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書評 「星々の舟」 文春文庫 村山由佳 著

by staff on 2014/6/10, 火曜日
 

「きれいな女は嘘つきだ、とハンドルを握るなり思った。」なんのことはない「到着地の天候は晴れ・・と、あんなに自信たっぷりにアナウスしていたくせに、空港の駐車場から車を出したとたん、しっかり雪が降り始めた。」私はしかしこのフレーズがずっと気になっていた。

「美希は、服のままベッドに倒れ込んだ。サイドテーブルの時計を見やる。夜はまだ始まったばかりだ。別に何かを失ったわけじゃない、と自分に言い聞かせる。そもそも初めから持っていないものを失えるわけがない。彼との時間を奪われたような気分になること自体、間違っている。彼の方が引きずっているものが多くて、時々ああして板挟みになってしまうのなら、譲れるほうが譲ってやればいいだけのこと。いわば、荷物の多い人に席を譲るようなものだ。ただ、一つだけ自分でももてあますものがあるとすれば、そうーこんなふうに突然ふってわいた一人きりの時間だった。」

「この家で、家族全員と血でつながっているのは私だけ。」「いつの頃からだったろう、その誇らしさが重荷へと変わってしまったのは。重荷―いや、負い目といった方がいいかもしれない。これまでの自分の特権意識をいやらしいと思えば思うほど、兄や姉への負い目は否応なく増した。自分でほどけることのできない重しを、天秤の片側にだけのせられたような気分だった。何とかしてそこをぬけだしたかった。抜け出して、居心地のいいバランスを手に入れたかった。」

美希はあの日を境にかわってしまったのだった。

「気象は激しくとも優しかった兄が、父を殴りとばし、母を土間につき転がして出ていっただけでもひどいショックだったが、それ以上に美希を愕然とさせたのは、数日後に知らされた姉の出生の事実だった。」母は志津子、長兄は貢、次兄は暁、姉は沙恵である。

「待ち合わせ場所に兄が現れると、志津子はまろぶように坂道を駆け下りていき、とまりきれずに腕をつかまえてもらうなり、すがりついて言った。 “今までどうしていたのぉ、あんた” あとからことさらにゆっくり坂を下りて行きながら、美希は、母の声がいつになく華やいで甲高く裏返っているのを、なぜだか身をよじりたくなるほど恥ずかしいとおもった。」「久しぶりに会う暁はいくらか痩せ、寡黙になり、たまに笑う時でさえ眉間には何か陰りのようなものがあって、そのせいか前よりずっと男っぽく見えた。胸板はあつく、二の腕は太く、そういうものを見るにつけ、美希はどうしても兄と姉の間にあったことを想像せずにはいられなかった。」その姉に悲しいことでもあったの? と聞かれた。

「満月に一日かけるくらいだから、月の出は早かった。分厚いセーターを着こんだ美希と沙恵はわざわざ物干し台へ出て空を見上げていた。きれいね、と美希は言った。今日のお月さま、ほんとうにきれい。無意識に何度もそうつぶやいていたら、沙恵がふっと言ったのだ。悲しいことでもあったの、と。美希は、驚いて姉をふり返った。腫れたまぶたはちゃんと冷やしてきたはずなのに、どうしてそんなことを言うのだろう。」

「 “月とか星とか、花やなんかがやたらときれいに見えるのって、なにかすごく悲しいことがある時だから。私の場合はね” “お姉ちゃんは、何回くらい、そういうきれいなものを見た?” 美希は、怖いくらいに美しい月を見上げた。輪郭があまりにもくっきりと浮き上がり、盛り上がり、今にも頭の上に銀色のしずくがしたたり落ちてきそうだった。」美希も姉の沙恵も誰と分かち合うことのできない、消せない痛みをもって、それさえも、確かに自分だけのものならー愛してやろうじゃないかという。

兄弟姉妹それぞれが消せない痛みにあっていくが、貢の子も例外でない。

「祖父の小さく窪んだ目が覗き込んでくる。 “思い切って話してみないか” そうだ。ちゃんと、言おう。そう決めて口をひらいたつもりだったのに、もれてきたのはへんな泣きだった。」「自分という人間のくだらなさにおしつぶされそうだった。何か、紙のようなぺらぺらなものになった気がした。痛みと恐怖にあっさり屈して友人を裏切ってしまった自分に比べ、可奈子はそんな体になってまでかばってくれているというのに、それをありがたいとか嬉しいとか思うより先に、ねたましいのだ。」祖父はつぎのように聡美に話しかける。

「聡美、もしもお前がほんとうにその友だちを失いたくないと、たとえ許してもらえなくても謝りたいのだと、そう思っているのなら、ぐずぐず迷っている暇はないじゃないのか。謝るべき相手が、そこにいてくれるお前は恵まれている。おれなんか、見てみろ。謝りたいと思う相手はもう、みんなあの世だ。どんなに手をついて、這いつくばって謝りたいことがあろうが、もう永久に間に合わん。死んだばあさんや、前の女房だけじゃない、あの時おれが・・・・」「西の空が、少しだけ明るくなりはじめている。大きく満ち引きする風の呼吸に合わせて、色づきかけた木々の葉から滴がしたたり落ちる。体の中に溜まった澱と入れ替えるように深く息を吸い込み、小声で、 “・・・おじいちゃん” ささやくと、祖父はこちらを見ずに、うん?と返事した。」

その祖父もまた痛みのなかにいたのだ。

「日本を守るために戦争で死んでった人たちを拝みにいくのに、なんで周りからあんなうるさくいわれなくちゃいけないんスか。なんで俺らの国のことに他の国が口出してくるんスか」孫は言った。いやそんな単純なことではないと祖父は思っている。「自分たちの世代は、戦争を体験などしていないと思う。自分たちは、戦争をいきたのだ。今日一日を命からがら生き延びてきた者にとって、あしたも、その明日また続いていくのが戦争だったのだ。人間が人間であろうとすることさえ許されず、お国の為、天皇陛下の御為という言葉のもとに、赤い紙切れ一枚で家族も恋人も引き裂かれた、それが戦争だったのだ。あの恐怖。あの痛み。あの絶望。-一度として餓えた経験すらない連中を相手にどう語ろうと、何が伝わるとも思えない。」祖父重行にはどうしても忘れることが出来ないことがある。「日本とっては敗戦の日であり、屈辱の日でしかなかった昭和二十年八月十五日を、 “解放の日” と呼んで祝う人々がいることを。毎年夏が過ぎ、この季節がめぐってきて、庭の木々が日一日と枯れ色に近づいていくのを見るたび、あの女のつぶやきが蘇ってくる。そう、まるで水底からうかびあがるあぶくのように。」

そして収斂に向かう。「それでいいのか。」といい、「幸福とは呼べぬ幸せも、あるのかもしれない。」祖父重行はまた来るわなと墓に声を掛けるのだった。

(文:横須賀 健治)

 

 

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