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僕はヨコハマ人! 横浜は僕のSOUL!! 目白大学教授で作家・ジャーナリストの三上義一さん

by staff on 2015/5/10, 日曜日
目白大学教授で作家・ジャーナリストの三上義一さん
目白大学教授で作家・ジャーナリスト
三上義一さん
 
お名前 三上 義一(みかみ よしかず)
お生まれ 東京渋谷
ご出身 7歳から横浜市
お住まい 現在横浜市中区
お仕事 目白大学社会学部
 メディア表現学科 教授・学科長
作家・ジャーナリスト
Webサイト
ご趣味 趣味は、レコードを買うこと・ジャズのライブに行くこと・テニスをやること・海を見ながらボーッとすること・そしてワインと読書と旅とスーパー銭湯が大好き。

小学校一年のときに、インターナショナル・スクールに入学するために横浜に来られたとか

英語青年だった父の強い希望で、横浜山手にあったセント・ジョセフ・カレッジに入学させられました。それまで杉並区の公立小学校に通っていて英語は見たことも聞いたこともない状況でした。入学試験が日本語だったから受かったのでしょうね。小学校を一学期でやめて、母親と二人で横浜市中区に引っ越してきました。セント・ジョセフでは9月から授業が始まったのですが、すべて英語で先生が何を言っているのか全く何もわからず、毎日泣きながら家に帰ってきました。3年生くらいまで先生が話していることが理解できませんでしたね。母親が近所に住んでいた英国人の家庭教師を頼んでくれなかったらどうなっていたかわかりませんね。トムソンさんという方でしたが、彼女は僕の恩人です。

セント・ジョセフ・カレッジには、小・中・高校と12年間通われていたのですね

母国語(日本語)の基礎ができていないところで、英語教育をうけたので、どちらも中途半端になっている、これでは「バイリンガル」ではなくて「セミリンガルに」なってしまうと感じ始めたのが中学生の頃です。その頃は意識的に日本の漫画を読んでいました。

セント・ジョセフに国籍が20ヵ国以上にもなる学生が通っていて、日本の学校では経験できない様々なことを経験しました。同時の横浜には米軍のキャンプがあって、私たちは、米軍向けのラジオ放送「FEN」を聴いて、アメリカの音楽やファッションに憧れていました。米軍キャンプとの境にあった本牧は流行の発信地でしたので、すごく憧れていました。女の子と仲良くなるためにダンスパーティーもよく開催し、中学生の時からチークダンスを踊っていました。(笑)60年代から70年代にかけての「横浜」は、新しい時代の息吹の中にいてインパクトのある国際都市、まさに港街でしたね。

12年間の学校生活は、苦難の連続でしたが・・。ラッキーだったことは国籍や人種に対して偏見を持つことがない人間になったということです。大勢の不思議な外国人たちと出会って、人間同士の付き合いをさせてもらいました。人間はみな同じだが同時に違っていて当然で、その違いを認め合うことが大切なことだということを学ばせてもらいました。

※三上氏の小・中・高校時代を描いた自叙伝的な小説「ヨコハマ・イエスタデーズ」は今月の書評で紹介されています。

セント・ジョセフを卒業後、上智大学に進学されてジャーナリストになられたのですよね

セント・ジョセフは日本の学校ではないので、当時受け入れてくれたのは、上智大学と国際キリスト教大学(ICU)だけだったのです。上智大学の国際部に入学してその後、外国語学部フランス語科に移りました。クラス全員が日本人だけというは初めての経験でした。フランス語はセント・ジョセフで5年間やっていたので、ちょっとはフランス語に馴染んでいました。

ジャーナリストを志したのは、学生時代に褒められた「文章が上手だね」という一言と語学力が生かせることからです。筑波大学の大学院に進学した後にロイター通信社や米「TIME」誌に記者として勤務して、北朝鮮・フィリプン・中国など主にアジア諸国を取材してきました。記者は本当に肉体労働でしたね。記者時代の思い出はいろいろありますが、その一つは駆け出しの頃、フィリピンを取材したことですね。一介の主婦だったアキノ氏が大統領になるという映画のような政変劇でした。

そして、1989年にアウン・サン・スー・チー氏に初めてお会いしました。すでに政治活動を始められていましたが、自宅監禁される前でした。彼女がノーベル平和賞を受賞した1991年に、ノンフィクション『アウン・サン・スー・チー 囚われの孔雀』(講談社)を発刊しました。この本の出版には、1990年から2年間、米コロンビア大学に特別研究員(国際ジャーナリズムとメディア研究専攻)として着任していて、当時ハーバード大学で教えていた、マイケル・アリス氏(アウン・サン・スー・チー氏の夫)の協力が得られたことが大きいですね。アウン・サン・スー・チー氏の生涯を描くのは「僕のライフワーク」の一つになっています。

 

(クリックで拡大画像)

アウン・サン・スー・チー氏とヤンゴンの自宅にて
アウン・サン・スー・チー氏とヤンゴンの自宅にて。
左三上

その後、ジャーナリスト・作家として独立されて、今は大学の先生でいらっしゃいますよね

小説には『ヨコハマ・イエスタデーズ』、『ダブルプレイ』、『中毒するセカンドライフ』などがあります。翻訳は、2008年ノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマン著の『世界大不況からの脱出』や、他のクルーグマン著書など、他翻訳・書き下ろしを含めて20冊以上出版されています。

2008年から縁があって、東京の新宿区にある目白大学で教鞭をとっています。
専門分野は「ジャーナリズムと出版、そしてメディア一般」です。
この20年間、「インターネットとデジタル化」でジャーナリズムの世界は大きく変化しました。報道写真を例にとってみても、機材も全く違いますし、デジタル化によって現像作業もなくなりました。
学生たちを見ていても新聞は読みませんし、一般家庭でも新聞をとらないようになってきています。

インターネットによって変わったこと・・。それはメディアの在り方ですね。
これまでは新聞社やテレビ局などのような大きなメディアのエリートが、大衆に対して情報を流すトップダウン型でしたが、近年はインターネットを使って個人でも情報を発信していくボトムアップ型のメディアが出てきました。個人が情報発信することについては、危険性があるのは事実ですが、私は、「表現の自由を守る」ことと「多様性を許容する」ことがジャーナリズムとしての在り方ではないかと考えています。

大学では、まず身近なメディアを作っていこうということで、学生たちに大学新聞やフリーペーパーを作らせています。最近の学生は真面目で大人しいですね。失敗を恐れる傾向にあるので、「まず、やってみよう!」と檄を飛ばしています。

三上さんは、ご自分は日本人ではなくて「ヨコハマ人」だと仰っていますが・・

私は幼少の頃から、横浜で「日本人」「外国人」の区別なく様々な価値観の人たちに囲まれて暮らしてきました。横浜は、開港以来、外国人の力を借りて発展してきた都市です。別れと出会いが繰り返される港町だったので、「どこから来たの?」も「何をしてたの?」も詮索しないで、ありのままを受け入れる土壌ができてきたのです。私はそんな「横浜」が大好きです。「多種多様な価値観を認め受け入れて、自らの文化と制度を創り上げていく」のが「ヨコハマ人」だと思っています。

外国に対して排斥する空気が強まっている今こそ、「ヨコハマ人」が必要なのではないでしょうか。群れるのが好きな「日本人」のままでは、グローバルにはなれないのです。
「ヨコハマ人」がこれからの「横浜」を牽引していかなければならないと考えています。

三上さんにとって「横浜」はどのようなところですか・・

横浜」は私を作ってくれた街、私に魂を入れてくれた街です。私のSOUL(魂)です。

 

(クリックで拡大画像)

僕はヨコハマ人! 横浜は僕のSOUL!
僕はヨコハマ人! 横浜は僕のSOUL!

<インタビューを終えて>

三上さんをインタビューするにあたって、「ヨコハマ・イエスタデーズ」を拝読させていただきました。英語が全くできなかった7歳の坊やが、高校を卒業するまでの生きざまと、その当時の横浜の世相を描き出した素晴らしい自叙伝的小説でした。
「横浜が自分を作ってくれた」と仰る三上さん。作家、ジャーナリストとしてご活躍され、現在は、「ジャーナリズムとメディア」の研究者として大学で教鞭をとられている三上さんこそが、戦後の混乱期から高度成長期を経て「ヨコハマ・ドリーム」を体現したお一人ではないかと思いました。
お忙しい三上さんですが、今後「ヨコハマ・ドリーム」というテーマで投稿していただくことになりました。皆様・・ご期待ください。

※「ヨコハマ・ドリーム」とは
開港当時、横浜には日本全国から一旗あげたいと大勢の若者たちが集まってきて、数多くの事業家が生まれました。また、海外からも夢と冒険を追って、横浜にやってきた人々がいます。それを私たちは「ヨコハマ・ドリーム」と名づけました。

インタビュー・文:渡邊桃伯子

 

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