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世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも

by staff on 2015/1/10, 土曜日

♪世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも♪


絵・千絵崇石
 

読み人:鎌倉右大臣(かまくらのうだいじん)

現代語訳・・・静かな海に海人が綱手を引いて小舟が行く いつもと変わらない風景、いつまでも変わらずにあってほしい。人の世は愛おしさにあふれている。

鎌倉の右大臣とは 源頼朝の次男で第3代将軍、源実朝の事です。この歌は彼が、20代前半の頃の歌だと思います。

鎌倉幕府を開いた源頼朝が亡くなって、実朝の兄、18歳の源頼家が2代将軍になりますが、父の頼朝が築いた側近達との関係性を大事にしないで、独裁政治を求めたので、古い家来たちの反感を買い、修善寺に追放。その後暗殺されてしまいます。

実朝はその後を継いで12歳で3代目の蝦夷大将軍になりました。

実権は母の北条政子の家族達に握られています。大きくなるにつれて自分でも内政に力を注ぐようになりますが、常に政情が不安な状態で幾多の非劇に遭遇しながらの人生でした。そんな日々の中で 和歌を学び創る事が心に平安を生む唯一の支えになっていたのでしょう。彼は徐々にその才能を開花させて自分独自のうたの世界を作り上げてゆきます。鎌倉で生まれて鎌倉で生きた、百人一首の中でも彼だけがその時代の文化の中心地、京都を知らないで生きた歌人です。

15歳で藤原定家の弟子となり18歳の時に初めて自分の歌を京都の定家のもとに送っています。武よりも文を好んだ将軍で京都の朝廷ともうまくいっていました。しかし彼も28歳の時に鶴岡八幡宮に自分が右大臣になったお祝いに参拝した帰りに、鳥居の近くにあった銀杏の大木に隠れていた甥に襲われて殺されてしまいます。1219年1月27日、雪が沢山積もっていた日だという事です。そして源頼朝の血筋は断絶。彼が死ななければ、後鳥羽上皇は鎌倉幕府を打倒する気持ちも起こさず、従って隠岐島に流される事もなく、藤原定家が撰んだ百人一首ももっと違うものになっていたでしょう。そういう意味では時代文化の歯車的なキーパーソンでした。

彼のお墓は二つあります。胴体と髪の毛が埋葬されている鎌倉の寿福寺。そしてもう一つは秦野市に首塚が残されています。これは殺された時に甥の公暁に首が持ち去られて、どうやら公暁を打ち取った人たちの一人が秦野市まで持ち帰えり葬ったと。

とても血なまぐさい時代の真っただ中に生きて、そして散って行った歌人ですが、その文学的な才能は藤原定家に、そして後世の文人達からも非常に高い評価を与えられています。新勅撰集に藤原定家は彼の歌を25首も撰んでいます。又愚見抄では歌聖と言われた垣本人麻呂と並び称して、万葉集にも恥じない作風だと称えています。残されている歌は今でも真直ぐに心に伝わるものばかり。スケールの大きな天才歌人でした。

「時により 過ぐれば 民のなげきなり 八大竜王 雨やめたまえ」
「大海の 磯もとどろに 寄する波 われてくだけて 避けて散るかも」

今年も平和で愛が溢れた年になりますように。世の中は愛おしさに満ちているから・・
天国から源実朝がそんなメッセージを投げかけてくれた様に感じました。

(早苗ネネ♪)

 

早苗ネネさん プロフィール

木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。

心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。

早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。

そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。

<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?

早苗ネネさんHP

 

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