横浜宝石物語(第1回) 創業者の祖父(戦前編)
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横濱宝石美術館エメラ 代表 大島貴子 PROLOGUE 連載に寄せて私は横浜でおそらく一番古い宝石商の三代目です。 創業者の祖父、二代目の父、三代目の私とそれぞれの時代で宝石商としての形態は違っていますが、良い宝石を選び、作りの良いジュエリーを製作して、ご提供するということについては、3人とも拘ってやってきたと思います。 祖父が宝石の製造メーカーとして地位を築き、父が小売店として皆様に愛されたからこそ、今、私が宝石商としてやっていられますので、いつか祖父のこと、父のことを書いてみたいと思っていました。 |
この度、横浜宝石物語の連載のお話を頂きましたので、念願が叶い、とても嬉しいです。横浜の歴史も交えながら、祖父、父、私の宝石物語を綴っていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願い致します。
宝石商の三代目私は現在、横浜の馬車道で「横濱宝石美術館エメラ」という宝石店をしております。 横浜の景色や思い出をジュエリーにした「横浜ジュエリー」などオリジナルジュエリーの製作と販売、デザイナーやアーティストの作品の展示販売、お客様のご要望をかたちにするリフォームやオーダージュエリーのご注文を承っています。 私の宝石商のルーツである創業者の祖父のことからお話しさせて頂きたいと思います。 祖父を語る祖父は明治34年に新潟の三条で生まれました。 実業学校を出た後、16歳で横浜に出てきて、常磐町の今の横浜スタジアムの近くにあった宝飾工房に丁稚に入りました。 祖父は手先が器用でなく、口が達者だったので、職人でなく、外回りの営業に回されたそうです。 山下町にあるイギリス商館やインド商館に出入りして、ダイヤモンドやルビーやサファイアなどの宝石を買い付け、全国に卸す仕事をしていました。 関東大震災の時には横浜スタジアムの横にあった横浜公園の池に逃げたそうですが、火がものすごい勢いで迫ってきて、池の中まで熱くて、隣にいた方が布団を水に濡らして祖父にもかけて下さったので、生き延びられたそうです。 その後、知り合いの紹介で祖母と結婚しましたが、祖父はまだ20才そこそこの若さでした。 昭和5年、父が生まれた年に祖父は独立して、宝飾品を作って卸すメーカー的な仕事を始めました。 昭和10年に曙町に店を構え、全国への卸しの仕事もしながら、買取りや小売など一般客向けの仕事もしていました。当時、曙町辺りには花街があって、賑やかだったようです。 全国に卸す仕事をしている祖父は出張に出かけると一ヶ月も帰ってこない時もあり、祖母は店番をしたり、子供を抱えて大変だったようです。 ダイヤモンドの鑑定をルーペも使わずに見ることができるほどの目利きだった祖父は、戦争中は国が供出させたダイヤモンドや宝飾品の鑑定人もしていました。 国の依頼で上海にダイヤモンドを売りに行く話もあったようですが、戦争が激化したので、その話はなくなったそうです。 曙町の店は横浜大空襲で焼けてしまったそうで、根岸にあった家を処分して、長野に疎開しようとしたところで終戦を迎えました。 戦後の話は次回に続きます。 |
(クリックで拡大画像) (写真提供:大島貴子) |
(横濱宝石美術館エメラ 代表 大島貴子)
横濱宝石美術館エメラ
〒231-0011 横浜市中区太田町5-61 馬車道商栄ビル1階
TEL.045-681-0603 FAX.045-228-9828
Websie http://emera-yokohama.jp/
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