけを受け入れましょうと提案する。伯嚭への賄賂が効いているので、これが通ってしまう。
西施に励まされて呉王夫差は北伐に向かう。斉と闘い、これを撃破する。これで魯への圧力が斉から呉に代わる。覇王への野望を抱く夫差はさらに進み晋と会戦するが、これは余りうまく行かなかった。
BC482年に呉王夫差は黄池で会盟(覇者が諸侯を集めて盟約を結ぶ会議)を開き、諸侯の盟主となる。3万の兵をきらびやかに配し、力を背景とした会談であったが、晋の抵抗も激しかった。しかしこの留守に、ついに越が呉に攻め込んだ。これで魯に対する呉の圧力も一気に低下する。簡単に書いたが、子貢はこれに10年を費やした。
第一の人生:勾践を覇王に
さてこの10年は范蠡の10年でもあった。経済的な国力の増強と共に、軍事力も格段に向上させた。おそらくもっとも重要なことは、諸国のようにバイトの軍隊ではなく、農兵化したことだ。そして平時も一定の給料を支払ったのである。これで大将が死ぬと雲散霧消するようなもろい軍隊では無くなった。
そして伍子胥の自決である。伍子胥には呉の滅亡が現実的なことと思えてならなかった。そこで斉に出張する時に息子を伴い、それを斉に託して帰国した。これを西施は見逃さなかった。伯嚭を使って謀反の心ありと指摘させ、呉王から自決を求めさせた。黄池の会盟の2年前である。軍師孫武注6)はその前年に退役していたので、次は伍子胥を排除する順番だった。越王勾践は侵攻のチャンスと考えたが、范蠡は止どめた。まだ早いと。
そして2年、絶妙のタイミングである、黄池の会盟の最中に攻め込んだ。留守番部隊は実にもろかった。
(注6:孫武が残した多くの言葉の中に「呉越同舟」がある。「仲の悪いもの同士が小舟に同乗し、ここを嵐が襲うと、彼らは因襲を越えて一致団結し、その困難を乗り切ろうとするだろう。ただ強いだけではだめで、その強さのベクトルを一致させるような状況に追い込むことが、作戦の要諦である。」このように解説しながら、孫武はこの両国が争うことを残念に思っていたのかもしれない。)
呉は和議を申し入れ、勾践はそれを受け入れた。呉は連戦で軍隊が疲弊しており、首都陥落で士気も萎えていた。一方越には一気に呉を壊滅させるほどの力量が無かったのである。この3年後に孔子が73歳で死に、子貢は心から悲しんで6年もの喪に服す。子貢の外交による魯の防衛は、間に合った。
越は国力と軍隊の充実を図りながら、BC473年に呉を攻撃した。さらにBC475年には城壁を囲んで兵糧攻めにしたのである。周囲の国々はそれまで散々に荒らされたので、どこも呉を助ける所はなかった。包囲は2年に及んで、ついに降伏の使いが来て、呉王夫差の命乞いをした。越王勾践は会稽で命だけは助けられたことを思い、これを許そうとしたが、范蠡は断固拒否した。使者の報告を聞いた呉王夫差は、亡き伍子胥に詫び、自殺した。BC473年である。ついに会稽の恥は雪がれた。西施は無事救出されたが、終始無表情であった。
文種の活躍で戦後の領土問題を含む諸国との外交問題の処理、つまり呉が奪った領土の返還をして覇者の貫禄を示し、さらに3年後に斉に戦勝してついに勾践は覇王としての、伯の称号を得た。功労者と言えなくもない伯嚭は、呉の民衆の思いに配慮して処刑された。
第二の人生:越との決別
斉に勝利すると、勾践は得意の絶頂であった。そこに范蠡は恐れを感じた。会稽の恥辱以来の22年間は一体何だったのだろうかとも。それに彼は帰ってきた西施を守りきれなかった。勾践の新しい正室や後宮の女たちの猛烈な嫉妬の対象となり、刺客が差し向けられる事態であった。さらに勾践には西施を守る気などさらさらなかった、彼女なしには呉の滅亡は達成できなかったというのに。そこで范蠡は彼女を范家屯に匿ったが、今度は呉の残党から狙われるようになった。そこで西の楚に逃がそうとした。夜陰に乗じて軽舟で五湖を渡るのである。そこを呉の残党が西施と知って襲って来た。西施は自ら広大な五湖の、湖底に沈んだのである。20年近い夫差の荒淫に耐え、40歳でも美貌と知性に溢れ、そしてどんなことにも折れなかった心に、深い傷を負ったままに。
范蠡が勾践に辞職を願い出ると、勾践は君と国を分かち合おうと答えた。イエスか死か、という二者択一の問いかけである。その場を何とか繕った范蠡は、すぐさま越からの脱出を図った。重い財産は全て放棄し、范家屯はもぬけの空になった。かねて会稽の辱を雪いだ功労で、范蠡には会稽の土地が与えられていた。そこに備えておいた船で船団を組んで海路、北の斉に向かった。BC468年、58歳であった。天寿を全うするまで、生き抜く覚悟であった。それこそが人生の勝利の証となるだろう。
第二の人生:斉の鴟夷子皮
范蠡は全く気付いていなかったが、この呉の滅亡で中国に平和が訪れて、後の歴史家に春秋時代の終わりとされた。戦国が始まるまでの約20年の平穏な時代が、彼の第二の人生と重なるのである。
山東半島をぐるっと回って、薄姑(はくこ)という村に定住した。斉の国都臨湽(りんし)に近い海岸である。そして昔の名前を隠して、鴟夷子皮(しいしひ)と名乗った。この名前は呉の伍子胥への深い思いである。自決を強要された伍子胥の死体は,罪人として皮袋(鴟夷)に入れられて川に流された。西施に、彼が息子を斉に置いてきたことを指摘させたのは、もちろん范蠡である。伍子胥は異常な所もあるが、真摯に国を思った有能な人物だったことを、最も理解していたのは范蠡だった。
さて范蠡は農耕に精を出し、一族の自活の目途が立つと、製塩を始めた。しかも品質の良い精製塩として、内陸で軍備増強を図っている秦などに売り込んだ。塩は血気さかんな軍人に不可欠と考えられていたからだ。そして米蔵を建てて、米の備蓄と販売を始めた。中国各地の豊作、不作の情報を得て、安く買って高く売ることをしたのである。黄河を使えば、舟による広範な流通が可能であった。彼の村は鴟夷屯と名前を代えていたが、商人の館群になっていた。生糸などの商品も扱い始めた。
さて彼が越を脱した翌年、范蠡は越に残っている文種に手紙を書いた。これが有名な「狡兎死して走狗烹らる(こうとししてそうくにらる)である。「すばしこい兎が居なくなったら、それを追う猟犬は不要なので煮て食べられてしまいます。私は以前より、勾践は苦難を共にすることはできても、安楽を共にできる人では無いと考えていました。そこに長く居てはいけません。どうして早く立ち退かないのですか。」
文種はまじめな人で、この手紙をもらって、出仕しなくなってしまった。行動がのろいのが文系の弱みである。やがて謀反の心ありとされ、自殺用の剣を賜ることとなった。特に古代ではどこの国でも、雇われ政治家や職人は王の財物にすぎず、他国でもっと良い仕事をしないように、用が済んだら殺してしまうものである。
移住の3年後に、斉王平公からの使者が訪問した。あの范蠡であることが割れていて、宰相への登用を嘱望され、断ることができなかった。鴟夷屯は3人の息子たちに任せ、彼は40km離れた首都臨湽に妻と移った。
この頃、越は呉を破ったため、斉の隣国であり、しかもすぐ近くの琅邪(ろうや)に遷都をした。山東半島を挟んで、斉の国都臨湽が北の付け根であれば、琅邪は南の付け根、100km程度の直線距離である。斉の軍事力は越の三分の一程度しかない。
范蠡の施策は、ひとつは製塩を国家事業とすることで、国を富ませること、もう一つは越との国境に長城を築くことであった。この長城は長さ200kmを3年で作り上げ、さらに西に140kmを追加した。近隣諸国でもその真似をし、あの万里の長城の原型となった。范蠡の作ったものは斉の長城と呼ばれる。
さて范蠡は斉で6年めを迎え、64歳になった。長城建設のメドもついたので、これは潮時と考えた。高い位に長くいると、自然とリスクが高くなる。致仕を願い出ると、老齢ということもあって簡単に許された。そこで仕事の権限を全て譲り、膨大な財産を友人や近隣の者たちに分けてしまった。そして持てる貴重品だけを身に着けて、わずかな近親者だけで斉を後にした。ほとんどの鴟夷屯の人々はここに残った。
第二の人生:陶朱公
黄河を160kmほど上流に行った、陶に居を定めた。ここは山岳地帯の麓であり、火山に由来する鉱脈があった。范蠡が着目したのはHgS(硫化水銀)、つまり朱である。中国人好みの色であり、また防腐効果が高いので木造建築の保護になるほか、血液を連想させる所から生命の再生の願いを込めて死体に用いられた。印鑑の朱肉にも使う。この陶は斉の一地方なので、鴟夷子皮の名前の信用力は絶大で、事業化のスピードが速かった。
硫化水銀の鉱脈は、硫黄臭を頼れば比較的に簡単に発見できる。山師を使って探鉱し、陶都の西45kmに工場建設を定めた。鉱夫を採用し、山中の辰砂(朱の原石)を大規模に掘りだした。これを一種のトロッコのようなもので山から降ろし、河岸の工場で精製した。辰砂は石と一体に混ざり合っているので、原石を粉砕して水を使った比重選別をしたものと想像する。
この過程で、同時に硫黄原石も出てくるので、これを利用した火薬の製造も始めたとの説1)もある。山の洞窟には太古からの蝙蝠のフンが堆積して硝石が得られる。後は木炭を焼き、それらの調合比を研究すれば火薬が完成する。范蠡が自身発明したとも、そのような化学者を採用したとも思える。これは一級の軍事機密であり、ノウハウは秘匿された。
さて、陶の地は当時の中国の中心であり、交易のかなめであって、またも范蠡は長者になってしまった。特に中国では金持ちは人々の尊敬を集める。誰が言いだすともなく、陶朱公と称えられるようになった。この命名はそのものズバリで分かりやすい。
彼の人生で残念に思うことがあるとすれば、3人の息子の教育がおろそかになったことだろう。仕事づけの人生において、戦略兵器である西施の教育には万全の配慮をしたが、肝心の息子たちの教育はそっちのけであった。ここでは紙幅の関係で触れないが、范蠡の息子とは思えない愚息達であった。范蠡は自分が天才であって自ら育った故に、子供は自ずと育つと思っていたのだろうか。
終章:商売の神 3)
中国人にとって、商売の神はふたりであるという。ひとりは関羽であり、横浜中華街にも関帝廟(図3)があって、多くの参拝者を集めている。軍人を商売の神様にしてしまう、庶民の感覚は何とも面白い。
そしてもうひとりが陶朱公である。彼は范蠡と名乗った時代に、師の経済学者計然から7項目の基本を叩き込まれて、それを戦争と政治に応用して成功した。その後の越を離れての第二の人生でもその教えを実践した。その陶朱公としての商訓が世界中の華僑の間に連綿と伝わっているという。3種類あるそうだが、その最も主と思われるものを紹介する。なお注釈文も付いているが、ここでは本文だけとし、訳は文献3)を引用しつつ、適宜意訳した。
理財致富十二則 陶朱公
- 能識人(よく人を知る) 客や取引相手を瞬時に見定めることができる
- 能接納(よく接し納む) 相手の要求を快く受け入れることができる
- 能安業(よく業を安んず)ひとつの仕事をゆるぎなくやり通すことができる
- 能整頓(よく整頓す) 経営全般に管理を行き届かせることができる
- 能敏捷(よく敏捷にす) やる時は素早く行動することができる
- 能討賬(よくとうちょうす) 債権や売掛金を上手に回収できる
- 能用人(よく人を用う) 人の才能や性格を評価して上手に使いこなせる
- 能辯論(よく弁論す) 筋道を立てて、道理に叶った話ができる
- 能瓣貨(よく品をわきまえる) 商品・サービスに精通している
- 能知機(よく機を知る) タイミングを正確に計ることができる
- 能倡率(よく唱え率る) 率先垂範してリーダーシップをとれる
- 能遠數(よく遠くまで数える)目先に惑わされず、広く遠くまで計算できる
范蠡は三度住まいを替えてその度に財を成した。これが2500年の歴史を通じて商売をする中国の人々にはたまらない魅力である。だが商人のみならず、サラリーマンでも、さらに自分らしく生きたいと願う人にも、彼の処世は十分な参考になるだろう。
おまけ:西施外伝
越に帰った西施は猛烈ないじめに遭った。ではどうして呉の20年を無事に過ごせたのだろうか。女の嫉妬に国境は無いはずだ。さらに貴賤の差も無い。断言する。
孫武が呉王闔閭に軍師として採用される時に、女でも強力な軍隊にできるかと問われ、闔閭の寵姫(ちょうき)を含む後宮の180人の女官を与えられ、それを立派に訓練してみせたとの故事がある。呉の後宮にも西施のライバルが多数居たわけだ。
結論から行こう。現実的に西施を保護したのは、太宰の伯嚭である。そして西施の幼馴染の田和(でんわ)であると、私は考える。
会稽の戦後処理で范蠡が伯嚭に面会したときに、全ての筋書きは用意された。最も難しいのは勾践の釈放の理由と時期だが、それは天に任せよう。その釈放と交換の捕虜は范蠡自身とすること、西施の後宮入りは、最初から協定に入れて置き、その実施は勾践と交換とするが、范蠡が捕虜に入っていろいろな整備ができた後とすることであった。西施を勾践と同時期に後宮に入れてしまうと、勾践の生き延びる気持ちが萎えてしまう。西施が待っているという支えが重要なのだ。
そして西施が後宮入りする時に、身の回りの世話をする腹心の侍女達を付けた。そして宦官をひとり。田和は西施と同じ紹興の出身で、幼い時から、いわゆる筒井筒の仲であり、成長するにつれて西施は彼にとってのあこがれ、絶対的な存在に昇華していった。しかし戦略兵器となった西施は、遠くから時々見かけるだけしかできなかった。そこで会稽の講和条件を聞いた田和は、自ら希望して宦官となった。そして後宮の中では田和、外では伯嚭という基本的な体制ができたのである。
西施にそそのかされた呉王夫差による贅沢な浪費と軍隊の消耗は、伍子胥には何とも早く終わりにしなければならないことだった。伍子胥は何回も西施暗殺を画策した。しかし後宮の女官や宦官達は、伯嚭がことごとく味方につけていた。伯嚭は范蠡からの賄賂を、かなり活動費に使っていたのだ。范蠡が連れてくる美女達はよく訓練されていて、そのまま後宮に入れたものも多かった。そのような女官達で、いつの間にか西施の長城が築かれていた。伍子胥に通じた女官は、田和の通報により、早々と除去された。
それでも、ある時に毒が持ち込まれた。何となく不審を感じた女官が池に一滴を垂らすと、すぐに魚が浮いた。そこに夫差が通りかかり、何事かと問いただす。田和が答えて言う。西施様が池の畔にお立ちになりましたところ、その魚が裳裾の中を見上げて、おもわず息を忘れて窒息したものでございます。(これに近い逸話がある。)夫差が、そうか、儂も時々死にそうになるぞ、わはっは、とその場は済んだ。すぐに後宮の数人が居なくなったが。
いずれにしろ、伯嚭の配慮と金品で、西施を頂点とする後宮の秩序が保たれた。伯嚭の後宮経営の力量はあなどれない。ではなぜ伯嚭はそのような行動をしたのか。これが最も強力な呉王夫差との信頼のパイプであり、また伍子胥と対抗できる方法であった。もちろん、西施も伯嚭の応援者であり、情報共有者である。単純に計算しても、孫武は高齢で実務から遠ざかるから、問題は伍子胥だけと分かる。これは何かしっぽを掴んで排除すればいい。呉が繁栄を続ければ、自分は安泰。越がこれに代わっても、自分は功労者だから身分は保証されるだろう。まあ、どっちみち将来の心配は無い。
しかし、呉が陥落した後、伯嚭は処刑された。范蠡にしてみれば、呉の旧国民を納得させるためには、亡国の奸臣として処刑する必要があった。伯嚭は騙されたと思った。いや、だれも騙していない。自分で勝手にそう思っただけだ。処刑の場に王族は立ち会わないものだが、遠くに西施の姿を認めた。その目に涙が光ったような気がした。伯嚭はそれだけで、十分に癒されたと思い、従容として死を受けいれた。
さて、范蠡は越を脱出することを内心では決めていたが、時期を見ていた。一方西施への攻撃は切迫した状況になっていた。後宮の問題は范家屯に避難させれば済むが、呉の残党が問題で、伯嚭の処刑だけでは収まらない。范家屯は要塞ではないから、防衛には向いていないし、勾践の軍隊を使うわけにもいかない。命がけで范家屯に乱入してくるから始末が悪い。
そこで西施だけの脱出を先に敢行した。屈強な家臣達を警護につけ、田和を加えた。夜陰に紛れて水路から静かに漕ぎ出し、やがて五湖に至った。そこまで来れば、湖面は広大で小舟を認めることは困難なはずだった。しかし新月の暗黒ゆえに、西施は夜光虫のようにほのかに光ってしまう。そこへ呉の残党の舟が数隻あらわれ、その先頭が船腹に体当たりをしてきた。ぐらっと大きく揺れたために西施が田和に抱きつき、そして耳元で囁く。田和は西施を堅く抱いて、一緒に湖水に沈んだ。
以上
主な参考文献
- 村石利夫:范蠡-春秋時代の覇王伝、KKベストセラーズ(1996.3)
- 立石優:范蠡 越王勾践の名参謀、PHP文庫(2000.8)
- 松本一男:華僑商法の秘伝 「陶朱公」商訓が成功を約束する、三笠書房(1987,10)
- 陳舜臣:中国傑物伝、中央公論社(1991.10)
榎本博康(えのもとひろやす) プロフィール
榎本技術士オフィス所長、日本技術士会会員、NPO法人ITプロ技術者機構副会長 日立の電力事業本部系企業に設計、研究として30年少々勤務し、2002年から技術士事務所を横浜に開設して今日に至る。技術系では事故解析や技術評価等に従事する一方で、長年の東京都中小企業振興公社での業務経験を活かした企業支援を実施。著作は「あの会社はどうして伸びた、今から始めるIT経営」(経済産業調査会)等がある。趣味の一つはマラソンであり、その知見を活かした「走り読み文学探訪」という小説類をランニングの視点から描いたエッセイ集を上梓。所属学協会多数。 |
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