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書評 「九転十起 事業の鬼・浅野総一郎」 幻冬舎 出町 護 著

by staff on 2015/5/10, 日曜日
 

「浅野総一郎は150万坪を工業用地として埋め立てる計画を神奈川県庁に届け出た。前例のない大規模な埋め立てのため、無謀すぎるという批判も多く、出資を希望する者もいなかった。県からは、なしのつぶてだった。総一郎は何度も県庁を訪れた。私の出した埋め立て計画はどうなっているのですか。神奈川県知事の周布公平はこう言い放った。これほどの大事業、金融機関の確かな人が保証しなければ、許可できない。頼ったのは、日本一の銀行王として有名だった安田善次郎だった。」

そんな大胆な計画をする総一郎はどんな青年だったのだろう。

「14歳の春、養父は “武士なら来年が元服だ。一人前の医者になって、家の手伝いをしてもらわなければ” と言って、東寺唯一の医学書傷寒論を教え込んだ。

総一郎は養父の折檻が怖くてこの傷寒論を猛勉強した。すると、わずか三か月で、暗唱するほどになった。熱の測り方や脈の取り方も習い、養父の代診で患者の家を回った。養父の態度はがらりと変わった。 “総一郎は稀に見る天才だ” と近所に吹聴して歩いた。」

そんな総一郎に事件が起こる。富山にコレラが大流行した。そのころコレラの治療法や消毒法も分かっておらず、病人を治療することの限界を感じた。

「大きなことがしたい。医者の世界には限界がある。やはり商売の世界で行きたい。やりたいことをやろう。生まれ故郷の薮田に戻り、一から出直そう。」

総一郎は縮帷子と呼ばれる夏用の着物を作る工場をや醤油の醸造を始める。少年が経営する商売だったので足元を見られ、採算割れなどでことごとく失敗し廃業を経験する。一六歳で船一艘分の稲抜きの機械を買い付けて氷見の沖合につけたが、これも失敗に終わった。

総一郎が生きていた時代は丁度明治維新の前後である。嫁ぎ先で見込まれはじめた産物会社はうまくいきそうであったが、「今まさに日本は内戦状態、商売どころでなかった。」戊辰戦争が総一郎が販売していたその地域だった。ことごとく商売に失敗するが、総一郎を見込んでいた村の実力者山崎善次郎は励まし続けた。

「金の事は気にするな。はじめから戻ってくると思っとらんね。それより、おい総一郎や、七転び八起きという言葉を知っとるやろ。失敗してもくじけちゃダメや、ちゅうことや。七転び八起きで足りんなら、八転び九起き、九転び十起きでもしたらいいわ。大事なのは起き上がることだ。」「九回転んでも十回起きる。総一郎は山崎のこの言葉を聞いて、奮起できそうなきがしてきた。」

借金取りから逃れるために、白い手ぬぐいで頬かむりして裏に葉の竹藪に潜んでいた総一郎、「家からそっと抜け出したリセは、隠れていた総一郎に近づく。木綿の風呂敷包みを渡す。“おっかちゃん、ありがとう” 総一郎はそれを受け取ると、一目散に逃げた。薮田村の村境を通る際には、さすがに、“もう二度とこの村を訪れることはないかもしれん”と感慨深くなった。沖合に漁火がみえたものの、夜の日本海はどす黒かった。」

浅野の嗅覚は事業化に向けても発揮される。

「ある日、総一郎は横浜の南京町を歩いていると、西洋式の秤を見つけ、立ち止まった。どこかで嗅いだことのある匂い。総一郎は、秤から漂う臭いをかぎながら、店の主人に尋ねた。“コールタールの匂いがするのですが”」

ここでコールタールが鉄に塗ればさび止めになることを教えられる。この時は横浜の瓦斯局が大量のコールタールを引き受けていたのである。浅野はその前には、処理に困っていたコークスをセメント会社に持ち込んで成功していた。そして、錆止め用に使用するコールタールの使用量が少なく困っていた時にコレラが急速に流行した。衛生研究所ではコールタールで石炭酸を製造し、消毒に使えることに成功していた。

「火事に強いセメントに期待が集まった。ところが、深川のセメント工場は明治12年春に、採算が取れずに、操業停止した。鳴物入りの工場だけに操業停止は大きなニュースとなった。総一郎は“国産セメントというのは、日本の近代化のために不可欠だ。操業停止というのはいったい何事だ。俺が経営し、工場に勝を入れたい”と考え、セメント工場の経営に意欲を燃やした。」

「この渋沢が保証します。浅野は三井、三菱のような有名な財閥ではありませんが、大変な努力家です。浅野に払い下げれば、昼も夜も汗水たらして働き、セメントの生産もふえるでしょう」総一郎は改めて渋沢に感謝し、「この人には一生さからえないな」と思うのだった。渋沢とは紡績で成功していた渋沢栄一の事である。

この当時、時代は駆け足だった。「岩崎弥太郎の独占では、日本のためにならない。海運業界でも競争が必要だ。独占企業が勝手に運賃を引き上げるのでは、やはりおかしい。」西南戦争で儲けた三菱商会に渋沢栄一たちは懸念を示していた。総一郎は渋沢を師と仰いでいた。

セメントで成功していた総一郎は、明治26年石油事業を始めていたが、それから15年で散々たる幕引きで撤退した。明治29年2月には外国航路を手掛ける新会社、東洋汽船を設立する会合を開いている。安田善次郎、渋沢栄一などが発起人に名を連ねている。

「アメリカは当時、繁栄を謳歌しようとしていた。1865年に終結した南北戦争の後、石油産業や鉄鋼産業が急速に伸び、1894年(明治27年)には工業生産が世界一となった。白熱電球や電話などが発明され、黄金時代を迎えようとしていた。世界の中心がヨーロッパからアメリカに変わる時代が到来した。アメリカの興隆については、当時の日本の実業家は認識しており、日米航路の重要性を感じ始めていた。」

白石は浅野の娘婿である。「サンフランシスコやニューヨークの街を歩きながら、白石はアメリカの時代を予感していた。アメリカは、スペインとの戦争に勝利し、いよいよ世界の覇権国に躍り出ようとしていた。世界中から大量の移民を受け入れており、活気に満ち溢れていた。白石は得意の英語を駆使して、新聞を読みふけった。特に注目したのは、鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの引退のニュースだ。」いつかは鉄鋼王カーネギーのようになりたいと思い、のちにこの夢を実現し、日本鋼管を創業することになる。

浅野の海運業は順調にいったのではない。1906年のサンフランシスコ大地震が引き金になって、アメリカからの貨物も激滅している。1910年の株主総会で社長辞任は避けられなかったなか、青年株主の発言が飛び出す。「この人以外に、東洋汽船を任せられる人はいないと思います。仮にも天下の浅野社長です。相当な財産を持っています。辞めるより、社長にとどまって責任を果たしてもらいたいと思いますが、どうでしょうか。割れんばかりの拍手があり、浅野は全財産をなげうっても構わないと演説するのであった。

「総一郎の経営の要諦は、現場主義だ。現場で汗をかいて働く人を大切にすることこそが、企業、そして国家の利益につながるという信念だ。時代は、総一郎にとって明らかに追い風だった。第一次世界大戦の影響で、大正4年(1915年)後半から日本経済は飛躍的に伸びた。重化学工業の発展だ。総一郎は大正2年、鶴見・川崎の150万坪の埋め立て事業に着手した。」「これが京浜工業地帯となる。日本が今後、貿易国家として羽ばたくには、工業地帯の埋め立てが必要だ、と安田善次郎に直訴して、資金援助を受け造ったものだ。」

「直接経営に携わった企業や京浜工業地帯だけではない。総一郎的なスピリットはそもそも日本人に具わっていると思う。失敗してもくじけない精神だ。戦後復興を見れば、それは分かる。日本人は太平洋戦争で焦土と化したものの、国民が懸命に働き、奇跡の復興を実現した。そしてその一人ひとりの勤勉さが高度経済成長を支え、経済大国となった。これこそが、“四時間以上寝ると人はばかになる” “人の二倍食べて三倍働く” “稼ぐに追いつく貧乏なし” という総一郎の精神に重なる。」

(文:横須賀 健治)


 

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